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音のないプロポーズ  作者: 神屋青灯
32/60

音のないプロポーズ 32

 

 居住まいを正し直して、軽く呼吸をする。

 それから、うん、と頷いた。


「事故の時、カバン持ってたでしょ」

 佳之もパイプ椅子を引いて座り、まっすぐに座る。実崎家ではいつもこうだ。大切な話は、どちらも気を引き締める。春直はやや緊張していた。

「あんたにも訊かれなかったし、お母さんもちょっと…見るのが辛くてね、しばらくずっと、玄関の段ボールに入れていたの。でも、あんたをずっと支えてたカバンだし、そろそろキレイにしてあげたいと思って、この前、中を開けたのよ」

 どきりとした。別段、見られて不都合のあるものは入れていないはずだが、改めて宣告されると心配になる。大丈夫…だよな? しばらくぶりに中身を思い浮かべた。財布、社員証、仕事のメモ書き用の手帳…よくは思い出せないが、その程度しか入れていないはずだ。

 ――いや…。

「勝手に見たら、悪かったかもしれないけど」

 しまった! ある。見られて困る物があった。そして多分…。

 春直は佳之の顔から一瞬目を逸らし、改めて盗み見た。もう佳之は見てしまったのだろう。小箱の中の…。

「指輪。あんた、プロポーズする気だったの」

「ええっ。そうなのか!」

 直永が歓喜の声を上げた。なんだ、ちゃんと恋人がいたんじゃないか。それも、もう指輪を渡す段階まで来ているとは。直永の頬が自然とほころぶ。

「それで、相手はどんな子なんだ。いや、わかったぞ。あの子だろう、いつも来てくれている、斗南ちゃんだ」

 パチンと指を鳴らし、直永はしたり顔をして見せた。だが、春直には笑い事じゃない。この父親は、何で微妙に勘が良く、そして空気が読めないのか。佳之は歓迎していない。まず何よりそこを察してもらいたい。

「そうなの、春直」

 佳之は変わらず落ち着いた口調で言った。これ以上、誤魔化しようもない。指輪の説明がつかないだろう。斗南本人より前に親に知られたくはなかったが、已むを得ない。春直は腹を括り、ゆっくり頷いた。

「今も、そのつもりなの」

「そりゃあそうだろう、母さん。何を心変わりすることがあるか。あんなに親身に世話をしてくれとるんだぞ」

「お父さんはちょっと黙ってて!」

 ぴしゃりと言われ、直永が鼻にしわを寄せた。ようやく佳之が祝いのムードでないことに気付いたらしい。春直は返答に迷っていた。今も、そのつもりか――。簡単には答えられない。

 氷影には、やめるつもりだと伝えた。だが彼はそれに反対した。氷影は判断を誤ることがない。だから、というのを保険のようにして、また決断を保留に戻した。やっぱり言いたい。そう思った。

 しかし一人になると、自信がなくなった。リハビリが上手くいかないと、自暴自棄になった。斗南といれば、ずっと傍にいたくなる。でも、そのためには言うべきか言わないべきか、わからなかった。今のままでもいいんじゃないか、とも思った。

 言わない方に傾いた。そんな時に、扇雅のことを知った。斗南を狙っている陰湿な先輩。渡したくない、とはっきり思った。斗南は俺の――何だというのか、わからないけど、それでも扇雅よりは自分の方が近くにいるのだ。取られたくない。だが、同時に斗南の気持ちにも気付いた。

 斗南はまだ仕事に打ち込みたい。もっと上に行きたがっている。それを考えると、結婚は明確な足枷でしかなかった。春直たちの会社は男性が多く、ただでさえ女性は「腰掛け」と思われがちな風潮が残っている。実際、結婚や出産を機に女性のほとんどが退社する。だから、女性に大きな仕事は回らない。今、春直が想いを伝えるというのは、そういう枷を背負わせることだ。

 言うべきじゃない。それがわかった。だから、言わなくてもいい。誰にも取られないなら。ずっと今のままでいられるなら、言えなくたっていい。けれど…それでもし、扇雅のものになってしまう可能性があるとすれば……。考えはぐるぐる回るばかりで、答えに行き着かないのだ。

 春直が考えあぐねる姿を見て、佳之はそれを回答とした。そして――。

「あの子はやめなさい」

 佳之ははっきりと言った。

 春直が固まった。直永が目を丸くする。当然、すぐに訊いた。

「何でだ。どうして止めるんだ。いい子じゃないか。何か問題のある子なのか?」

 春直も同じことを訊きたかった。なんで。どうして斗南を否定するの。微かに憎しみに似た感情が芽生えていた。それくらい、斗南をけなされたことが悔しくて腹立たしい。

「春直。あんた、あの子のどこが好き?」

 春直の目が揺れた。また一言では答え辛いことを…。

「そんなの決まっておろう。気が利くし、献身的で、見た目も悪くない。あとあれだ、ファッションセンスというのも悪くないんじゃないか」

「お父さんは黙ってて」

 直永がまた一喝される間に、春直はスケッチブックを自分に向けた。好きなところはいくらでもあるが、言葉には迷う。それに、教えるのがしゃくでもあった。頭ごなしに斗南を否定する佳之に、何かを言って伝わるのか。今は直永の方が、よほど斗南の良さをわかっていると思える。

――ありすぎて書ききれない。

 春直は少し反抗意識も込めて、そう書いた。だが、曖昧にしか言えないんじゃないかと言われたら、思い付く限り書き出すつもりでいた。ひとつでも多く羅列してやる。斗南のいいところならいくらでも言える。百でも二百でも、ページが足りなくなるまで書いてやる。


 佳之は少し春直の文字を見つめて、それから目を合わせ、顔を見た。

 そして静かに口を開く。

「安心するのね、あの子といると」


 その言葉に、息巻いていた春直の戦意がすっと解けた。



 (つづく) 

 

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