音のないプロポーズ 14
夜が訪れると、春直には多くの試練があった。その筆頭は、静寂だった。
結局、直永らも引き上げることになり、夜は一人になった。少し寂しくはあるが、まだ疲労もあるし、寝られるだろうなどと甘く考えたのは大間違いだった。それまでが賑やかすぎたせいか、個室は四人の気配が消えるとすぐにしんとなり、消灯時間後は病院全体が闇のようになってしまった。
他に入院している人間が誰もいないなんてはずはないのに、看護師の気配ひとつしない。そのせいか身体も寒かった。凍えるほどではないが、ほんの小さな隙間風が次第に温度を下げて行く。それでなかなか寝付けない。
もうひとつ深刻だったのは、痛みだ。右足のことは聞いたが、まだ本当に動かないのか、半信半疑なところがあった。安静にしていれば、そのうち動くのではないか、と思えて、もう少し回復したら試してみようとも思っている。
だがその右足から来る痛みだけは、紛れもなく交通事故を自覚させるものだった。これまでの日常で味わってきたものとはまるで別格だ。例えばナイフで刺されたような、ある中心点からくる激痛ではない。転落からイメージする骨折のような、骨や間接を伝う痛みとも違う。表すなら、車に轢かれた足という言葉がもっとも正しく非日常を表現できるような、そういう種類の痛みだった。
言うなれば、今の右足は痛みの貯蔵庫だ。そこから、繋がった身体へと痛みは休まず送り込まれる。身体を捻ろうが息を止めようが、一瞬たりとも痛覚は麻痺しない。逆に、右足を思い切り掴んでも、それによる痛みもなかった。貯蔵庫は春直の一部ではなく、春直に繋がれたただの物体に思えた。
長い夜だった。上半身だけで何度も寝返りを打ち、たまに手を伸ばしてメモ帳を取った。でも、明かりは原則点けない決まりだ。うっすらと見える自分の文字だけでは退屈で、枕元に置いた。時間は過ぎなかった。
◇
「スマホ見たら良かったのに」
翌日の夕方、そのことを氷影たちに示すと、簡単な解決法がすぐに見つかった。
「僕らだって話し相手になるし、それに、読むものならハルが寝てる間に溜めといたよォ」
氷影は含みのある笑みを見せながら言った。それから、事故以来引き出しで眠っていたスマホを見つけ、春直に持たせる。電源が切れていたが、氷影が携帯している充電器に繋ぐと、スマホは息を吹き返した。
「そもそもハルは、文字書くより打つ方が得意だよね」
氷影はわざわざ自分もスマホを出して、メッセージを送ってきた。それで溜まっていた件数が表示される。春直は未読の五百近い履歴に目をしばたいた。
「何しろ、四日もあったからね。ホッシーと散々書いといた。ま、気楽な読み物にしてよ」
氷影は言いながらまた絵文字を追加する。これを追うのは大変だが、楽しい退屈しのぎになりそうだと春直は笑った。
「でも春ちゃん、寝れるようなら寝ないとだめだよ」
斗南がコップを濯ぎ終えて戻ってきた。今日は桃ノ木からの差し入れとして、ジュースとフルーツの小さな詰め合わせを二人が運搬してきたのだ。桃ノ木自身も、頃合いを見て顔を出したいと言っていたと聞き、春直も会いたくなっていた。
「影ちゃんに付き合って徹夜なんてしてたら、治るものも治らなくなっちゃうからね」
「ひどいなあ。僕いつも真っ先に寝落ちする側なのに」
――それ、威張ることじゃない。
「そうだそうだ!」
三人の会話のテンポは完全に戻っていて、こんなツッコミも遠慮なく入れられる。二人といれば、どんなに長い時間も退屈なんて知らないまま過ぎられる気がした。
だが、二人が来られるのは夕方だけ、厳密には会社が終わった後から面会終了までの、小一時間程度だった。
それは仕方のないことだ。会社を休めと言えるわけもないし、その小一時間だって、二人が相当無理して仕事を切り上げて来てくれているのは理解していた。いつも、午後八時くらいの待ち合わせから飲み屋に行くのがちょうど揃いやすい足並みだった。その八時が面会終了のここへ七時前に到着するには、ほとんど定時に仕事を上がらねばならず、当然容易ではないだろう。
昼日中は、佳之や直永も来てくれて、斗南たちといるほどじゃないにせよ、気は紛れた。ただ二人はやはり親であるせいか、春直を楽しませるよりは心配した。別の病院で検査を受けないかとか、こういう食べ物が効くらしいからとか、とにかく少しでも症状を軽くしようとしてくれた。有難かったが、効果が出せないことが心苦しくもあった。
夜は毎日必ずやって来た。
両親が面倒を見てくれる時間と、斗南たちと笑って過ごす一瞬が過ぎると、待ち構えたように春直を襲った。
(つづく)




