10話 交錯する刃
宿の簡素なテーブルで、熱い茶をすする。アキトとリョーコはまだ眠っているが、俺の心は決まった。昨夜、彼らから改めて暁王国の惨状を聞き、アイゼンブルクへ戻って思い知らされた。俺は、このまま逃げ続けるわけにはいかない。
「俺の汚名を晴らし、ゼファーからペンダントを取り戻さなければならない。そのためには、俺はあの砦へ行くしかない」
夜が明け、朝食の席で俺がそう切り出すと、アキトは真剣な眼差しで俺を見つめ、言葉を失っていた。リョーコも、不安げにこちらを見ている。
「キールさん、ここまで僕たちを守ってくれて、本当にありがとうございました」アキトが絞り出すように言った。「キールさんがいなかったら、今の僕はいなかったと思います」
その言葉は、俺の胸に温かく、そして少しだけ痛みを伴って響いた。リョーコも無言で頭を下げる。その瞳に宿る寂しそうな光に、俺は気づかないふりをした。
「お前は強くなったな、アキト。初めて会った頃の、頼りない青年とは違う。リョーコも、その光はますます強くなっている。二人なら、きっと海の王国へ辿り着けるだろう」
多くを語るつもりはなかったが、彼らの成長は確かだった。だが、これ以上彼らを俺の復讐行に付き合わせるわけにはいかない。俺が追っているのは、あまりにも危険な影だ。
「いつか、また会えるだろう」
そう言い残し、俺は立ち上がった。背中に感じる彼らの視線が、少しだけ重い。別れ際に、簡素な地図と、一人の船乗りの名をアキトに渡す。
「海の王国へ行くなら、このルートを通れ。そして、港町ルーンにいる『潮風のジョーンズ』という船乗りを訪ねるといい。腕も確かで、信頼できる男だ。ただ…口は悪いがな」
少しだけ笑ってみせたつもりだが、うまくできていただろうか。
宿の前まで見送りに来た二人を背に、俺は街の喧騒へと歩き出した。朝日が眩しい。力強く踏み出したつもりだったが、どこか心にぽっかりと穴が空いたような感覚もあった。
その直後だった。鋭い気配が、俺の背中に突き刺さる。振り向くよりも早く、その正体に気づいた。間違いない、あの赤い髪、そして疾風狼牙拳の構え。
父上の仇、キール。その行方を追い続け、ついにアイゼンブルクの街中で奴の目撃情報を掴んだ。息を潜めて宿を見張っていると、朝日の中、二人の若者に見送られ、キールが出てきた。あの二人組…。
キールが若者たちと別れ、一人になった瞬間を狙って、私は奴の前に立ちはだかった。漆黒の武道着に身を包み、鍛え上げた拳を固める。朝日に映える私の赤い髪が、怒りに燃えているかのように感じられた。
「キール…父上は、どこへ行った?」
私の声は、自分でも驚くほど低く、そして怒りに震えていた。キールは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにいつものポーカーフェイスに戻る。
「カーラ…」
奴の口から私の名が出るだけで、全身の血が沸騰するような感覚に陥る。
「貴様、父上と一緒だったな!」私は鋭い眼光でキールを睨みつけた。「父上は、どこへ行ったのかと聞いている!」
私の両の拳は、今にも奴に叩きつけられようと震えている。父の最後の瞬間、この男はそばにいたはずだ。何を思い、何をしたのか。
その時、キールは私から視線を外し、先ほど別れた若者たちがまだ近くにいることに気づいたようだった。そして、私と若者たちの間に割って入るように立ちはだかる。
「アキト、リョーコ、行け」
その表情は、先ほどの別れの時とは打って変わり、厳しく、そして何かを決意したようだった。
「カーラ、お前とはここで話すことがある」
「父上…!」信じられない、というより、信じたくないという表情が私の顔に浮かんだかもしれない。父の仇が、何を言うというのだ。
「お前はまだ、真実を知らない」キールは、低い声で言った。「お前たちには時間がないだろう。アキト、リョーコ、早くここを離れるんだ!」
キールの言葉に、あの若者たちが慌てて人混みの中に駆け出していくのが見えた。逃がすものか! だが、キールが完全に私の前に立ち塞がり、彼らを追うことを阻む。
カーラの瞳には、純粋な怒りと悲しみ、そして俺への絶対的な憎悪が燃え盛っていた。今の彼女に、何を言っても無駄だろう。俺が師匠を殺した裏切り者――その一点で、彼女の世界は完結してしまっている。
「どけ、キール! あの者たちも仲間か!」
「カーラ、落ち着け。お前の気持ちは分かる。だが、早まるな」俺は彼女の攻撃を最小限の動きで捌きながら、言葉を続ける。「師匠の死には、お前が知らない多くのことが絡んでいる」
「黙れ! 裏切り者が!」
カーラの拳が、疾風となって俺を襲う。かつて共に磨いた技。だが、今は憎しみだけが込められている。俺は本気で応戦するつもりはなかった。アキトたちが十分に離れるまでの時間稼ぎと、そして、カーラにほんの少しでも「疑問」を抱かせることができれば、それでいい。
「なぜだ、キール! なぜ父上を!」涙ながらに拳を叩きつけてくるカーラ。その悲痛な叫びは、俺の胸にも深く突き刺さる。
「違う、俺じゃない!」
だが、その言葉は彼女の怒声にかき消される。数合打ち合った後、俺は煙玉を使い、彼女の視界をくらませた。
「時が来れば、全てを話す。それまで、お前自身の目で真実を見極めろ、カーラ」
その言葉を残し、俺は街の雑踏へと紛れ込んだ。カーラの怒声が背後で響く。今はこれでいい。だが、いつまでもこうしてはいられない。俺は単独で、ガイウスとゼファー、そしてペンダントの謎を追わねばならない。カーラも、気づいてくれるといいが。その時が来るまで…。
煙幕に巻かれ、キールを取り逃がしてしまった。怒りで全身が震える。だが、それと同時に、キールの最後の言葉が、棘のように心に突き刺さっていた。「お前自身の目で真実を見極めろ」。
あの目…何かを隠しているようで、何かを訴えかけているようでもあった。父上の死、火鉄団の不審な動き、宰相ガイウスの台頭、そしてキールが口にした「ペンダント」。全てが繋がっていないようで、どこかで繋がっているような、そんな感覚。
守備隊長として、私はキールの追跡を続ける。だが、それと並行して、父上の死の真相を、私自身の力で調べ上げる必要がある。公式発表だけを鵜呑みにはできない。
数日後、私は父が残した古い記録の中から、火鉄団が関与していた不審な武器取引の情報を掴んだ。その取引場所とされるのは、アイゼンブルク郊外の古い修道院跡。そこに何か手がかりがあるかもしれない。
一方、キールもまた、独自に集めた情報から、同じ修道院跡で火鉄団と謎の人物が接触するという動きを察知していた。ペンダントの行方を知るための、数少ない手がかりだ。
私たちは、まだ互いの次の動きを知らない。だが、運命の糸は、再び私たちを同じ場所へと引き寄せようとしていた。父の仇として追う者と、汚名を着せられ真実を追う者。二つの捜査線が、再び交差する時は、すぐそこまで迫っていた。




