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音のないプロポーズ  作者: 神屋青灯
42/60

音のないプロポーズ 42

 

  ◇


 昼間になると、やっと上半身が言う事を聞くようになった。

 よほど強い薬だったのかもしれない。そのお陰か、右足の痛みは引いていた。


 春直は、氷影の残していった紙袋を見た。中には問題集が入っていた。経理に関するものばかりで、数字や表が久しぶりに目に入る。

 一枚、手紙もあった。

――夏の決算の仕事、桃ノ木さんから命令! ちゃんと予習しておくように!

 昨日の帰り、斗南から仕事について訊きそびれたと耳にして、用意したものだった。斗南はちゃんと、やれるかどうかの確認をするつもりだったが、氷影としては復帰させたい。よって強制的に問題集を押し付けたわけだ。

 仕事、か。春直は問題集を開いた。長く触れていなかったわりに、簡単に理解できる。まだ忘れていないらしいことには安心した。

 春直は仕事が好きだ。会社も好きだ。扇雅は少し苦手だが、それでもあの場所は自分の大切な席だった。数字に触れていると、働いている実感がする。大勢でキーボードを叩く音が、共同作業という連帯感を運んでくれる。桃ノ木は信頼できる上司で、不安があってもすぐに相談に乗ってくれる。それからフロアには、春直の希望である斗南がいて、上の階の近い場所には頼れる親友、氷影がいる。仕事に行きたくない日がない、というと、誰にでも驚かれるが、これだけ環境が整っていれば、至極当たり前だと思っていた。

 実はさっき、医師に言われた。そろそろ退院を考えていい、と。

 その話を聞くために早めに来ていた佳之は喜んだが、それは治ってきたという意味ではなかった。これ以上入院していても症状は変わらないから、あとは自宅で療養してくれ、ということだった。

「…あんた、戻ってらっしゃい」

 二人きりになると、佳之はそう言った。当然だ。今の春直に一人暮らしはできない。春直も頷いた。どうしようもなかった。

 その時点で、仕事とて諦めざるを得ないも同然だった。いつ戻れるかもわからない上に、出勤できるようになるかすら定かではない。そして実家から通うには遠すぎる。

 氷影に悪いことをしたなと思った。せっかく気遣ってくれたのに。これからどうなるのだろう。またいつか、職に就くことができるのだろうか。何もしないわけにはいかない、だが、生きがいを感じるような仕事ができるとは思えなかった。

 ふう、とため息をついたところで、ちょうど氷影からメールが入った。昼間に珍しい。軽い気持ちで開いた。

――ホッシー、そっちに行ってる?

 要領を得ないメールだった。平日の昼間だぞ。何かの冗談だろうか。

――まさか。朝、カゲなら来たよ。

 茶化して返した。そういえば、氷影も田舎に帰ると言っていた。理由はわからないが、これから斗南が一人になってしまう。そう思うと、少し心苦しい。

――ホッシーに連絡してあげて。

 氷影はそう返して来た。何かあったのだろうか。それを問おうとしたら、先に次いだメッセージが来た。

――扇雅におかしな噂流されて、ホッシーちょっと立場がまずい。そのせいで早退したらしいんだ。

 心臓が嫌な衝撃を受けた。氷影がこんなことをメールで言うなんて、よほどだ。扇雅。その名前に昨日が思い起こされる。


 春直は慌てて斗南の連絡先を表示した。




 斗南は家に帰っていた。

 他に行くところもないし、人に姿を見られたくなかった。だが、家ですることも何もない。考えてみれば、これという趣味もなく、時間の使い方というものを知らなかった。

 ぼんやりとベッドに転ぶ。

 仕事だけの毎日だった。でも、充実はしていた。いつか大きな仕事も任せてもらえるようにと、頑張る日々は楽しかった。仕事帰りに親友と呑みに行って、休みの日にも時々会って。話をして、冗談を言って、笑い合った。最近は病院に行ける時間を少しでも多く捻出することに尽力していたな。夜もメールを送り合って……あれ、私の今の人生って、二人と遊んでばかりだな?

 時計を見た。

 時間が、まるで過ぎていない。何かしなくちゃ。でも、何も浮かばない。秒針が進むのを眺めても、ひたすら退屈だった。あまりにも時間を持て余しすぎて、暇つぶしの方法をネットで検索したくらいだ。

 掃除。散歩。ずっとしたかったことをする…。どれもぴんと来ないでいると、親に連絡をするというのが目に入った。特に普段から連絡を取っていない人は、持て余す暇があるなら親孝行しなさいと、説教がましく書かれていた。

 はあ、とため息を漏らす。自分で勝手に調べておきながら言うのも何だが、厄介な提案をしてくれたものだ。母になど連絡したら、また何を言われるか。

 だが、去年暮れに帰って以来、半年以上顔を合わせていないのも事実だった。電話も喧嘩になるため、滅多に掛けない。たかがひとつ揉め事の種があるくらいで、とんだ親不孝ものだ。結婚観の違いがあるにせよ、たった一人の肉親に対して、決して好ましい態度ではないだろう。

 かなり億劫ではあったが、仕方ない、と斗南は意を決した。母が良い相手探しに時間を割いてくれているのは間違いない。断ると同時に、お礼くらいは言うべきだ。返事をしていないことが気になってはいた。踏ん切りをつけるいい機会だと考えよう。


 深呼吸し、母の名前を押す。



 (つづく)

 

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