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音のないプロポーズ  作者: 神屋青灯
33/60

音のないプロポーズ 33

 

 その言葉に、息巻いていた春直の戦意がすっと解けた。


 あまりに簡単に済まされて唖然としたのに、百も二百も言えると思ったすべての長所は、春直にとってそこに通じていた。

 安心する。幸せだ。

 斗南といる時、春直の心を包むのはそんな感情だった。

――どうしてわかるの。

「そりゃあ、あんたの母さんだもの」

 それもまた、単純なのに納得のいく言葉だった。春直から怒りが消える。代わりに、素直に疑問をぶつけた。

――なら、何でホッシーがダメなの?

 感情的になっていた自分を落ち着かせて、改めて佳之と向かい合う。

 本当はわかっている。佳之は理不尽なことで、春直を否定したりはしない。確立された意思の元でしか春直を咎めない。でも、だからこそ聞きたくなかった。

 きっと佳之は正しいことを言う。正しい理屈の先に、斗南と結婚するのはやめろという佳之の答えがある。そう知っている限り、どんなに真っ当な理論であっても、耳に入れたくなどはなかったのだ。

「あんた、迷ったでしょ」

 佳之は穏やかに言った。

「今でもそのつもりなのか。すぐに、答えられなかったじゃない」

 それは…。春直の口が動いたが、文字にはならなかった。答えられなかったのは事実だ。

「指輪まで買ったのに、何で迷ったの。怪我のことが、あるからでしょう」

 微かに春直の肩が跳ねた。直永が眉をひそめて言葉を堪えている。

「春直。あの子はあんたに合ってると、お母さんも思う。それに、あんたが好きになったなら、それだけできっと信用できる子だと思うわ。母親だもの。あんたの決めたことを母さんも信じる。でもね」

 佳之が手を伸ばし、春直の手を握る。

「今のあんたには合わない。お母さんはそう思うわ」

「おい、それはどういうことだ!」

 直永が椅子を倒して立ち上がった。目には怒りが浮かんでいる。

「春直の足が動かんから、結婚するなと言うことか! 怪我人は幸せになるなと言うのか! お前、それでも母親か!」

 春直が息を呑んだ。直永の様子は、いつも見る夫婦喧嘩のそれとはまるで違う。肩を張り、目を見開いて気色ばんで、佳之に怒りのすべてを注いでいる。

「何とか言ったらどうだ!」

 春直はうろたえて佳之を見た。佳之は春直の手を見つめたまま、俯いている。いや…泣いている? 背筋に緊張が走った。人の涙は心を締めつける。特に、親の涙は……。

――母さん。

 春直は呼んだ。声にならないのに、佳之は聴こえたかのように顔を上げた。涙を流してこそいなかった。けれど、痛々しくなるほど辛い顔をしている。

「そんなこと言わないわ。春直には幸せになってほしい。当たり前じゃない……」

 佳之の掠れそうな声に、直永も荒げた怒りを少し緩めた。しかし、憤りは治まりきらない。

「だったら、何でやめろだなんて言うんだ」

 佳之はまた少し黙った。そして、直永ではなく春直に向かって訊く。

「春直。あんた、今でもあの子といて、安心できる?」

 言葉を重ねる。

「心から、ほっとしていられる?」

 春直は佳之の目を見た。そこに答えが書かれている。もちろん、安心できる。幸せだとも思える。

 でも――、「心から」。

 心からということは、他になんのてらいもなく、気に病むこともなく、まっすぐ幸せだけを噛み締められるということだ。引け目も、気兼ねもなくということだ。

「結婚するってことはね、相手に荷物を半分持ってもらうこと。一緒に暮らして、嬉しいことも苦しいことも半分こするということよ」

 今度は春直が俯いていた。佳之は続ける。

「もしもこの先、比野さんと結婚したら……、きっとあんたは毎日彼女のお世話になるでしょう。一人で歩けるようになっても、あんたにはどうしてもたくさんのフォローが必要になる。声のことも、一緒に暮らしていれば、困ることが何かとあるわ」

「それが何だ。助け合うのが夫婦だろう。わかっていて、それでも結婚してくれるというなら、いいじゃないか」

 たまらず直永が口を挟んだ

「春直も、そう思える?」

 佳之が直永を見、そしてまた春直を見た。

「助け合うのが夫婦だからと、そう思ってフォローを受けられる? 引け目を感じずに、彼女と暮らしていける?」

 春直は固まった。瞬きも忘れたように、微動だにできなくなった。

 引け目を感じずに。それは…きっと、無理だ……。

「手助けをしてくれる人には、たくさん負担が掛かるわ。でも、それを受ける側も、同じだけ苦しくなる。春直は優しい子だから…きっと辛い思いをいっぱいするわ。お母さん、そんなの見たくないの…。結婚するなとは言わない。でも、あの子はやめなさい。あの子も春直に似て優しすぎる…。それがきっと春直を苦しめるわ……」

 佳之はぎゅっと息子を抱きしめた。ごめんね、ごめんねと声がする。佳之とて、言いたくて告げているわけじゃ決してないだろう。それでも、息子にとっての最善はこの道でないと、心を鬼にしたに違いない。

 その痛みが伝染して、春直は目を閉じた。

 そういえば家を出る時も、佳之にこうして抱きしめられたっけ。あの時約束した。

 ――無事に帰って来なさいよ。

 それにはっきり頷いたのに。ごめんなさい。約束を守れなかった。家族を泣かせてしまった。

 二度と動くことのない片足を見つめ、春直は取り返せない過去を悔やんだ。



 (つづく)

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