Ep.70 不穏な余興
ヴィクトリアの悪阻が落ち着き、無事に安定期に入った。
体調を崩し寝込む彼女の姿を見る度に胸が痛み、何度も侍医に詰め寄ったが、「これが普通でございます」と一蹴されるばかり。
私に出来ることは何もなく、ただおろおろと狼狽するだけだった。
……こんなにも辛く苦しい思いをして私を産んでくださった母上や、今まさに我が子を腹の中で育てているヴィクトリアに、感謝の念が絶えない。
王妃が懐妊し、安定期に入ったことは正式に公表された。
帝国からは祝辞と祝いの品々が届き、他国からも続々と祝福の書簡が到着している。
国内貴族たちからも祝福の言葉をかけられたが、どこまでが本心なのか、私には分からない。
最近、貴族院の会議で『側妃』を望む声が目に見えて増えてきた。
「他国出身の妃一人では、国内貴族たちの求心力が保てない」と、尤もらしい理屈を並べてはいるが、本音は次代の国王の外祖父として権勢を握りたいだけだということは明白だった。
先日はセシリア⸺⸺ブランシェ女侯爵が痛烈な皮肉で彼らを射竦めてくれたおかげで、『側妃推進派』は場都が悪そうな表情を浮かべ、その場は大人しくなった。
だが、それもいつまで持つか……。
帝国の皇女が王妃となり、世継ぎを宿しているというのに、なお『側妃』の話題が出るということは、私が国王として軽んじられている証拠なのだろう。
更に、クララという前例があることも奴らを後押ししているのだ。
セシリアへの不当な婚約破棄や、『側妃候補』だったクララが引き起こした事件。
それらが私の消えない瑕疵となり、足をすくう隙を与えている。
臣下であるはずの貴族たちとのやり取りが、こんなにも心身を削るものだとは思わなかった。
分かってはいたはずだったが、本当の意味では理解していなかったのかもしれない。
父上もこんな思いをしていたのだろうか?
私は重い足取りのまま、会議室から執務室へ続く回廊を歩いていると、突如として突風が吹き抜け、視界が遮られた。
咄嗟に目を閉じ、風が止むまで立ち止まる。
荒ぶる空気が収まり、そっと目を開くと、目の前に浮かぶ白い何かが瞳に映りこんだ。
ひらひらと空を舞い、ゆっくりと床に落ちたのを拾い上げる。
それは質のいい生地が使われているハンカチだった。
レースで縁取りされており、隅にはカルミアの花の刺繍が施されている。
「あっ……!! へ、陛下……!」
庭園の方から声が聞こえたと思ったら、侍女を連れた一人の令嬢が、申し訳なさそうに寄ってきて深くカーテシーをした。
「突然お声をおかけし、申し訳ございません……あの、そのハンカチは私の物でございます。 先ほどの風で飛ばされてしまいまして……」
「あ、ああ。 すまない、足元に飛んできたのだ」
私は侍従を介して、彼女にハンカチを返した。
「あ、ありがとうございます。 陛下のお手を煩わせてしまい、申し訳ございません」
「其方はどこの令嬢だ? なぜ、こんなところにいる?」
ここは国王の執務室の近くにある小さな庭園だ。
最低限整えられてはいるが、見栄えする花が咲いているわけでもない為、普段こんなところに立ち入る令嬢はほとんどいない。
「も、申し訳ございません! 私はスターリング伯爵家が長女、カルミア・スターリングと申します。 国王陛下におかれましては、お目にかかれて光栄に存じます」
「なるほど、スターリング伯爵の……」
スターリング伯爵家は宰相の家門で、今は彼の弟が当主となっていたはずだ。
「はい……本日は父について参りまして……その、道に迷ってしまい、こちらに辿り着きました……」
少しくすんだような薄ピンクのふわふわの長い髪に、カーネリアンのように煌めく瞳を持つ彼女はおどおどしながらも、懸命に私の問いに答えた。
「……そうか。 会議は終わったから、すぐに伯爵が迎えに来るだろう」
「あ、ありがとうございます」
彼女が深く一礼したのを視界の端で捉えると、私はその場を後にした。
「……今回は失敗だったかしら? でも、初めての出会いなんてこんなものよね」
その後ろ姿を、ギラギラと輝くオレンジ色の瞳で見つめられていたことにも気付かずに……。
⸺⸺⸺
「妃殿下……陛下の周囲に忍ばせている者から、ご報告が参りました」
「あら、何かあったの?」
ソファで少し膨らみ始めたお腹を愛おしむように撫でていると、侍女が耳元で囁いた。
「会議室近くの回廊で、陛下に接触した令嬢がいたそうです」
「あら……どちらのご令嬢?」
「スターリング伯爵家のカルミア嬢とのことでございます」
スターリング伯爵家……。
あそこは確か、熱心な『側妃推進派』だったはず。
大方、自分の娘を売り込む為に、人が寄り付かないような回廊をうろつかせたのだろうけれど。
『側妃』を勧める貴族家は、大体が伯爵家以下……特に下位貴族が多い。
レイヴンクレストにおいて、『正妃』の資格は原則『侯爵家』以上と決まっている。
下位貴族と高位貴族では、基本的に身につける教養内容が違う。
それは教育にかけられる金銭的な問題だったり、果たさなければならない義務の大きさが違うせいだったりと。
伯爵家はその家の財政状況にもよる為、一概にどっちとも言えない。
お姉様がいい例だけれど、高位貴族の令嬢でも王族教育は長い時間を費やす。
それが下位貴族の令嬢だったら……まず王族教育まで辿り着くのに、どの程度の時間がかかるか……。
けれど、『側妃』は違う。
王妃ほど公務を担うこともさほどなく、ある一定の教養と『貴族の血』さえあればいい。
最近五家となった侯爵家や公爵家三家、そして賢い貴族家は、帝国の影響力を鑑みて愚かなことは口にしない。
スターリング伯爵はいつもニヤニヤとしていて、卑しさが顔に滲み出ているような男だ。
都合の悪いことを指摘されただけで、怒りで顔を真っ赤にしたりと、すぐに感情が表情に現れる。
そんな小物など何とでも出来るけれど……。
ただ問題なのは、今回のことに『宰相』が関係しているのか?という点。
宰相の指示に従って、あの愚か者が動いているとしたら……。
少々、面倒なことになるかもしれない。
ギルバート・ファルケンハイン⸺⸺。
帝国皇太后であるお祖母様と異母姉弟であり、代々宰相や大臣を多く輩出する名門ファルケンハイン侯爵家の当主だ。
私と王家の間で結ばれた『契約魔法』の内容を知っているかまでは知らないけれど、私が王妃となることを良くは思っていなかっただろう。
……かと言って、私以外に選択肢はなかったのだから認めざるを得なかったでしょうけれど。
常に冷静沈着な鉄の仮面を被り、こちらに感情を読ませない。
さすが、一国の宰相を務めているだけのことはある。
もし、これが彼の描いた絵だとしたら……。
「……まあ、それも一興ね」
私は目を細め、昏い愉悦を孕んだ笑みを浮かべた。




