替りの占い師
下町の路地は朝から煮えた油の臭いと、湿った土の匂いが混ざり合っていた。
蒸し器の湯気が軒先に漂い、魚の鱗をこそげ落とす音と口げんかの罵声が重なり、その喧騒の真ん中に、占い机だけが場違いなほど静かに置かれていた。
机といっても、捨て値で買った板に足を四本付けただけの簡素な代物で、墨壺の跡が残り、端が一か所割れている。
そんな板の上に布を一枚敷き、河原で拾ってきたような丸く磨かれた石に、竹筒に占い札を立てれば――それだけでそこは占いの場となった。
游花はその占いの場――雰囲気を作るのがとても上手かった。
その店主たる占い師の游花は近くの馴染みの飯屋から買った白湯のような粥を食んで客を待っていた。
しかし、人の視線はなぜか布の上に吸い寄せられる。
布のシワが川の流れに見え、好い加減に置かれただけの銅銭の光が星の瞬きに見える。
誰もが忙しい振りをしながら視線だけを向け、ひと息の間だけ生活の騒音が薄まる。
そして、そんな雰囲気に引き寄せられた客が来る。
「ねぇ、先生。うちの亭主、また賭けに……」
汗ばんだ手のひらから銅銭数枚が占い場に置かれ、中年の女が声をひそめながら言う。
游花は薄い笑みを浮かべ、相手の目を見ないように――見れば救いを約束したくなってしまうから見ないように答える。
「賭けはね、止めるものじゃないんです。流れを変えるものです」
言い回しがほんの少しだけ芝居がかっている。
路地の占い師に必要なのは真実よりも、「聞いた気になる」ことだと、游花は随分と前に悟っていた。
磨かれて角の取れた石を三つ、女の手のひらに乗せた。
「これを握って、息を三つ。――吐く方を長く」
女の域が乱れ、頬の肉がぷるんと震えた。
游花は女から石を受け取り、指先で弾いていくとカチリカチリと乾いた音が、路地の喧騒の隙間に立ち上がった。
「亭主は――勝てないから賭ける。勝てると思って賭けてるんじゃない」
女は眉を寄せ、反論を口にしかけて言葉を呑んだ。
「勝てない」と言われて否定できない目だった。
「今夜、買えりが遅いでしょう。遅いけど、帰ってくる。酔って。そして、怒鳴る。――でも、手は出さない」
女の肩がふっと落ちた。
游花はそこで最後に一つだけ釘を刺す。
「代わりに、明日の朝、亭主の財布を一度だけ握って。中身は見ないで。見たら欲が出る」
「……財布を?」
「財布は、運命の袋です。握るだけで良い」
女は何度も頷き、礼を言う。
しかし、游花は礼を返さず、銅銭を布の端に滑らせる。
例を言うと占いは急に商売の空気をまとい現実となり、現実になれば路地の神秘は消えてしまう。
女が去り、次の客――やせた少年が恋の占いを持ち込み、游花は特に考えもせず適当に「東の川沿いの柳の下」と答えると、少年は青い顔で走っていった。
その辺りで、背後から影が差した。
日影が濃くなった。
游花には、客の顔ではなく影の形で相手を測る癖があった。
影がまっすぐで腰が高く、靴音が軽い。
路地でよく見る兵の歩き方ではなく、役所の人間の歩き方だ。
「辻占いの游花だな」
声は若かった。
若いが、言葉に遠慮がない。
游花はゆっくりと顔を上げると、そこには黒い衣に腰の短刀、胸元には小さな札――官の者だと分かる印がわざと見えるようにつけられている男が立っていた。
「誰です?」
「沈景明。捕頭だ」
捕頭――刑事の頭のようなもの――と聞いた瞬間、周囲の空気が一段冷えた気がした。
占いの見物人が散り、商売人の声が少し落ちる。
路地に役所の臭いが少し混じった。
游花は視線を布に落とし、銅銭を一枚指で転がした。
転がる銅銭の縁が光り、沈景明の目がその光に一瞬だけ引き寄せられる。
「捕頭様が、こんな路地にどのようなご用件で? 盗人でも逃げ込みました?」
「盗人なら斬って終わりだ。お前を探していた」
「探していた」という言い方が悪い。
動物を捕まえる時の言い方だ。
「……私に何の御用で?」
「干ばつだ」
沈は言い切った。
その言葉にためらいが無かった。
游花はその言葉の重さを受け止めるまでに、ほんの半呼吸ほどの時間を要した。
干ばつ――路地の人間には腹の問題で、王宮の人間にとっては首の問題だ。
「私に雨を降らせろ……と?」
「雨じゃない。原因を探れ。――先代の天師が残した。お前たちに渡せ、と」
沈は懐から一枚の薄い木札を取り出した。
古い墨の匂い、府の焼けた痕。
游花が指先を伸ばす前に、沈は札を引っ込めた。
「話は歩きながらだ。来い」
「待って――」
游花の声は、路地の湿り気に吸われた。
「嫌なら、ここで捕らえる」
冗談ではない目だった。
捕頭という肩書が、冗談を許さない。
游花は布を畳み、銅銭を懐に放り込んだ。
竹筒を抱え机の脚を蹴って畳む。
客も誰も助け舟を出さない。
役所の人間に関わることは生活にかかわる。
それが路地の掟だった。
「……捕頭様。私、今日の晩ごはんの算段もまだで」
「宮中の飯は不味いぞ」
そこで初めて、沈の言葉に軽口が混じったが、游花はそれを鼻で笑う。
「不味いなら、私は戻ります」
「戻らせない」
游花はため息を吐いて、沈の背中を追った。
表通りに出ると空が一段と広くなり、市の真ん中の喧騒が耳を打つ。
荷車の軋み、馬の嘶き、香辛料の匂い、その匂いの奥に焼けた土のような臭いが混じっているのに気づいて、游花は喉の奥が渇いた。
干ばつは、すでに始まっている――。
王城へ続く道は石畳が整い、路地の泥が消えた。
その代わりに、足音が妙に響いている。
沈は早足で、游花はそれに少し遅れて小走りで付いていく。
相手のことを何も考えていない歩幅であるにも関わらず、沈は一度も振り返らない。
振り返らないのに、游花が逃げないことだけは、最初から信じているような背中だった。
城門の前で沈が小さな札を見せると、兵が道を開けた。
游花が門内に一歩踏み入れた瞬間、空気が一気に変わった気がした。
香の匂い。
磨かれた木の匂い。
汗と油の臭いが薄く、しんと静かだ。
「ここは路地ではない」と、体が先に理解した。
通されたのは豪奢な客間ではなかった。
壁は白いが飾りが少なく、間とは高くて外が見えない。
まるで、外を見せないように作られているとしか思えない部屋だった。
「座れ」
沈に言われるが、游花は座らなかった。
座れば客になり、命令が正当化される。
そういう線引きを、游花は路地でずっと覚えてきた。
それを見た沈は短くため息を吐き、木札を卓の上に置いて、游花の前へ滑らせた。
「先代の天師が最後に書いた夢占いの記録だ」
そこに並ぶ文は短いのに、読んだ瞬間、背中の汗が冷たくなる。
【水が割れる。糸が切れる。女が笑う。髪が乾き、土が鳴る】
「これが夢……?」
「夢の写しだ」
沈は声を落として言った。
「高内侍が言った。『捕頭、拾った占い師を集めろ』、と」
宦官――宮中の中枢に近い者。
捕頭がその名を平然と口にすることが、游花には妙に現実味を持った話に思えた。
路地の噂話などではなく、ここではこれが日常なのだ。
「捕頭さま、宦官とつながりがあるんですね」
「仕事だ」
この短い返事の中に、言えない事情がぎゅっと詰まっているのだろう。
游花は竹筒を卓の上に置いた。
ここで怯えたまま立ち尽くせば、占い師としても、人間としても終わってしまうだろう。
自分の場所は奪われてしまったのなら、さらにその上に新しい場所を作るしかない。
路地の机でもやって来たように。
卓の上に磨かれた石を転がすと、布が無いからか幾分か響いた。
響きは白い壁に跳ね返り、何度も戻ってくる――雨の前の雷のように。
「私に何をさせたいの?」
「魃を見つけろ」
迷わず放たれた沈の言葉に、游花は笑ってしまいそうになった。
干ばつを起こす怪異。
昔話の中の女。
笑わなければ魃探しが始まり、笑えばここで全てが終わる。
游花は笑わず息を整えた。
「――時間がない」
沈の声が低くなると共に、卓上の木札が急に重く見えた。
「三日後に雨乞いの儀式だ。『外形だけでも整えろ』と上が言っている。だが、儀式は芝居じゃない。原因が残っていれば、儀式は嘲笑になる」
雨乞いの儀式は国を挙げての神事だ。
それはつまり、失敗は国家存亡の危機に見舞われるからである。
「……見つけたら?」
魃を。
そして、それを見つけた場合の私を。
その両方で聞いたつもりだが、多分、沈捕頭は魃のみの処遇にしか興味がないのだろう。
「殺せ、と言われている」
そう言い、沈は一呼吸置いた。
「だが、殺すべきではない、とお前が判断したのであれば、その理由を探せ」
游花はその言葉を一度、胸の中で転がした。
人は行き詰まると藁にもすがるというが、今がこの人にとってのその時なのだろう。
游花は椅子に腰を下ろした。
この雰囲気に負けた訳ではなく、この場を、自身の動きやすい環境に変えるため――路地の机をこの部屋の卓に再現するため。
銅銭を三枚、磨かれた小石を三つ卓の上に置く。
布が無いから音が硬い。
沈が黙って見つめる中で、游花は息を整え、銅銭と小石を弾く。
「――占いは答えを出すものじゃない。質問を正しく整えるものです」
沈は眉をわずかに動かした。
「沈捕頭」
役職で呼ばれた沈は、顔を上げた。
「魃を探すなら、まずその原因を見なければいけません。――干ばつでまず乾くのは土じゃない。人の欲です」
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