Ep.45 悪意の泥濘
「……話はおおよそ分かった。だが、その『協定の証』であった辺境伯の姉君が帰国したのなら、協定破棄の話にならなかったのか?」
「先代もそこを訴えたようですが、当時のセキトフ辺境伯は『いかなる理由であれ、逃げ帰ったのは姪の不徳だ』と一蹴し、問題にはならなかったそうです」
両家の関係改善という名の政略だったが、それは協定を締結する為というより、締結した協定を永続させる為の『楔』だったのだろう。
あちら側も、次代以降の為に協定を残したかったのだ。
「そうか……ところで、彼女が嫌がらせを受けていた事実がありながら、なぜメイド長は引き続き俺の側に置かれていたんだ?」
「……あの方に盛られていた避妊薬は、亡き先代夫人のご実家である公爵家が用意したものでした。使用人の給金で買えるような代物ではありません。嫌がらせに関しても、メイド長は直接手を下さず、実行犯となる使用人たちの憎悪を煽るに留めており、証拠が……なかったのです」
亡き母上の実家が用意した薬……
最悪の場合、王家からの指示だった可能性もあるのか……
女嫌いの父上が彼女への執着を見せ、更に先代国王陛下からの縁談まで拒んだ。
それが余計に周囲の警戒心に火をつけたのかもしれない……
とにかく、こちらで把握できる範囲のことは理解した。
俺はユーリに命じ、グリゴリーに会談の再開を申し出た。
⸺⸺⸺
『姉のことは把握できたか?』
応接室へ戻り、席に着くなりグリゴリーが鋭く切り出した。
『……おおよそは。かなり肩身の狭い思いをさせてしまったことは、申し訳なく思っている。姉君はご存命か?もし可能であれば、直接お詫びをしたい』
俺の言葉を、グリゴリーは鼻で笑った。
『ふっ……「おおよそ」か。ならば、俺が詳細を教えてやろう。姉はな、貴様の屋敷の使用人に殺されかけたと怯えながら逃げ帰って来たのだ!』
語気を荒げ、グリゴリーは帰国した彼女の真実を語り始めた。
ヴォルガルド公国において、本家当主の命令は絶対だ。
逆らうことは許されない。
穏やかで争いごとを好まない彼女は、「自分が嫁ぐことで領民たちが守られるなら」と、その命令に素直に従ったそうだ。
協定締結の場で初めて会った父上は無表情で、必要最低限の言葉しか口にしなかったという。
そのまま屋敷に連れて行かれ、冷ややかな視線に晒された時、自分が歓迎されていないことはすぐに理解した。
それでも、かつての敵として疎まれるのは仕方ないと諦め、領民たちの為に『協定の証』として生きようと決めていたのだ。
婚姻届を出す気配がないことも、周囲の反対の為だと察していた。
顔を洗うお湯が水だった、毎日掃除が来ない、といった嫌がらせも、セキトフの質素な暮らしに比べたら苦を感じなかったそうだ。
だからこそ、彼女はウォルターに訴え出ることもなかった。
『だがしばらくして、突如現れた貴様の父親が姉の置かれた惨状を見て驚愕したらしい。初めて人間らしい感情を見せ「ああ。この人も、こんな顔をするのか……」と思い、姉は心が僅かに動いたと言っていた』
グリゴリーはどこか虚ろな瞳のまま視線を落とした。
その後、婚姻の承認が下りない状況に痺れを切らし、父上が自ら王都へ向かったことを知ったという。
『……姉は王都から戻り、落胆する貴様の父親を責めるどころか案じていた。婚姻が王家に認められず「すまない」と繰り返す男に、姉はただ「気にしないで」と微笑んだらしい。だが……』
グリゴリーは憎々しげに言葉を継いだ。
『……そんな不器用な男が良かれと思い、籍もない姉を『妻』と呼び、それに準ずる待遇を命じたことが、皮肉にも地獄に落とされる引き金となった』
グリゴリーの語る彼女の心境は、まるで見てきたかのように鮮明だった。
不器用な贈り物に心が温まったこと。
だがその後に、メイド長だという女に「幼子から父親を奪う悪女」だと断罪され、再び心が凍りついたこと。
『姉は自分を責めた。母親のいない2歳の幼子……つまり貴様から、父親を奪うわけにはいかないと。だから、夜中や僅かな合間を縫って会いに来てくれるだけで、姉は自分を納得させていた。それなのに……!』
グリゴリーは机を叩かんばかりに身を乗り出した。
彼の口から語られる真実は、俺の知らない『悪意』に満ちていた。
廊下で耳にした使用人たちの『殺意』
自分が『さっさと死ねばいい』と願われながら、毎日何か薬を盛られていたという畏怖。
『……貴様は想像出来るか?用意された食事がすべて怪しく見える恐怖を。スープは窓から捨て、薬を混ぜられない乾いたパンを齧りながら、いつ殺されるかと震えていた姉の姿を!!』
語られる彼女の絶望が、俺の胸に深く突き刺さる。
そして、そんな極限状態で彼女は自らの『異変』に気付いた。
しばらく、月のものが来ていない⸺⸺
その言葉に俺は目を見開いて驚き、後ろにいるハンスやユーリからも息を呑む音が聞こえた。
お腹に、父上の子がいた……?
『姉は愛する男の子を身篭ったかもしれないという『幸福感』と、万が一、メイド長や王家に知られた時の『恐怖』が入り混じり、素直に喜ぶことが出来なかったと……腹の子に申し訳ないと、そう話しながら泣いていた』
グリゴリーは苦しそうに顔を歪ませ、握り締められた拳は震えていた。
医者に診てもらおうと考えたが、自ら動けばメイド長に知られる恐れがあった。
ちょうど運悪く、多忙を極める父上とウォルターの足が遠のいていた。
その間にもお腹の子は育ち、悪阻が始まるとパンすら口に出来ず、彼女の体はみるみる衰弱していったという。
このままでは、二人とも死んでしまう……
そう思った彼女は、トレヴァントの屋敷から逃亡することを決意したそうだ。
お腹の子を守る為に⸺⸺。
『自室だけで過ごす日々だったが、屋敷で暮らした約二年の間に、物資の搬入日や馬車の出入りは把握していたそうだ』
隙を見て上手くやれば、セキトフへ戻ることができる。
父上のことだけが気がかりだったが、このままあの屋敷で暮らし続けたら、お腹の子と共に殺されるだろうと判断したそうだ。
彼女は侍女に「一人にして欲しい」と伝えると、こっそりと屋敷を抜け出し、搬入が終わった荷馬車に隠れ、密かに国境を越え、セキトフへ戻ることに成功した。
『国境を越えた時、これで安心して子を生むことが出来る、そう思ったそうだ。生まれた後、貴様の父親に詫び、子に会ってもらいたいとな。だが……』
そう、悪意の泥濘からは抜け出せたはずだった。
だが彼女の地獄は、まだ終わっていなかったのだ⸺⸺。
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