音のないプロポーズ 43
深呼吸し、母の名前を押す。
それだけで電話が掛かってしまうのが、便利でもあり、時には操作ミスが怖い。今で言えば、もうワンクッション欲しかったのに、いきなりコールが鳴り出して少し怖気づいた。
それから曜日を確認した。うっかりしたかと思ったが、母は土日に出勤するから火、水曜休みが多い。幸いその水曜日だった。
コールが続く。母は出ないようだ。拍子抜けしつつ、ほっとした気持ちもあった。とりあえず一度掛けた。今日の親孝行は終わりでいいだろう。そう気を抜いた瞬間、コールが止んで、母の声がした。
「もしもし」
うわ、と思わず言い掛けて、ぎりぎりで呑みこむ。せっかちな母はもう一度もしもしと言って、返事を急かして来た。
「あ…斗南です。ご無沙汰…してます」
「何よ、改まって」
母の晶子は面倒そうな口ぶりだ。それだけで斗南は後悔した。手っ取り早く断って、電話を切ろうと思い直す。
「どうせいつもの返事でしょ」
それを見越したように、晶子が先手を打った。
「あんた、いつになったら結婚するの。何が不満? 玉井さん、良い方よ。母さん、あんたを一生懸命売り込んで、ようやく縁談に漕ぎ着けたんだから」
スマホから耳を離しても声が聞こえる。斗南は肩をすぼめた。
「それは悪いと思ってるってば…。でも、今はそんな気が持てないの。仕事で――…」
言い掛けて、言葉が続かなくなった。本当に自分は仕事に打ち込みたいのだろうか。今でもそう思っているのだろうか。自問に答えられない。斗南は唇を舐め、己を仕切り直した。
「…お母さんはさ、何でそんなに、私に結婚して欲しいの? お母さんだって仕事好きじゃない。結婚だけが幸せじゃないでしょ…?」
言いながら、自分の本心に気付く。晶子の答えはわかっている。幼い頃からずっと聞いてきた話をするだろう。そしてうんざりしたその話を、今の斗南は聞きたいのかもしれなかった。
「何言ってんの。幸せは結婚あってこそよ」
案の定、晶子は決まり文句を言った。
「男も女も関係ないわ。結婚は幸せの始まり。スタートラインなの。そういう土台があって、人は初めて幸せに向けて歩き出せるのよ」
「そういうもの…?」
「そうよ。前から言ってるでしょう」
晶子は断言した。
晶子の結婚は早かった。
二十二歳、短大を出て社会人二年目という時に、やはり親の勧めで結婚した。職場でお茶を淹れるのも、家で家事をするのも変わらないと思ったのだ。ならば、満員電車に乗るより楽。決め手はそれだけだった。
だが、晶子の両親が持ってきた縁談は、決して悪いものじゃなかった。比野正倫は思いやりに溢れた男性で、晶子はすぐに打ち解けることができた。家政婦を引き受けるような気持ちだった結婚はすぐに晶子自身の望むものとなり、それからの日々は色味が違って見えた。女性は下働きをするものだと植えつけられていたような価値観が塗り替えられ、夫のために家のことをして帰りを待つのが楽しみになった。正倫と囲む食卓にはプレッシャーがなく、毎日会話が弾んだ。
斗南が生まれてからも、それは同じだった。娘は可愛かったが、正倫との子だからこそだ、というのは晶子にとって大きかった。正倫は娘を可愛がった。この子が幸せになるといい、と口癖のように言った。もちろん晶子も同意した。
「正倫さんは、お母さんを幸せにしてくれたわ」
晶子が言った。実感の籠った声だった。
スマホを握ったまま、斗南は父の顔を思い出す。だが、記憶の中の父には、ほとんど表情がない。笑った顔と、微笑んでいる姿くらいしか覚えがなかった。あまり怒らない人だったとは思う。後者は、遺影の写真の顔だった。
その時、斗南はまだ小学生で、学校にいる時に連絡を受けた。もちろんショックを受けたが、それ以上に母が心配になった。晶子と正倫は、子供の目から見ても、互いにかけがえのない存在だったとわかっていた。
死因は心臓発作だった。仕事で外回りに出ていた際、突発的に起こったそうだ。住宅街で、人通りの少ない道だったせいで発見が遅れた。徒歩のため第三者を巻き込むことはなかったけれど、救急車が着いた時には、既に手遅れだったそうだ。
春直の事故について警官から話を聞いた時、相手の心臓発作と知って、斗南は寒気がした。また発作によって、大切な人の命が奪われるのではないかと恐れた。でも、春直は意識を取り戻してくれた。また以前のように一緒に働ける。そう希望を抱いたのに、今は斗南の方がそれを果たせなくなりそうだ。
「なに、あんた。大きなため息ついて」
晶子に言われ、斗南は自分の漏らした溜め息に気付いた。慌てて、何でもないと偽る。こんなことを晶子に言っても、仕事を辞めるいい機会だと言われるだけだろう。
だがその時、斗南にぼんやりとした興味が生まれた。
「ねえ、そのお勧めの人って、どんな方なの?」
「玉井さんのこと? なによ、急に」
晶子は訝しむ声をあげたが、興味を持ったならいいと思ったらしい。すぐに手元から書類を出す音がした。
「年はメールに書いたでしょ。えー、趣味はアウトドア。それから船の資格も取ろうと勉強中だとか。職場も言ったわね…あとは、ああ、下の名前は彬良さんよ」
そうなんだ、と気の無い声になった。悪気があったわけではない。だがどうしても、食指が動くような感触がなかった。
「ねえお母さん。その人と結婚したら、私も幸せになれるのかな」
(つづく)




