Ep.55 精算
「あの、陛下。 少々お聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」
父上が辺境伯爵位の移譲を命じた後、ヴィクトリアが恐る恐る声を上げた。
「良いぞ。 どうしたのだ?」
「トレヴァント辺境伯が変わるのであれば…… その、セシリア夫人はどうなるのでしょうか?」
セシリアの名前が出た瞬間、レオンハルトが弾かれたように顔を上げ、ヴィクトリアに視線を向けた。
その表情には、縋るような、それでいて最悪の展開を予測しているかのような焦燥が強く滲んでいる。
「ん? どうなるとは、どういう意味だ?」
「トレヴァント辺境伯とセシリア夫人は王命婚ですが、婚姻からもうすぐ三年が経ちますのに、お二人は未だ正式な夫婦となられていないご様子…… レオンハルト卿は、此度のことで爵位を失いますわ。 このまま婚姻を継続させても共に行き詰まるだけ…… セシリア夫人ほどの方でしたら引く手あまたでしょうし、この際、離縁させてはいかがでしょう?」
「ま、待つんだ! ヴィクトリア!! 今離縁したとして、セシリア……夫人がアシュフォード公爵家に戻ることは……」
ヴィクトリアの口から『離縁』の言葉が出た瞬間、私は急いで制止しようとした。
クララの件が発覚した際にも離縁の話はあった。
貴族夫人は夫と離縁したら、基本的には実家の籍に戻ることになる。
だが、かつて彼女ははっきりと、『アシュフォードに戻るつもりはない』と断言していた。
ヴィクトリアはその事を知らない為、良かれと思って言っているのであろうが、アシュフォード以外に戻る籍を作らないまま離縁してしまうと、セシリアは平民となってしまう……。
「ええ、ハインリヒ様。 アシュフォード公爵家も代替わりしておりますもの。 離縁したからと、セシリア夫人も戻りづらいでしょう⸺⸺ ですので……」
ヴィクトリアは合わせた両手を頬に添え、可憐に微笑みながら父上を見つめた。
「今回のセキトフとの交渉を取りまとめた褒賞として、夫人に爵位を授けてはいかがでしょうか?」
なるほど、と私は心の中で感心した。
アシュフォード公爵家の血統、そして国家の危機を救ったという功績があれば叙爵されても不思議ではない。
貴族の中には、「トレヴァント辺境伯夫人としての功績ではないのか」と騒ぎだす者もいるかもしれないが、セシリアは『トレヴァント辺境伯夫人』としての社交は一切行っていないと聞く。
レオンハルトが「辺境伯夫人として認めない」と言ったことも一因ではあるだろうが、彼女自身そのつもりがなかったということだ。
私やレオンハルトは、既にセシリアへ負い目がある。
それ故、彼女が勝ち取った功績を『夫婦の功績』として塗り替えることが出来ないことくらい、レオンハルトも理解しているはずだ。
通常であれば、高位貴族出身の初爵は『男爵位』もしくは『子爵位』だが、今後セキトフやヴォルガルド公国と交渉の際に、セシリアを交渉役として求められる可能性も考えるなら、いきなり『伯爵位』を叙爵するのもありかもしれない。
「ふむ…… そうだな」
「今回の件だけでも子爵位…… いえ、伯爵位が妥当でしょうが…… 王家はまだ、セシリア夫人に正当な『賠償』を済ませておりませんわ」
ヴィクトリアは一考している父上へ、逃げ場のない事実を突き付けた。
……そうだ。 王家はまだセシリアへ犯した不当な罪の償いをしていない。
そこへ更に、今回の多大な『功績』という名の『借り』を積み上げたのだ。
……確かに、今ここで一度精算すべきだろう。
「……確かに皇女の言う通りだ。 セシリア夫人。 そなたに『侯爵位』を叙爵しようと思うが、受けてくれるか?」
父上が真っ直ぐにセシリアの瞳を見据えると、彼女はソファから一歩横に踏み出し、深く優雅なカーテシーを披露した。
「国王陛下のご厚恩、誠に恐悦至極に存じます。 私、セシリア・トレヴァントは一層精進し、国の為、民の為に尽力いたしますことを、ここにお誓い申し上げます」
父上はその言葉を噛み締めるように聞き、重く頷いた。
セシリアの威厳ある口上と、場を支配するような空気のせいだろうか。
私は何故か胸が詰まり、言いようのない息苦しさを感じていた。
ふとヴィクトリアに視線を向ければ、嬉しそうに瞳をきらきらと煌めかせており、レオンハルトは項垂れ、魂が抜けたように呆然としている。
母上に至っては、もはや周囲の音すら聞こえていないのではないだろうか。
結局、セキトフとの交渉実務はセオドリックに任せられることとなったが、引き継ぎ期間中はセシリアが後見として当たることに決まった。
⸺⸺⸺
「ハインリヒ。 私はお前と皇女の結婚式が終わった後、しばらくしたら退位しようと思う」
他の者たちが退室した執務室で父上と二人きりになった瞬間、そう切り出された。
突然の退位宣言に驚く反面、どこかで「やはりそうなるのか」と静かに納得している自分がいた。
「そう、ですか……」
「何となく、気付いていたであろう? 先代と王妃が起こした不始末、そしてお前が起こした不当な婚約破棄やクララの件……。王家として一度、禊をする必要がある」
私は俯き、拳を強く握りしめた。
どんなに力を込めても、私の手は真っ白で、汚れのない手袋に守られ、傷一つつくことはない。
……まるで、私自身と同じだ。
祖父上や母上、そして私が引き起こした不始末の責任を、父上がすべて引き受けようとしている。
次代の国王となる私に、傷一つ残さぬ為に⸺⸺。
「……お前は先ほど、セシリア夫人が話していた際、何か深く考えていたな。 何を考えていた?」
「……え? ああ、いえ、何か言いようのない違和感を感じたのですが、それが何なのか分からず……」
私の答えに、父上はしばし沈黙した。
「……王家は大きな間違いを犯した。 それを挽回出来るかどうか…… 正直、私にも分からぬ。 だが、これ以上過ちを重ねるわけにはいかぬ…… よいか。 これからは今まで以上に言動に気を付けよ。 王となれば、これまでのようにお前を守ってくれる者は存在しないと心に刻むのだ」
父上の琥珀色の瞳が、私を鋭く射抜く。
「……承知いたしました」
もはや、それ以外の答えなど存在しなかった。
今の私に分かることは、『もう後がない』ということだけだ。
それから二週間後。
レオンハルト有責による離縁が成立した。
同時に、王家からの賠償とセキトフとの交渉をまとめた多大なる功績を合わせ、セシリアが『ブランシェ侯爵位』を叙爵されたことが公表された。
開戦の危機が去ったことで、私とヴィクトリアの結婚式も、予定通りに執り行われることとなった。




