第23話 民間防衛
【台湾・台北市街(地下鉄・シェルター)】
2026年6月20日 22:00
暗闇に包まれた台北市街の地下深く。
平時は多くの通勤客が行き交う地下鉄のコンコースは、息を潜める数万人の市民で足の踏み場もないほどに埋め尽くされていた。非常用電源による薄暗いLEDの光だけが、不安に満ちた人々の顔を青白く照らしている。
「パパ、どこに行くの?」
毛布に包まった幼い娘が、父親の袖を掴んで見上げた。
父親である三十代の予備役兵は、娘の頭を優しく撫で、隣に座る妻と無言で視線を交わした。
「少し、外で友達と手伝いをしてくるよ。ママの言うことを聞いて、ここで大人しく待っているんだぞ」
彼は嘘をついた。手伝いではない。数時間前に発令された予備役招集令状に従い、地上で迫り来る中国軍を迎え撃つための防衛線に加わるのだ。
彼は家族を残し、重い足取りで地上への階段を上った。
地下鉄の出口付近には、臨時の武器配給所が設けられていた。
迷彩服に着替えた市民たちが列を作り、次々と軍のトラックから下ろされた弾薬箱から、小銃と弾倉を受け取っている。彼に手渡されたのは、使い込まれたアサルトライフルと、数本の予備弾倉、そして旧式の手榴弾が二つだけだった。
「南の海路が完全に封鎖された。これが君に渡せる全弾薬だ。一発の無駄撃ちも許されない」
配給を担当する下士官が、血走った目で告げる。
地上に出ると、台北の夜空は遠くの空爆による炎で赤く染まり、サイレンの音が絶え間なく響いていた。
本来であれば、今頃はアメリカ軍の輸送機が飛来し、最新の対装甲兵器や医療品が投下されていたはずだった。しかし、日本列島という強固な盾に守られた中国軍の海上封鎖により、国際的な支援は物理的に完全に断たれている。孤立無援であった。
それでも、彼らの目に絶望の色はなかった。
午前中に地下バンカーから発信された総統の徹底抗戦を呼びかける肉声が、彼らの心を支えていた。偽りの平和にすがりついて魂を売った隣国とは違い、自分たちは自由と尊厳のために戦う。その覚悟が、市井の市民たちを兵士へと変えていた。
「我々は一歩も退かない」
彼は手にした小銃の冷たい金属の感触を確かめながら、同胞たちと共に、土嚢と瓦礫で築かれた市街地の防衛陣地へと歩みを進めた。
【東京・首相官邸(危機管理センター)】
2026年6月20日 22:30
台湾の人々が自らの血で祖国を守ろうとしているその時、日本の指導者たちは、自らの保身とイデオロギーを守るために自国民への弾圧を始めていた。
「総理、都内のスーパーやコンビニエンスストアで、食糧や日用品の買い占めによる暴動が発生しています。一部では暴徒化した市民が、配給物資を積んだトラックを襲撃する事態に発展しています」
警察庁長官が、緊迫した声で報告する。
中国軍への無尽蔵な物資提供とエネルギーの強制接収は、瞬く間に日本国民の生活インフラを破壊していた。明日の食料すら保証されないという恐怖が、平和を信じ切っていた国民の理性を吹き飛ばしたのだ。
「愚かな大衆め……! 我々がこれほどまでに平和のために尽力しているというのに、少しの痛みを我慢することもできないのか!」
総理大臣は苛立ちを露わにし、机上の書類を払い除けた。
「警察の機動隊を総動員しろ! 平和維持法を適用し、暴動を扇動する反体制分子を直ちに拘束するのだ! 物資の管理は国家が完全に行い、中国軍への補給ラインだけは絶対に死守しろ!」
「しかし総理、機動隊の軽装備だけでは、飢えに狂った数万の群衆を抑えきれません。かつての自衛隊のように、治安出動で物理的な威圧を行うことも……」
「自衛隊の話など二度と口にするな!」
総理大臣がヒステリックに叫んだ。
「我が国に軍事力は不要だ! この混乱は、かつてアメリカという帝国主義者に依存していたツケが回ってきただけのこと。この痛みを乗り越えれば、中朝と連携した真のアジア平和体制が完成するのだ! 抵抗する者は容赦なく排除しろ!」
最高権力者の目は、完全に狂気を帯びていた。
非武装による平和。その美しい理想の終着点は、外国の軍隊に国土と資源を無条件で差し出し、それに抗議する自国民を国家権力で弾圧するという、最悪のディストピアであった。
外の世界では、中国軍の強大な暴力が台湾を蹂躙しようとしている。そして日本の内側では、無能な指導者による統制という名の暴力が国民をすり潰そうとしていた。
開戦から23時間が経過。D-Dayの終わりが近づく中、いよいよ侵攻の核心である上陸作戦の時が迫っていた。




