音のないプロポーズ 56
それから二人で床に座って、春直は近くのノートを引っ張った。
隣から斗南が覗き込んでいるが、気にしない。相変わらず字は不格好になってしまったが、とりあえず心を込めて書くことはできた。
――結婚してください。
斗南は今度こそ本当に驚いていた。
どうやら、「好き」の意味をプロポーズだと受け取ってはいなかったらしい。斗南が目を小指に向ける。
「でも、春ちゃん…私は」
春直はノートを斗南に渡すと、腕を回して斗南の左手を抱いた。それから小指のリングをそっと抜き取る。斗南は外せることに驚くくらい意外そうな顔をしていたが、抵抗はしなかった。そして代わりに、薬指に指輪をはめる。
春直がずっと渡したかった、婚約指輪だ。
「どうしてこんなの持ってるの…?」
斗南はまたびっくりしていた。
――ずっと前から用意してた。って言ったら引く?
「…そう、なの…?」
斗南は、信じられない思いで指輪を見つめた。本当に夢にも思わなかったようだ。指輪をそっと撫でる。二本のツタが優しく絡み合う、上品なシルバーの指輪だった。
「怒られちゃうよ、お母さんに。それに、相手の方にも……」
言いながら、斗南は春直の腕に抱き着いた。あったかい、と声が漏れる。
「ねえ春ちゃん、結婚って、何するの?」
夢見心地に訊いた。春直も考える。何と言って、何をするのだろうか?
――でも、一緒に暮らせたら、嬉しい。
「あ。そうだね、それは楽しそうだね」
斗南は笑っていた。幸せそうに春直に引っ付いて離れない。春直は斗南の頭を撫でた。
「……本当に、私でいいの?」
一度、深く呼吸をした斗南が、ためらいがちに問う。夢みたいなことじゃなくて、本当に夢なんじゃないか。自分に幸福を得る権利なんてあるだろうか。浮き立つ心の片隅で、罪悪感のもたらす躊躇が、斗南の熱を冷やそうとしている。
――ホッシー以外とは結婚しない。ずっと決めてた。
春直はそんな斗南を強く抱くように、宣言した。濃く描かれた文字が、斗南のためらいを覆いつくす。離さず、幸せへと引きずり込んでいく。
「…言ってくれたらよかったのに」
――断られるかもって。
「断らないよ。……春ちゃんなら」
また指輪を撫でる。これを、春直がずっと前から用意してくれていた。そう思うと嬉しくてたまらなかった。
一生この温もりの中にいたい。もう斗南も、自身を止められない。
――でも、ホッシーこそ、…俺、迷惑
「バッテン」
春直が書きかけたところで、斗南はペンを奪ってそれを消した。
「何回言うのさ。迷惑じゃないもん。春ちゃんのばか」
べっと舌を出す。それから朱に染まる頬で笑って、斗南は春直に抱きついた。
◇
氷影は頬をさすりながら、スマホを見て笑みをこぼした。春直からのメッセージだ。
――結局、言っちゃった。でも、ホッシー笑ってくれた。
「わかってたよ。ほんと、手が掛かるんだから」
一人で呟き、返事を送る。予め考えていた一文だが、送れないことも危惧していた。でも、これでやっと安心できる。
――おめでとう。今日行けなくなったんで、二人で仲良くね。
それから顔を上げて雪に言った。
「ねえ、ハルとホッシー、うまくいったって!」
だが、雪は掃除機を大きな音で掛けながら、振り返りもしない。氷影はまた頬をさわった。
「まだ怒ってる…? ねえ、もう許してよ、ユキ」
雪の前に躍り出る。雪は、まだ腫れの残る氷影の頬を一瞥してから、ふんとそっぽを向いた。
「イヤ。ちゃんと持ってくるまで、私、絶対許さない」
その声は剣呑で、少し前まで氷影が聞いたこともなかったものだ。一方の氷影もまた、使ったこともないような猫なで声で、何とかご機嫌を取ろうと試みる。
「そんなこと言わないでよ。そもそも一回出したものをさ、そう簡単に…」
「勝手なことしたのは氷影さんなんだから、言い訳しない!」
はいっ、と背筋を伸ばした。それから少し、春直を恨めしく思う。
これでも結構、斗南とのことで援護射撃をしたつもりだ。だから、恩義に報いて助けに来るべきじゃないか。だが、それは不可能というものだ。何しろ春直にも斗南にも隠密で行動していたわけだから、当然の報い……、と呼ぶには、氷影としてはいささか不満が残る。
溜め息をつきながらソファに寝転がり、もう一度メッセージを見た。まあとりあえず、二人が上手くいったらしいのは本当によかった。今日でダメなら、もう諦めないといけないかもしれないと思っていた。それくらい、離れようとする二人の決意もまた固そうだった。
だがそれ以上に、互いを思い合っている。そう考えると氷影の方が諦めきれず、そんな折に春直から「退院の後、一人暮らしの練習してもいいって、母さんの許可もらえた!」とメッセージをもらった。二人きりにすれば、どちらかが本音をこぼすかもしれない。春直の決断もくつがえるかもしれない。
最後の望みをかけ、斗南をそこへ招待しようと提案した。願いは駆け込みで、何とか成就されたようだ。
これであっちは、めでたしめでたしだ。
どんな風に告白したのか、非常に気になるところだが、それはまた本人たちから根ほり葉ほり聞き出すとしよう。ただ、こっちは……。
「ねえ、ユキー…」
情けない声を出して、掃除機を片付け始めた雪に近寄ってみる。
どれだけ謝っても、雪の態度はにべもない。
(つづく)




