Ep.6-1 黄金の決意
炎が揺らぎ、薪の爆ぜる小さな破裂音と共に火の粉が舞う。テントの中、焚き火を挟んでエスとダラム老人。
「どちらへ向かっていなさるね?」
第一に為された質問はそれだった。
「帝国へ」
ふむ、と老人は腕を組む。
「この時期に帝国へ向かわれるとは、いかなる事情かな。……いや、答えて下さらなくて結構。それも何かの宿命で御座いましょうな」
ミダがエスから聞いた理由も「宿命」だった。ダラムは何かを知っている様である。
「その籠手を今一度見せて下さらんか?」
エスは従って、左腕を焚き火に掲げて見せた。黄金は炎の明かりを受けて夕焼けの色に輝く。ダラムは目を見開いて凝視すると、やがて視線を落とした。
「やはりのう……」
籠手をマントの内側に隠しながら、エスは尋ねる。
「老人。この力やガントレットについて、何かをご存知なのですか?」
「確かに、知っていますな」
自らの髭に埋もれる様にして頷く。
「十年ほど前、わしは出会っておるのです。貴方と同じく雷を操り、金の装具を纏った者と……」
エスは腰を浮かせた。
「あの男に会ったのですか?!」
声を張り上げる。驚いた様子だった。
「その男は、貴方に何と名乗りましたか? 『神』と?」
「いや、何も名乗りませんでした。兜を被っていたので、顔も解らんのです」
「そうですか……」
座り直しながら眉間に皺を寄せる。エスの過去に縁のある人物なのかと、ミダは想像した。
「貴方の左腕の、その籠手と同じものを右腕に着けていましたわ。逆に左腕は包帯を巻いてましたな。その籠手は、かの者から奪ったのですかな?」
「いえ、譲り受けたのです」
「左様で御座いましたか」
ダラムは腕組みを解いて、胡座をかいた膝に手を置く。エスは老人の目を見据えて、懇願した。
「教えて下さいませんか、その男の事を」
「勿論です。きっとわしは、この話を貴方にする運命にあったのでしょうな」
感慨深げに目を閉じ、ダラム老人は蕩々と語り始めた。
十年前のある晩、この土地に珍しく雷雨が訪れた。ジプシー達が移ってきた丁度その頃である。激しく降りしきる雨は家畜に容赦なく降りかかり、テントの屋根を騒がしく叩いていた。
「父さん、家畜の様子を見てくるよ」
テントの中で居ても立ってもいられなくなった、二十歳そこそこのラムドである。
「大丈夫かね?」
黒いものが混じり、湿気を吸って小さくなった髭を撫でながら、父ダラムは尋ねた。
「平気さ。身籠もってるのが居てね、心配なんだ」
彼は既に立派な族長だ。
「そうか。気をつけてな」
ダラムは隠居して久しい。ここは若い息子に任せる事にした。
ラムドはテントを出て行き、一人残った老人は座して焚き火に当たる。炎を眺めていると次第に瞼が重くなっていった。ラムドが戻るまで眠ってはいけないと、自らを律するが、しかし老体が睡魔に打ち勝つのは難しかった。
いよいよ眠りに落ちてしまうかというその時、テントの中に突風が吹き込み、一瞬の元に焚き火が掻き消された。ハッと目覚めると、そこには闇が広がっている。
火を起こそうと手探りで火打ち石を探すが、明かりに慣れた老人の目には何も映らない。真の闇である。微かな音さえも継続する雨音に埋もれ、視覚も聴覚も奪われてしまった。
広いテントの中でダラムは孤独になった。まるで世界中にたった一人取り残され、何もかもが消え去ってしまった様な錯覚を覚える。息を吸えば暗闇が胸に満ち、吐けば吐息が無に還る。漠然とした死の概念が老人を取り囲んでいた。
不意に、老人の周囲を支配する闇と音とを切り裂いて、雷が落ちた。雷光は目に刹那の光を与え、雷鳴は耳に僅かな空白を与えた。
ダラムは闇の中で目を大きく見開いた。雷鳴に照らされた一瞬の内に、戸口の辺りに立つ人影を見たのである。
「誰だ!」
ラムドではない。
「そこに居るのは、誰だ!!」
闇に向けて叫ぶ。その声さえ、雨音は潰して行く。
暗黒の中を白い蛇がのたうった。蛇は弾けた音を立て、瞬く間に薪へ飛び込む。再び灯が点った。
赤く照らし出されたテントの中に佇んでいたのは、黄金の甲冑を纏った男だ。
「い、いつの間に入った?!」
左腕を除いて男の全身を覆う甲冑はまるで黄金の龍の如く、雄壮な騎士が立ち尽くしていた。
「お前に頼みたい事がある」
騎士は兜の内側から低く、くぐもった声で言った。
「た、頼みたい事……?」
老人は目を白黒させ、騎士は頷く。鎧の擦れる金属音がした。
「伝言だ」
「伝言とは……一体誰に?」
「将来、ここを訪れる者に」
黄金の騎士は腕を組む。
「数年……いや、十年の後、ここに一人の男がやって来る。その男に伝えて貰いたい」
「待て、待ちなさい!!」
突然に現れ一方的に理解し難い事を言う。老人は困惑するばかりだ。
「あんたは何者か? そんな先の事がどうして解ると言う?」
「解るさ」
当然の事だと言わんばかりである。
「それが奴の定め。違える事は無い」
「定めと……?」
「故に、私の言う男は必ずやって来る。しかと伝えよ。『待っている』とな」
「『待っている』? ……たった、それだけか?」
「それだけ言えば通じる。そして伝えるべき相手も、自ずと解るだろう」
男は腕を解く。
「何故わしに? そもそも、十年後まで憶えているか解らぬよ」
老人は困惑していた。フ、と男は笑った。
「忘れないさ」
不意に、男が左腕を突き上げた。その拳から天に向かって雷電が放たれる。テントが吹き飛ばされ、野晒しになった焚き火は直ぐ様消えた。
雷雨は止んでいた。雨雲と共に、黄金の騎士はその姿を消失させていた。
ダラムは茫然自失として、男の立っていた場所をじっと見ていた。まるで悪い夢でも見ていた様な気がしてくる。しかし、遙か彼方にゆっくりと落下する天幕が、夢や妄想の類で無い事を如実に示した。
「父さん!!」
ラムドが駆け戻ってくる。
「どうしたんだい、父さん。一体何が?」
しゃがみ込んで父の肩を掴むラムド。
老人の目には、金色に輝く騎士の姿と稲妻の閃光とが、未だ焼き付いていた。
「……『待っている』……」
エスは目を落とし、沈痛な面持ちで伝言を受け取った。
「この十年間、忘れる事も出来ませなんだが、しかし、とても現実と思えぬ出来事。よもや十年後に、あの者の言う通りになるとは……」
「まさか父の話が本当だとは、私もにわかには信じられませんでした。先程の戦いを見て驚いたものです」
父子は幽霊を見る様な目付きでエスを見ていた。
ミダも、未だに信じられないでいる。エスと同じく、雷の力を持つ男がもう一人居た。だとすれば、神の力を得られるのはただ一人ではないという事になり、ミダの黄金に変化させてしまう指先を持った人間が、この世界には他に居る可能性が出てくる。考えたくない事だ。
「『待っている』とは、一体どういう意味ですかな?」
老人の問い掛けに、エスは顔を上げた。ダラムは続ける。
「宜しければ教えて頂きたい。わしはこの十年間、その疑問を抱き続けてきたのですからな」
「その意図は……」
言うべきか言わざるべきか、迷いながらも答えた。
「……僕の目指す所に、彼は居る。そこで彼は『待っている』のです」
「つまり、帝国?」
聞き返され、ええ、とエスは頷く。
「ううむ。解りませぬな。疑問が尽きない。わしにも解る様に説明して下さらんか?」
返答の言葉を濁しつつ、エスはミダの方をチラリと見た。彼はミダに経緯を知られたくない様だ。そこでミダは口を開いた。
「教えてくれよ。オレも知りたい」
気になるのだ。神の力に纏わるものは全て知りたかった。いや、そんな考えは大義名分に過ぎないのかも知れない。ミダはこのエスという青年の物語を、深く深く知りたいと思った。
エスは溜息を吐き、良いでしょう、と意を決した。
「順序立てて説明をしなければなりませんね。まず、僕は十年前にその男と会っています。その男は自分を『神』と名乗りました」
「神ですと?」
ダラムは目を丸くする。
「では、わしが出会ったのは神だったのか?」
問い返されてエスは頭を振る。
「いいえ。僕が出会った時、あの男は神を名乗った。しかしその後、彼は神である事を放棄した」
「どういう事ですかな?」
エスは籠手に手を掛け、話を続ける。
「彼は僕に言いました。『神になるべきは、私ではなかった』。そしてこの籠手を外し……」
かつて「神」がしたのと同じように、籠手を外して見せた。そこには腕に絡み付く文様。老人は小さく呻いた。
「……僕の左腕にこの力を移した」
「待てよ!」
ミダが声を上げる。
「そんな事が出来るのか?」
エスはミダに顔を向けて答えた。
「何故彼にあんな事が出来たのか、俺にも解らない。だから俺の力は後天的なものなんだ」
あの泉でされた質問の意図が解った。しかし、神の力を他人に譲り渡す事が出来るとは驚くべき事実である。もし自分にも出来るなら、今すぐにでも誰かに譲ってしまいたい。ミダはそう願った。
「そして彼は姿を消した。僕のこの力と、ガントレットを残して」
忌むべき左腕を籠手に隠し、拳を作る。
「こんな力……欲しくはなかった。僕は神じゃない、人間だ。だから、もし出来るのなら、神に返してしまいたい。僕は帝国に『神』が居るという噂を聞いた。だから僕は帝国へ向かっているのです」
え、と聞き返したのは、再びミダだ。
「でも帝国に居たっていう『神』は、その……もう居ないんじゃなかったのか?」
帝国で崇められていた神とはミダの事である。そのミダは帝国を脱走し、そして今ここに居る。その事はエス自身解っているはずなのだから、もう帝国を目指す必要は無くなってしまったのではないか。
いや、とエスは首を横に振る。
「未だに帝国には神が居る。神を名乗っているのは、皇帝自身だ」
「皇帝が……?」
ミダは愕然とした。




