高内侍
沈景明が部屋を出ていくとき、扉は音を立てなかった。
音がしないから安心するかと言えば逆で、音がしない分だけ腹の虫の声が効かれる。
游花は卓の上にある小石を動かし、わざと音を立ててみる。
カツン、という乾いた音が綺麗な白壁に跳ね返る音が妙に上品で、路地で使っている小石と同じはずなのに、今は別物のように思えた。
「……宮中の音って腹が減る」
つい独り言が口からこぼれ落ち、游花は「しまった」と思った。
宮中では独り言ほど危険なものはない。
だが、独り言に返事はなく、壁も沈黙したままだった。
だからこそ余計に怖い。
その時、扉の外から近づく足音がした。
軽い――急いでいるのに急いでいないふりをしている足音で。
こういう歩き方をする人間は二種類しかいない――恋文を隠している若者か、命令書を隠している役職の人間だ。
扉が開いて、細身の男が顔を出した。
派手な服装ではないのに、縫い目が丁寧で、布の艶が金の臭いをしている。
目つきは柔らかいが、その柔らかさは良く切れる刃を鞘に入れているからだと分かる柔らかさだからだ。
「游花様」
呼び方が丁寧過ぎる。
この世界で丁寧な人間はたいてい怖い。
「……どちら様で?」
游花の問いかけに、男は口角だけを上げた。
「高昭と申します。内侍です。――沈捕頭は、相変わらず手荒でしょう」
「手荒というより、勝手です」
「宮中の人間は皆、勝手ですよ」
さらりと言い切られて、游花は少しだけ救われた。
宦官が宮中を悪く言うのは、魚が水の味を語るようなもので、信じる必要はないが嘘でもないからだ。
游花は竹筒を抱えなおし、わざと素っ気なく言う。
「私、特別でもなんでもないんでしょ。天師の夢に出た顔が何人か居て、その一人程度」
「そうです」
慰める気が無い高速の肯定を游花は鼻で笑った。
「じゃあ帰って良い?」
「それは無理です」
高昭も鼻で笑った。
似ている笑い方だが、意味が違う。
路地の笑いは腹の為にあるが、宮中の笑いは首の為にある。
「――干ばつが来ています。宮中の占術師が死んだ今、誰かが答えを持って来ないと、上は安心できない。安心できない上は、下の首を狩ります。順番はいつも同じです」
「上が安心できないから下が死ぬ」と聞いて「なんだそれ?」と言いそうになった。
言ったところでこの状況が変わるわけでもないので飲み込んだ。
「沈捕頭から、『魃を探せ』と言われました」
「言いましたね」
高昭は短く息を吐いて、それから息を落とした。
さっきまで軽口だったのに、今は「ここらか先は危ないよ」と空気で言っている。
「探せと言っても沈捕頭が探したいのは魃だけじゃありません。彼は現場の人間だから、辻褄を探しています。……困るのは、辻褄が綺麗にそろってしまうことがある、という点です」
「なにそれ? 揃ったら良いじゃないですか」
「揃い方が不自然だと、誰かの手が見えます。見える手は、宮中では危険です」
高昭はそれ以上言わず、踵を返した。
宮中の廊下は長く、長いのに窓が少ない廊下を游花は高昭の
後を付いて歩く。
窓が少ないから時間の感覚が薄くなるし、宮中の香りがずっと同じ濃さで肺を削っていく。
それが自分の呼吸まで監視されているような気がして、游花はわざと一度、大きく咳をしてみた。
「あっ、すみません。宮中の香って喉が渇くんで」
高昭が一瞬、目を細めた。
面白がったのだ。
市井の言葉を面白がってくれる宦官は、少しだけ怖さが薄れる。
「游花様は、路地で生きているんですよね?」
「路地で生まれましたので、路地でないと生きていけないだけです」
と言って、「しまった」と思った。
「路地で生まれましたので」と言うのであれば、貴族、それも後宮の中であれば、そこでも生きていけるという生意気な言葉に聞こえたのではないか、と恐れが出た。
「――で、今からどこへ?」
急いで話題の切り替えにかかる。
高昭は游花の言葉を気にも留めていないのか、すぐに答えた。
「河です。渡し場で死人が出ました」
「干ばつなのに?」
「干ばつなのに――」
その繰り返しが、冗談みたいに響いた。
冗談みたいなのに冗談じゃないから、人は笑えない。
笑いたい冗談なら、それ相応の仕掛けがいるのだから。
宮中を出ると、外の光は眩しかった。
眩しいにも関わらず、暖かくない。
空は相変わらず白く、城壁の上の旗だけが風にピンと張っている。
門から城下へと降りる階段を下っている間、游花は自分の腹の虫が鳴りそうなのを必死に抑えた。
腹が鳴ると、宮中の者は「まぁ、お下品ね」と蔑むが、下品だろうが何だろうが、鳴るものは鳴るのだ。
鳴ったら終わりと思うのは、宮中の人間には多いという話。
宮中に住む人間じゃなくて良かった。
城下へ出ると、匂いが戻ってきた。
汗と油と焼けた土と魚とか、まぁいつもの路地の匂いに近いやつだ。
ただ今日はそこに、腐りかけの水の臭いが混じっている。
水は少なければ少ないほど、淀みが濃くなり腐っていく。
河へ向かおうとした瞬間、游花は沈景明をすぐに見つけることができた。
人だかりの渦の中に黒い背中があり、その背中の周りだけ空気が固い。
捕頭が立てば、そこは勝手に事件現場になってしまうのだろうか?
沈は游花を見ると、眉だけで「来い」と合図した。
口で言うより横柄で、しかし口で言うより静かに。
「遅い――」
「知ってます? 宮中の廊下って長いんですよ。迷子になりかけました」
「迷子になるほど広いなら、逃げ道も多いだろうな」
沈の言い方が淡々としていて、游花は思わず笑いそうになった。
捕頭が「逃げ道」を語ると、助ける話ではなく捕まえる話に聞こえる。
「捕頭様、怖いことを言わないでください。私、足が遅いんですよ」
「知ってる。だから、走らせる」
言い方が最悪過ぎて、游花は少し笑ってしまった。
笑った後で、自分が笑ったことに少しだけ腹が立った。
こんなところで笑っている場合じゃないのに、沈があまりにも当然の顔で酷いことを言うからだ。
だから游花は抗議の意を込めて、口を一文字に締め沈の後ろを付いて歩く。
河に着くと、そこには人だかりができていた。
「見ろ」
沈に「見ろ」と言われて見た先には、河と呼ぶには心許ない水の流れがあった。
元は水底にあったのだろう石が顔を出し、そこの泥はひび割れ、その割れ目にそうように細く水が残っている。
その水際に、人が仰向けになって倒れている。
服は濡れ、髪にはまとわりつき固まった泥があるのだが、河の水は膝にも届かないくらい浅い。
「これで溺れるか?」
低い声で言う沈に游花は黙って近づき、死体の顔を見た。
その唇は紫ではなく、乾いて割れていた。
目は見開かれ、驚きの形で固まっている。
游花はしゃがみ、死体の指先を見た。
指は何かを掴もうとして、掴めずに固まっている。
掴みたいものがここにあり、そして逃がした。
「……沈捕頭。この人、溺れたんじゃない」
「じゃぁ、何だ?」
「引きずられた」
游花は言ってから、思い直して少し言い直す。
「引きずられたって言うと大げさですね。……持っていかれた。水の中にではなく、水の下に」
泥の上を指さす游花の言葉に、沈が眉を動かす。
指の先には、何かを引きずった跡ではない、細い、細い、爪の先で丁寧になぞったような線がある。
「これ、なんの跡ですかね?」
沈は答えない。
代わりに、周りの者を散らすように短く命じ、游花のそばに一歩だけ寄った。
寄り方が、守るではなく、逃がさない圧があるのが捕頭らしい。
「占え」
「えっ? ここで?」
「ここで。今すぐ」
「ちょっと待ってください。私、こういうの気分と腹の具合で――」
沈の目が「ふざけるな」と言ったので、游花はそこで折れた。
折れるところを間違えると死ぬのは、路地でも宮中でも同じだ。
游花は竹筒を抱えなおし、銅銭袋を開ける。
指先に、角の丸まった小石と銅銭の冷たさが伝わる。
右手に銅銭、左手に小石を乗せ、息を整える。
息を整えるついでに、チラリと沈を見た。
捕頭という存在が服を着て歩いているような、真面目でお堅いというのがこの少ない期間、行動を共にして感じた人柄だ。
そして同時に、真面目だからこそ壊れやすいかもしれない、という危うさも感じられた。
だから少しでも力を抜かせた方が良いと思い、游花はわざと軽く言った。
「先に言っときますけど、当たらなかったら捕頭さまが責任取ってくださいね。私の首は一本しかないんで」
沈の口元が、本の少しだけ笑うように動き止めた。
「……外したら、次は外さないように占え」
「ひどい」
游花は、わざとらしく舌打ちをして、銅銭と小石を放った。
嫌に乾いた音が地面に広がる。
跳ね返る音の向こうで、河の臭いが一瞬だけ変わった気がした。
腐りかけの水の臭いに、古い――錆びた鎖のような臭いが混ざる。
游花は息を吸い、乾きザラついた喉の奥から低い声で言った。
「上です。上流――上流で誰かが何かをやっている。だから水が腐る。だから人が持っていかれる」
沈の目が刃物のように鋭くなる。
「案内しろ」
游花は占い道具を拾い上げながら、浅い水面に映った白い空を見た。
空は相変わらず白く、白いまま、雨を落とさないでいる。
「……ねぇ、沈捕頭」
游花は立ち上がり、靴についた泥を払っていった。
「上流に行く前に、ひとつだけ。私の靴、高かったんですよ。泥でダメにしたら弁償してくれます?」
沈は一拍置いて、ため息みたいに言った。
「……生きて帰れたなら」
冗談みたいなことを、冗談ではない顔で言う。
それに游花は笑うしかなく、笑いながら喉の奥の渇きがずっと痛いことに気づいた。
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