前編
私はいつから夢を見ていたのか。
その日、父は特に不機嫌だった。
「なに? そうか……もうそんな年になっていたか」
母に言われるまで、父はなんのために開いた晩餐かも忘れていた。
列席する臣下は緊張しきり、食事もすすんでいない。
「末の娘の誕生祝いに、よいことを思いついた。アサム伯の喪はいつあける?」
母はうろたえ、臣下も一斉にどよめく。
注目されながら呆然としている財務大臣は、父の政策に反対する臣下の中心人物だった。
あごひげの濃い中年だが、やせて鋭さに欠ける顔だち。
私がはじめて政略結婚する相手となる。
「サーシャの年で、まだ結婚など……」
「私の最初の婚約も同じ年だ」
母を口早に抑えた父が、最も不様にうろたえて見えた。
私がそっとフォークを置くと、視線が集まる。
「アサム伯であれば家柄も功績も申し分ありません。お受けいただけるなら良い話かと」
私は母や姉たちよりもうまく『王族』をこなすつもりだった。
翌月には婚約の祝宴が開かれる。
列席者の顔には嫌悪と嘲笑が見てとれた。
「あんな幼い娘を、自分と変わらないような年の大臣に?」
「反対派を抑えるためとはいえ、娘まで犠牲にするとは」
私はただ堂々と余裕を見せる。
それで侮蔑は畏怖に変わる。
「いや、話を切り出された時の、第三王女の態度ときたら」
「あの年でもやはり、あの王の娘か。もしや反対派への密偵か?」
私の荷物は押しかけるようにアサム伯の屋敷へ運ばれた。
重臣でありながら、城から遠く畑で囲まれた丘に、素朴な居をかまえている。
玄関に現れた出迎えの下男下女はほんの十人足らず。
先妻の遺した子は三人。
長男は私とほとんど変わらない年で、苦々しそうに顔をそむけている。
長女はそれより少し下で、ものめずらしげに見ていた。
次女はまだ歩きはじめたばかりの年で、長女の足にしがみついて隠れている。
口をぽかんと開けて見上げていた。
「このかたが私のお母様になるの?」
アサム伯に視線が集まる。
ひげの濃い中年男は困ったように苦笑した。
「これからここへ滞在していただき、ゆっくり考えていただくつもりだ」
考えなおしてほしい、という意味か?
荷物を整理していると、日も暮れていた。
夕食の皿は王宮の半分もなく、燭台などはさらに少ない。
「お城に比べては手狭かと思いますが、掃除だけは丁寧にしておりますので……」
寝室を案内した老婆はいつまでも話し続けた。
「ご苦労。さがってよろしい」
「はいはい。では……」
これといった嫌がらせはない。
平穏に、白紙へもどしたがっているのか?
第三王女の夫という程度の地位では、不満ということか?
あるいは父の側へ寝返るにしても、体裁の悪さを気にしているのか?
眠りにつこうとした時、隣の部屋から物音がした。
思った以上に壁が薄いようだ。
監視されているのか?
「お父様、風が強くて怖い」
「しょうがないなあ」
「お父様、私も」
「あらあら、そんなに騒いだら、隣のお姫様に迷惑ですよう? あんなきれいなお姫様、きっと毎晩よく眠って……」
少し考えすぎていたようだ。
……最後に加わった老婆の話が延々と長引く。
「注意に来て最後まで話しているじゃないか。もう眠らせてくれよ母さん」
私は思わず飛び起きたが、聞き耳を立てて誤解に気がついたとは言いにくい。
アサム伯の母親は翌朝も早くから、ひとりで掃除をはじめていた。
「もうしわけありません。昨日はとんだ無礼を……」
「へ? ああ、いいんですよう。私、堅苦しいのは苦手ですから」
下女と見間違えるような身なりで、楽しげに床磨きと雑談をひたすら続ける。
アサム伯に邸内を案内され、書斎へ通された。
屋敷は小さいのに、蔵書だけは棚をいくつも埋めつくし、役職にふさわしい量がある。
私が驚いて見上げていると、ふり向いたアサム伯は顔を輝かせた。
「書物に興味をお持ちで!?」
「え、ええ。歴史書のほかは、神話や詩文しか読んでいませんが……」
アサム伯は急にきびきびと動き出し、本を次々と積み上げる。
「それはそれは! そういうことでしたら、書斎は自由にお使いください。地理などはどうです!?」
開いた書物からは彼の提言の元であろう、気候や農作物に関する詳細な記述が読めた。
「こんなにたくさんの貴重な書物を……よろしいのですか?」
「なにをおっしゃいます! この多くは、王の援助のおかげですよ!」
「父上が?」
「即位なされる前、騎兵隊を指揮されていた頃からです。私の書物好きを知ると、自分が読むそぶりで購入しては、私に下さったのです」
父との意外な関係と、それをうれしそうに話す笑顔にとまどう。
「近頃は王も心労が多く、厳しいと思われがちのようですが、今でもまっすぐで、強くひきつける力があって……」
心労の元は、重臣たちに反対されているいくつかの政策だった。
財務大臣アサム伯こそが、反対派の中心にいる。
「実は私、書物好きと言っても、詩文にしか興味がなかったのですよ。あのかたの期待に押され、背のびを続けた結果が今の役職です」
一国の大臣というには笑顔があまりに無防備で、柔和すぎる。
私の胸に言い知れぬ困惑がまとわりつき、まだこの時なら、ふりはらえたのかもしれない。
婚約、そして同居までしたものの、アサム伯は多忙で、家にいる時間は少なかった。
まして私の寝室を訪ねる様子などない。
王宮の様子を探りたかったが、馬車を出すには道が遠かった。
しかし多くの書物が暇を与えはしない。
薦められた書物を読み、その理解に必要な書物も読み進める。
それでもわからないことは、アサム伯へ尋ねればよどみなく答が返り、さらに理解の深まる書物まで薦められた。
この知識は役立つはず。
どの大臣の夫人も、姉上たちも、これらの本のたった数行でしかない知識を得意げにひけらかしていた。
私は自分が誰よりも、王宮に必要な存在と国中へ認めさせる。
それが王女として生まれた務めだから。
……アサム伯の帰りが待ち遠しいのも、国政のために教わらねばならないことが多いから。
彼の講義はわかりやすい。あまりに熱心で、私も集中しやすい。
時間が早く経ってしまうのに、終えた後には濃密な記憶が残されている。
「サーシャ様は勉学にご熱心ですねえ?」
長女のブルオナは父親に比べて鼻が小さく、アゴも細い。
髪色も黒ではなく栗色。母親に似たようだ。
本を読もうとはしないが、内容は気になるらしい。
私がテラスで読書をしていると、こまめに話しかけてくる。
「私には政治の話なんて退屈なだけですのに」
笑顔で率直すぎることを言ってしまう性格は父親似か。
「お父様もいい話し相手ができて楽しそうです」
「楽しい? そうですか……よろしければブルオナさんも、この家のことを教えていただけませんか?」
後妻に入る身として、早くに知っておくべきことは多かった。
亡き先妻のこと、親戚関係や、親しいつきあいのある家系について。
「それなら私にもできます! よろこんで!」
ブルオナは庭のあちこちを指す。
「あの木は栗で、となりはリンゴです!」
「……え?」
「その奥のもリンゴですけど、パイなどの焼く料理に向く品種で……」
木苺のなる斜面、ウサギの巣穴、粉ひきの水車、豆畑、収穫の時季、加工して作れる調味料……
農家の娘のように庭と領地の作物をよく把握していたけど、政治に関わる人間関係はほとんど知らないようだった。
どう話題を切りかえればよいものか悩んでいると、ふと離れた木立の陰に、幼い次女の姿を見つける。
「あの子はどうしたのです?」
「カイルお兄様になにか言われたのか、遠慮しているみたいです」
長男は夕食でも、私や家族と目を合わせようとしなかった。
「気になさらないでくださいね。お兄様は変に意識して……きっと、姫様が美しすぎるからです」
ブルオナは手を大きく振り回す。
「ステラ、いらっしゃい! お呼びになっておられますよー!」
「は~い!」
次女は少し遅れて大きな返事をすると、たどたどしい足どりで駆けてきた。
屈託のない笑顔。
「なんでしょうか、お母様!」
私は言葉に詰まる。
妻になりに来たとはいえ、まだ母と呼ばれる心がまえまではなかった。
ブルオナが私の表情をうかがっている。
「ブルオナさんに家のことをうかがっていたのですが、一緒に教えていただけますか?」
「はーい! あれ、リンゴの木ですよ。お母様ー!」
ステラはあちこち駆けずりまわり、モグラの巣穴や狐の通り道まで教えてくれた。
髪はやはり栗色だけど、顔は父親似に見える。
ブルオナは苦笑していた。
「母は妹を産んですぐに亡くなりました。ステラはお母様と呼べる人ができて、ただうれしいのでしょう」
「ここ! ミツバチの巣がありますから気をつけてください。お母様!」
私はなぜそんなことを教えられているのか。
なぜそんな話で笑いこらえているのか。
それ以来、ステラは私にも甘えてしがみついてくるようになった。
ブルオナはいつでも明るく話しながらも、私に話しかけようと努めていることもわかった。
カイルはまだ目を合わせようとしないまま、私たちが屋敷から遠ざかる時には、それとなく見える位置にいてくれる。
そうして私は、待っている。
父の政敵であるはずのアサム伯から、もっと手ほどきを受けたがっている。
この屋敷では時が過ぎるほどに警戒の手ごたえは失せ、かつての緊張はすりぬけてしまう。
宙に浮いているような。
別の人物にでもなったような。
夢の中でもあるまいに。