Ep.57 不要の証明
俺は、何をしているのだろうか?
ぼんやりとしていた意識が引き戻され、周囲を見渡すと、床には酒瓶やデカンタが無残に転がっていた。
部屋の内装から、ここが王都邸の執務室であることを辛うじて理解する。
灯りはついていないが、室内は沈みゆく茜色に染まり、長く伸びた影が俺を侵食していた。
残光から逃れるように、執務机を背にして床へだらしなく座り込む。
手に持った酒瓶の中身は、とうに空だ。
ここまでどうやって戻り、いつから飲み耽っていたのかさえ覚えていない。
……辺境伯騎士団の連中には、絶対に見せられない姿だな。
王城での出来事は、今でも悪い夢なのではないか?と思うほど現実感がなかった。
セオドリックが俺の異母弟であると知った瞬間から、誰の顔も直視出来ず、セシリアたちの声は遠い背景音楽のように響くだけだった。
気付けば俺の辺境伯爵位は剥奪され、セシリアとの離縁も決まっていた。
「ハッ……!」
自嘲の声が、独りの部屋に虚しく響く。
王命で婚姻させておいて、またしても王命で離縁させる。
何とも勝手な話だな。
だが、離縁になった原因は俺にある。
婚姻してから間もなく三年が過ぎる。
『白い結婚』が認められるに十分な年月だ。
婚姻させられ、半年以上も放置した。
そこから、まともに顔を合わせたのは数えるほどだ。
何を失うとしても彼女だけは失いたくなかった……。
今更、遅いと分かっていたとしても。
上手く回らない頭で後悔をなぞっていると、扉を叩く音がした。
声を出すのも億劫で返事をせずにいると、ガチャと音を立てて扉が開いた。
入って来たのは家令のウォルターだった。
「……旦那様。 湯を浴びて身なりを整え、お食事を召し上がってください」
「……何の為にだ……」
もはや、辺境伯ではなくなる。
それなのに、身なりを整えて誰に見せるというのだ……。
「……先触れがございました。 奥様とセオドリック様がお見えになるそうです」
ウォルターの声に、心臓が跳ねた。
「はっ! もう、俺を追い立てに来たか!!」
吐き捨てるように言ったが、ウォルターの表情は一分も動くことなく険しいままだ。
「詳細は分かりかねますが、今後についてでしょう。 ……旦那様。 あなたは、まだトレヴァント辺境伯なのです。 その地位に相応しい振る舞いを、最後までなさいませ」
奥歯を強く噛み締めると、ギリッと音が鳴った。
言われるがままのろのろと立ち上がり、言われた通りに湯を浴び、髭を剃り、清潔な服へ着替える。
執務室へ戻ると、ウォルターが温かなスープを用意していた。
ドサリと執務椅子へ体を投げ出すと、ウォルターは片付けられたデスクの上にトレイを置いた。
部屋の至る所に転がった酒瓶を見て、胃に優しいメニューを選んだのだろう。
食欲などなかったはずなのに、湯気と共に立ち上がる香りに急に空腹を覚えた。
スプーンで口に運ぶと、その温かさが強張っていた体を緩ませた。
……皮肉なほど美味かった。
食べ終わり、しばらくすると外が騒がしくなった。
……来たか。
執務室の扉を叩く音がし、返事をすればウォルターがセシリアたちが到着したことを告げた。
出迎えに向かう足取りは重い。
だが、それを悟らせてはいけないと、なけなしのプライドを奮い立たせ、背筋を伸ばして廊下を歩いた。
エントランスに到着すると、そこにはセシリアとセオドリック、そして黒髪執事の姿があった。
先に俺に気付いたのは、あの執事だった。
無機質で何の感情も映さない緋色の瞳が俺の姿を捉えると、彼はセシリアへ声をかけ、二人がこちらを向いた。
彼らの側へ寄るまでのほんの僅かな間、無意識にセオドリックを凝視してしまう。
見慣れた辺境伯騎士団の団服ではなく、華美ではないが仕立ての良さが一目で分かる上質なコートやトラウザーズを纏う姿。
……そして、俺よりも明るいアッシュ色の髪。
何故、気付かなかったのか。
あの色は俺よりも父上に酷似していたのに……。
取り留めのない後悔ばかりが、脳裏をよぎった。
「ごきげんよう。 トレヴァント辺境伯閣下」
彼らの正面に着くと、セシリアはお手本のような優雅なカーテシーを披露し、未だ辛うじて残る爵位で俺を呼んだ。
その後ろでは、セオドリックも騎士の礼ではなく、洗練された貴族の礼を執っている。
「……ああ。 顔を上げてくれ」
無理やり絞り出した声は、酷く掠れていた。
顔を上げた彼女を、久しぶりに正面から眺める。
銀糸のように流れる髪、翡翠色に煌めく瞳。
……何故だろう。
失うことが決まった今になって、彼女がいつになく、神々しいほど美しく見える。
いつまでも眺めていたかったが、エントランスで立ち話をするわけにもいかず、応接室へ移動を促した。
応接室に入り、一人がけのソファへ腰を下ろすと、セシリアとセオドリックが向かい合わせに座り、彼女の背後にはいつも通り黒髪の執事が控えた。
ウォルターが紅茶を供する準備を始めたのを視界の端で確認すると、最初に口を開いたのはセシリアだった。
「急な訪問になりまして申し訳ございませんわ。 実は、セオドリック様の貴族籍の処理が思った以上に早く済みそうでしたので、今後のご相談に参りましたの」
「……今後、とは?」
冷酷な現実が、静かに語られる。
「セオドリック様が正式にトレヴァント辺境伯家の籍に入られましたら、閣下は爵位を委譲し、トレヴァント辺境伯家子息という肩書に戻ることになりますわ」
爵位は剥奪されるが、貴族籍は辛うじて残る。
……とは言っても、どこかの貴族家に婿入りでもしない限り、俺の貴族籍など無いも同然だ。
「私たちが王命で結婚し三年が経ちますわ。 ……と申しましても、私たちは 『白い結婚』 ですので、どうせなら 『離縁』 として籍に傷をつけるより 『無効』 にしては?と教会からご提案いただきましたの」
『無効』
つまり、俺とセシリアが夫婦であったという事実そのものを、記録から消し去るということか……。
ズキリと、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「婚姻が 『無効』 になりますので、以前閣下がアシュフォード公爵家と結ばれた魔法契約も解除せねばなりませんわ」
セシリアが黒髪の執事に合図をすると、彼はローテーブルの俺の前へ一枚の書類を置いた。
それは⸺⸺『セシリア以外との間に子は成さない』 と誓った、あの魔法契約書だった。
書類を手に取って目を通せば、契約破棄を認める文言と共に、契約者である前アシュフォード公爵と現当主アーサーの署名が記されている。
「……いいのか?」
「何がですか?」
「セオドリックのことを考えれば、このまま俺に子ができない方がいいのではないか?」
俺がトレヴァント家の血を引く人間であることには変わりはない。
俺に子がいれば、愚かな分家や周囲の人間が余計な野心を抱き、将来的に辺境伯爵位を狙う火種になるかもしれない。
「今のトレヴァント家に必要とされているのは、セキトフとトレヴァントの血を引く者……。 閣下の子など、もはや関係ございませんもの」
セシリアは穏やかに微笑みながら、冷酷に、そして鋭く俺の胸を抉った。
はっきりと『お前は必要ない』と告げられる。
他者に己の存在を不要とされる悲痛さを、俺はこの時、初めて骨の髄まで味わった。
誤字報告ありがとうございます┏○ペコッ




