表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪白幼女は愛を謳う  作者: 湖中蛙
【第1章】楽園編
9/9

第009話「やさしさのかたち」



庭には、穏やかな時間が流れていた。


陽は高く、やわらかな光が木々の隙間からこぼれ落ちる。

揺れる葉の影が、地面の上で静かに形を変えていた。

草の先には、朝の名残の露がわずかに残り、きらりと光る。


葉の擦れる音。

遠くで鳴く鳥の声。

どこかで、水がぽたりと滴る音。


それらが重なり合い、世界はゆるやかに息をしている。


「……できた」


アリスは、小さく呟いた。


両手を、じっと見つめる。

白く、細い手。

だがその指先は、よく見るとわずかに輪郭が揺らいでいた。


ぐに、と。


意識を向けると、指先が変形する。

骨のように硬質な感触を伴って、短い“爪”が生まれる。


「……つかめる」


地面に触れる。

ざり、と乾いた土が引っかかり、わずかに持ち上がる。


数日前まではできなかったこと。

それが、今は自然にできる。


「順調ですね」


後ろから、マリアの声。


振り返ると、いつものように穏やかな表情で立っている。

風が吹き、長い髪が静かに揺れた。


「うん。できるようになってきた」


少しだけ誇らしげに、アリスは言う。

マリアは、ゆるやかに頷いた。


「では、今日はもう一歩進みましょうか」

「もういっぽ?」

「ええ。形だけではなく、働きを理解する段階です」

「はたらき……」


アリスは首を傾げる。


マリアは、少し離れた場所を指さした。


そこには、珠鹿がいた。


白水晶のような角が、陽の光を受けて淡く輝いている。

ゆっくりと草を食んでいるが、その足取りはわずかにぎこちない。

踏み出すたび、ほんの少しだけ体重をかばうような動き。


「見なさい」


アリスは、じっと珠鹿を見る。


風が吹き、毛並みが波のように揺れる。

その胸が、規則的に上下しているのが見えた。


「……まだ、ちょっといたそう」

「ええ。完全には回復していません」


マリアは静かに言う。


「では、もしあの脚を“良くしたい”としたら、どうしますか?」

「……なおす?」

「そうです」


アリスの目が、わずかに輝く。


「できる?」

「試してみなさい」


止めない。

ただ、見ている。


アリスは、珠鹿のもとへ歩み寄る。

足元の草が、かすかに音を立てる。


珠鹿は逃げない。

むしろ安心したように、その場に留まった。

ゆっくりと、顔をこちらに向ける。


「……ねぇ」


そっと声をかける。


珠鹿は、小さく息を吐いた。

鼻先がわずかに湿って光る。


「ちょっと、さわるね」


前脚に手を伸ばす。

触れる。


じんわりと、内側から押し返すような温かさ。

皮膚の下で、筋肉がゆるやかに動いている。


だが、その奥に。


「……へん」


アリスは呟く。


骨の位置。

筋肉の張り方。

どこか、ずれている。


「ここ、ちがう」


少しだけ眉を寄せる。


「……こうじゃない」


その瞬間。


アリスの手が、変わった。


ぐにゃり、と輪郭が崩れる。

指が細く、長く伸びる。

先端は鋭く、より繊細な形へと変わっていく。


“掴む”ためではない。

“入り込む”ための形。


「……なおす」


そのまま、手を押し当てる。


じわり、と。

白い指先が、抵抗もなく皮膚の中へ沈み込んでいく。


珠鹿の耳が、ぴくりと動いた。

風が、ふと止む。


遠くで鳴いていた鳥の声が、途切れた。


「……?」


珠鹿が小さく身じろぐ。

痛みではない。

だが、異質な感触。


アリスの意識は、すでに“中”へ向いていた。


「……ここ、へん」


見える。


歪んだ骨。

断裂した靭帯。

乱れた構造。


「……こう」


アリスは、自分の中で正しい形を組み立てる。

そして、それを流し込む。

内部で、何かが動く。

珠鹿の脚が、わずかに震える。


「もうすこし……」


その手は、もはや手ではなかった。

細く分かれたものが、組織の中を這い回る。


「……ちがう、ちがう……」


修正する。

書き換える。

より良い形へ。


そのはずだった。


「……あれ?」


違和感。


整えたはずの骨が、過剰に膨らむ。

筋肉が、必要以上に増殖する。


「……なんで?」


止まらない。


「……まって」


どう止めるのかが、わからない。


「……マリア?」


振り返ろうとする、その瞬間。


ぶちり、と。


鈍い音が、やけに大きく響いた。


アリスの手が抜ける。


同時に、珠鹿の脚は形を失った。


骨は歪に膨れ、

筋肉は崩れ、

皮膚は内側から裂けている。


赤いものが、土の上に落ちる。

遅れて、鉄のような匂いが広がった。


それはもう、脚ではなかった。


「……ぁ」


珠鹿は、声を出さない。

ただ、呼吸だけが浅く、かすかに続いている。


やがて。


どさり、と。


その身体は、力を失って横たわった。


「……あれ?」


アリスは、立ち尽くす。

理解が追いつかない。


「……なおした、よね?」


返事はない。


珠鹿の目は、ぼんやりと空を見ていた。

揺れる木漏れ日が、その瞳に映っている。


「……なんで?」


一歩、近づく。

触れようとする。

その時。


「アリス」


マリアの声。

静かで、低い。

振り返る。

そこには、変わらない表情のマリアがいた。


「離れなさい」


アリスは、素直に一歩下がる。

マリアは珠鹿に近づき、状態を見る。

そして。


「……」


何も言わず、首に手を当てた。

短い音。


それで、終わった。

完全に動かなくなる。


風が戻る。

止まっていた葉が再び揺れ始める。

遠くで鳥が鳴いた。


「……」


アリスは、動けなかった。


「……しんだ?」


小さく、問う。


「ええ」


あまりにも、あっさりとした答え。


「どうして?」


純粋な問い。


マリアは、アリスを見る。


その目は、やはり穏やかだった。


「あなたの理解が足りなかったからです」

「……りかい」

「ええ」


風が、二人の間を通り抜ける。


「形だけでなく、機能だけでなく、全体を把握しなければなりません」


珠鹿の毛がわずかに揺れる。

しかし、もう二度とアリスの声に応じることはない。


「……なおそうとした」

「わかっています」


マリアは否定しない。


「ですが結果として、壊した」


その言葉に。


アリスの視線が、ゆっくりと落ちる。

動かない身体。

地面に広がる、濃い色。

さっきまで、生きていたもの。


「……こわれた」


ぽつり、と。

少しの沈黙。


「……もどせる?」


マリアは、首を横に振る。


「完全には」

「……そう」


アリスは、じっと見つめる。

風が吹くたび、毛が揺れる。

だが、それだけだ。


「……むずかしい」


そう言った。


マリアは、その様子を見ていた。


(良い)

(順調です)

(失敗も、学習の一部)


土に染み込んだものが、ゆっくりと広がっていく。


「片付けましょう」

「うん」


アリスは頷く。


その声は、いつもと変わらなかった。

庭は、また静けさを取り戻している。

何も変わらないように。


だが確かに。

この場所で。

ひとつの線が、静かに越えられた。

それはまだ、小さな出来事。


けれど確実に。

──命を扱う側へと踏み込んだ瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ