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終末的日常論  作者: 杉下 徹
四章  類
53/54

4-14

 欠点は無いのか? といつか彼方に聞いた事があった。

 脈絡もなしのいきなりの問い掛けに、彼方はしばらく考え込んで。並の人よりも劣っていると感じる部分なら、思い付かないかな、と答えた。

 きっと、それは冗談ではなく。下ノ瀬彼方には、俺の目から見ても欠点というものが見当たらない。だからこそ、問うたのだ。

 それでも、彼方は全ての能力が誰よりも優れている、というわけでは無かった。テレビなどで目にした、暗算の達人や懸垂の世界記録保持者など、明らかにその分野だけに特化した超人の類には、素直に白旗を掲げていたものだ。

 彼方は天才で万能でこそあれ、全能ではない。だからと言って、俺が彼方に勝てると感じた事はない。可乃が何と言おうと、遥香にどう慰められようと、あくまで俺は凡人でしかない。それに変わりはないのだから。

「…………」

 彼方を説得する術が思い付かない。自分がそうしたいのだ、と言われてまで、それでも彼方の決定をひっくり返す材料などあるとは思えない。

「俺が消えて、世界が救われる」

 重苦しい沈黙を埋めてくれたのは、皮肉な事に彼方だった。

「もしそうなるとして、志保にとってそれでは駄目なのかな?」

 返せない。

 駄目だ、と言い切るべきだ。そうでなくては、彼方を説得する理由がなくなる。

 それでも、駄目だとは言い切れない自分がいた。

 彼方は俺の世界の重要な一部だ。だが、一部を切り捨てて俺が、俺の世界が助かるのであれば、そちらの方が結果としては良いのではないか。いや、そういう問題ではない。そもそも彼方が消えれば、世界が救われると決まったわけでもない。

 俺は、この場に至って始めて彼方のしようとしている事、その全貌を知った。まだ自分の中ですら、解決していない葛藤がいくつもあるのだ。そして、最悪な事に、彼方はそれをいとも簡単に見抜く。

「正直ね、俺は志保に止めてもらえるとは思ってなかったんだ」

「俺がそんなに薄情だとでも?」

「情に振り回されるタイプで無いのは、たしかじゃないかな」

 彼方のペースで進んでいく話を、止める事ができない。

「でも、俺が言ってるのはそれ以前の話だよ。志保は、そもそも俺に情なんて抱いていないと思ってたんだ」

「……は?」

 一瞬、思考が止まる。

「俺が消えても、志保は悲しまないと思ってた。だから、遥香には、志保にだけは知っている事を全て話してもいい、って言ったんだけど――っ」

 まともに意識が思考を紡ぎ始めた時には、俺の拳は今度こそ頬を捉えていた。

「……やらせるな、って言っただろうが」

 手に残った感触は意外にも軽く、あっさりと尻餅を付いた彼方を見下ろす。

 今なら、俺を殴った可乃の気持ちが良くわかった。親しい友人から見縊られるというのは、こういった感情になるものなのか。

「殴り合い、はしないよ。俺には、志保を殴る理由がない」

「殴られたから、で十分じゃないのか?」

「殴られて嫌な思いをしたなら、そうだろうけどね」

 頬を抑えながら、どこか嬉しそうに立ち上がる。そんな様にさえも、腹が立った。

「志保は、俺の事を嫌ってると思ってた。もちろん、友人としての関係が全て偽りだったとは言わないけれど、好意と同時に――」

「わかった」

 くだらない話を、その途中で口を挟んで止める。

 別段、間違った論理展開ではない。俺が彼方を嫌う理由は、明確に存在する。

 初めて目の当たりにした、自分よりも明らかに優れた人間。彼方に出会い、俺は劣等感と現実を埋め込まれた。彼方さえいなければ、今でも俺の世界での俺は天才であり続けていただろう。実際、その方が楽しかったかもしれない。

「やっと、お前に上から物が言える」

 だが、俺は気付いてしまったのだ。そして、彼方はまだ気付いていない。

「お前がいなくても、それで俺の位置が上がるわけじゃない」

 彼方が言葉の意味を読み取るよりも早く、言葉を紡ぐ。


「世界はお前が救わなくてもいいよ。それは他の、お前みたいな天才がやればいい」


 言葉が終わるのと、彼方が理解するのはどちらが先だっただろう。その刹那の瞬間、彼方の表情は完全に、そう、例えて言うならば【無】に変わった。

「……ああ、そうかもしれないね」

 気付きとは、機会だ。

 いかなる天才であろうと、論理的な思考では弾き出せない新たな事実の発見。俺が彼方よりも先にその事実に気付いたのは、ただ機会があったからに過ぎない。

 彼方は、紛れも無く天才だ。【無】と羽、そして神の関係性を導き出し、実際に神を呼び出すまでの過程は、俺を含む凡人ではどうしたって辿る事はできなかっただろう。

 だが、それだけだ。世界に数十億を超える人間の中で、彼方が紛れも無いたった一人の頂点だなんて、そんな事があり得るとは思えない。どんな天才にすら、肩を並べる複数人がいて当たり前なのだ。

 俺は、最初からそれをわかっていた。自分よりも上の存在である彼方が現れたから、俺が天才でなくなったのではない。その存在を知ったから、自分の位置がわかってしまっただけなのだ。ゆえに、彼方に出会った事を悔やむ事があったとしても、彼方自身を憎む事などあり得るはずもない。

 だが、最初から俺なんかよりも圧倒的に優れていた彼方は、そんな事にすら気付けていなかった。彼方にとっては、自分こそが他の追随を許さない孤高の天才であり、そして自惚れでなければ、俺に出会った事でその確信を深めてしまったのだろう。

「……まったく、志保を嫌いになりそうだよ」

「やっと、俺の気持ちがわかっただろ」

 涙もない。

 歓喜もない。

 感動など生まれようもない、打算的で利己的な結末。

「好きだよ、志保」

「俺もだ、彼方」

 ただ、男二人の気色の悪いやり取りに、示し合わせたように苦笑した。


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