発見!一桁滑り込み
アパートは部屋が四つ埋まっている。ご近所さんは三世帯しかないという事だ。僕は上の階に住んでいて、上下に二部屋ずつ人が住まう。
外に出て真っ直ぐ階段へ向かうと、隣人の部屋に辿り着く。一回目だ。
鼻につんと香りが刺さった。黄色の、草っぽい匂いが通っていく。花粉の感じってこんなだった。それを毎年思っている自覚がある。鼻が痒いんだよな、別に目が痒くはならないのだけど、退勤後に出て来るのなジャージでも何でも着れば良かったと感じている。
まあ、直ぐに終わる用事ではある。リンゴが四つ入ったビニール袋を、ご近所さんに配るだけ。
「……ルールはルール、よし」
一回目。インターホンをカチリと押した。階段の方まで響く高い音が景気よく鳴って、でも、反応は反ってこなかった。
「……明かり付いてなかったのね、鳴らす前に気付きたかった。失敬っ」
僕は辱しめを背中に乗せて、いそいそとドアノブにビニール袋を下げた。貰い物ですと書き留めが入れられているので役目を果たしてくれるだろう。
時刻は既に夕飯時、暗闇に轟くインターホンの音は禁止されてもいないけれど、通りすがり人を不快にさせてしまう目立つ音だ。幸先ぐ悪いぞ、逃亡したくなって来た。
僕は階段を降りる。
「大抵は幸先が悪いんだよ、間が悪いって言うか空気を読み違えるって言うか。平日やることじゃないんだよね土日とかにやるやつかもね、つーか普通は引っ越し初日にすんのよ、何がご近所付き合いだっつって」
タイル貼りは天井で足音が反ってくる。心細さとあいまって鳥肌が立っていた。僕はここで自分の拠点まで引き返せる殊勝さを持っていない。楽しそうだった事を取り止めて逃したくないのだった。これはただの一人遊びだけど、ただの遊びって訳でも、まあ無い。
……僕がそうだというだけで、大した話でもない。
人それぞれだ。
「誰、が住んでるんだっけな。名前、名前……」
小刻みに階段を降りきって、名札の字を思い返していた。
僕はひょろっと長く育った。足がカマキリみたい、で通った時期がある。運動部は小学校で辞めているからかデカくて長いなんて事はない。筋肉は成長から遠ざかり、なんか長くてそそっかしいというのが僕の外見の第一印象だ。
遠くは見える。近くは膝を、肘、額をぶつける。
夜は意識して注意を払わなければならない。
「ッぶな、すみません!考え事してて……!」
「だ、いじょうぶ、です。ギリかすってないですよ……、長い」
僕の頭一個半下に、人。ぶつかりはしなかった。心臓が早鐘を打っていた。
「長い、よく言われるんです。足だけは長いよねって友達も言おんですよ。筋肉無いから頼りないよねって意味なんだよな勝てそうでいいって意味合い。ふざけてるのかなって、ふざけてるんですけれども」
「確かに」
「確かに、は納得いったって事だよ、な……砂林?」
「やっぱり背宮だ。かかったねぇこっち見るまで。お久しぶりです」
居住まいの悪さで口が働いた。僕は後になって状態を察する。トートバッグを肩に掛けた元同級生がそこに居た。
高校を出てから関わりが切れた人々の一人だ。仲は、良くも悪くも普通だったと思う。昔馴染みで長い事関わった記憶はあった。遊ぶ時のグループが同じだった。
「車あるでしょ。フロントガラスに写ってるマスコット、昔からオキニでよく集めてたよね。懐かしいって思ってたんだけど思った通りのまま背宮だとは思わなかった。ここ住んでるんだね」
「シノビコバルトンは殿堂入りなんだって!ずっと見てんだからこっちは。僕はここの二階住み、高校出てからずっとここだよ、え……砂林越してきたの?」
「うん、一ヶ月……半、前くらい?お金貯まったからさあ、実家出たんだよ。全然会わなかったね、背宮。因みに私居たの気付いてた?」
「全然わかんなかった!名札変わってんのもさっき気付いた。入れ替わったの何時だか不明。えー言ってよ、上に居たんですけど」
「女が一人で行けるかぁ、ハードル高いんだぞ。女一人、怖いんだから夜は。気が気じゃないんだって。背宮じゃなかったら私どうなるの。リスキーリスキー」
「そんなもん?」
「そういうもんだよ」
砂林は極めて態度がフラットだ。達観していて落ち着いている。常識的な事を言っても嫌みがない。フッ、と笑う。そうすると含みがあって、意味があるように見えるのだが、実はそう意味もなくフッ、と笑う。
癖なのだろう。今もまた、何か事が起こったから意味ありげにフッと笑った様に見えるけれど、別に何にもなかったのだ。そういう間合いだった。
「嬉しいな、仲良い奴越してきて。自分ルール一回目失敗しちゃったからさ、砂林で良かったよ。もう本当に、凄いんだから。ウキウキ準備してたのにさ、空インターホン鳴らして虚しかったんだもん。砂林引っ越してくれてありがとう、まじ嬉しい。引っ越し祝いこれ、上の階の背宮です。リンゴいっぱい貰っちゃったんで食べきれないんだよ。四個入ってるよ」
「わっかりずらいな背宮、もう。リンゴ?リンゴね、食べる食べる。わざわざありがとうございます」
「やった!ラスト一回、今度はもっと上手く言えると思う。やったやった」
テンションが上向きな内に全部終わりたい。僕は勇んでビニール袋を振り回した。砂林はちょっと、ともどういう事?とも言わずに歩いて来るので、成り行きだけ見ていくつもりのようだった。
女物の革靴がカツンカツンと耳を打つ。仕事してる奴って感じがする。
「……普通に、普通に」
僕は二回目のインターホンを鳴らした。
どうやら今回は最後まで、フィクションが続いたらしい。
「今晩は、夜分すみません二階の背宮です!あの、リンゴって要ります?貰い物何ですけど食べきれないくらい貰っちゃって、ご近所さんに配ってるんですけど。もうどうしようかってくらいずっしり、重くて」
タバコを吸っていた男性は、貰うよ、と快く受け取てくれて、元気かあっていいね、と笑って扉を閉じた。感じの良さ3うな人だった。次に貰い物をしたらこの人にも持っていきたい、もっと早くにご近所付き合いをしても良かった。そう思えた。
「上手くいったよ砂林」
佇んで、ただ横に居た砂林に笑う。
「良かったね。上手くいって……何が上手くいったの?」
「聞いてよ。自分で買って十個、職場で貰って十個、母が置いてったちょっと良いジョナゴールド三個箱入り、コイツらをここ二日で手に入れてしまった訳。すっごい偶然でしょ、でも食べきれないじゃん。リンゴ、こんな持つ事って急には無いじゃん。だから楽しい事しようと思って。ご近所付き合いの挨拶初めてしてみようって思って。一回目は留守でスカしたんだけど二回目は砂林じゃん。三回目は多川さん褒めてくれたじゃん。コンプリート、上手くいったんだって。だからうれしくって」
「フッ……なんだっけそれ」
砂林が目を細めて笑う。知ってる、背宮それやってた。砂林が既視感に笑うのが僕にはわかったので、それがより楽しい。
「自分ルール!三回偶然が起こったら、誰かに電話する。アイデアを出して遊びに行く。僕がずっとやってるやつ」
「別の教室から背宮が走ってくるんだよね、あれかぁ。あったあった」
友人に話しかけるテンプレートは色々あるだろう。流行りの新メニューを一緒に食べたいとあれば「帰りに寄ってこうよ」、何ともなしに時間を潰す相手が欲しいとあれば「今暇か?」ってなもんで、何を言うかは次に何をするかに重く掛かってくるのだ。
僕は一律「ねえ聞いてよ」だ。何かあったら話しかける。子供の頃は探さなくても友人は近くに居たけれど、大人になったらお互いにそうはいかない。日取りの調整何て必要も無かった事が仕事についてからえらく難しくなった。
僕の自分ルールは、自分だけでも遊べるようになっている。
「いいね、それ。背宮っぽい。折角だからLINE交換しようよ。で、私も混ぜて。私も電話する」
「え、いいの?あ、いや全然嬉しい!ギリ二桁いかない番号振れるのも助かる。あんまり増やしたくないんだよね。わかんなくなっちゃうって言うか覚えらんないから。いや……名前にしとけよって話なんだけどスマートフォンは悪魔だからさ、役目を出来るだけ与えたくなくて」
「ギリ二桁って何さ、変なの」
「僕電話番号の登録名、全部数字当ててるから。掛かってきてもさ、本名で出ないよ」
「癖強いなぁ、因みに私は何番になるの?」
笑みを残した表情のまま、砂林は革靴の踵を軸に切り返す。僕は珍しくも、それに追い付いて、スマートフォンを持ち上げた。必死になる必要も無いのに、僕は真剣に必死だった。砂林はこのアパートに越してきたのだ、話しかけるタイミングは揚々あるだろうに。
「九番、ギリ二桁以内」
「ほんとに?……一桁ゲット、プレミア感あるくない?」
「会員ナンバーみたいな言い方」
「ほぼそうじゃん。いいもん貰ったなー」
砂林は態度が極めてフラットだ。他意も何もなくフッ、と笑う。またね、と手を上げて帰って行った。僕は扉が閉まるまで動けなかったけれど、そんな所まで見ている筈もなく、静けさが肩に掛かる。汗をかいていた、何だか知らないけれど。
小声で、聞こえないのを良い事に僕は言った。
「……連絡先増えちゃった。リンゴ様々、リンゴ神じゃんやるなぁジョナゴールド。母に一回感謝しとく……か。ウサギリンゴ以外、切り方あるかな。やってみたい気分なんだよな、スマートフォン……検索機能もお前かよ、もうパソコン買おう。気を抜くと仕事持ってんだからスマートフォン。夕飯、夕飯は、どうしよっかな」
僕は大人になってから、独り言が増えた気がする。




