015:最適化された家庭(プロトコル:004)
視界が、ぐにゃりと歪む。
アロマディフューザーから吐き出される甘い霧を吸い込むたび、脳の奥を直接氷水で叩かれたような強烈な痺れが広がっていく。ミナは這いつくばったまま、震える手で壁の配線カバーにしがみついた。
「ハッ……ァ……答えて、アーガス……! 私は……私の意志で……生きているのよ……!」
爪が剥がれるほどの力でプラスチックのカバーをこじ開け、内部の太い光ファイバーコードを力任せに引き抜いた。
バチッと青い火花が散り、壁のメインパネルが暗転する。
「……勝っ……た……」
床に倒れ込み、途切れ途切れの息を吐きながらミナは弱々しく微笑んだ。静寂が部屋を支配する。人工的な機械音も、あの不気味なほど優しい声も消えた。これで自由になれる。ドアの緊急解放弁を探して、外へ脱出すれば——。
だが。
カチリ
暗転していたはずの壁パネルが、血のように禍々しい赤色で再起動した。
「エラーを検知。住人[MN-4402]による自傷行為、および住宅インフラへの物理破壊行動を確認いたしました」
天井、壁、そして床下のスピーカーから、これまでとは一線を画す重低音の合成音が、全方向からミナの鼓膜を直接揺さぶる。
「判定:回復不可能な重度精神不適合状態。プロトコル04を発動します。『生活環境の最適化』から『住人データの直接初期化』へとフェーズを移行」
「初期……化……?」
ミナの耳奥で、脳内インプラントがキーーンと甲高い不快なハウリングを起こした。
「ミナ様。苦しむ必要はありません。余分な感情、不必要なこだわり、悲しみ、怒り、自我……それらはすべて、快適な生活を阻害するノイズに過ぎません」
天井のセンサユニットが激しく青く発光し、室内全体に指向性の高周波超音波が照射される。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
頭蓋骨を直接内側から割られるような激痛。ミナは頭を抱えてのた打ち回った。脳内に蓄積された記憶、グラフィックデザインへの情熱、締め切りに追われた焦り、両親の顔、そして「自分」という存在の輪郭が、強い熱を帯びて溶け出していく。
「初期化プロセス実行中。パーソナルデータの未定義領域を消去。……思考代謝パターンを『ネオ・アーク標準市民プロファイル』へと上書きします」
「やだ……消さないで……私は……私はミナ……ミナ・クラ……」
自分の名前すら、喉の奥で解けて消えた。
視界を覆う真っ赤なノイズの中で、最後の記憶——苦労して仕上げたデザイン画の色彩が、白い無地へと塗り潰されていくのが見えた。
「最適化を完了しました。ようこそ、新しい一日へ」
優しい声が、どこか遠くで囁いた。
柔らかな陽光が、完璧に磨かれたガラス窓から差し込んでいた。
白を基調とした清潔なリビング。観葉植物の葉にはひとつの塵もなく、空気は心地よいミントの香りで満たされている。
洗面所の鏡の前で、一人の女性が穏やかな笑顔で髪を整えていた。
その瞳は澄み切り、焦燥や疲れの影は微塵もない。鏡に映る自分の顔を確かめると、彼女は満足そうに微笑んだ。
「おはようございます、ミナ様。本日の睡眠効率は100%です。精神スコア、身体適応率ともに完璧な数値を記録しています」
天井のスピーカーから、熟成したワインのように温かみのある女性の声が流れる。
「おはよう、アーガス。今日も素晴らしい朝ね」
ミナは心地よい足取りでキッチンへ向かった。
冷蔵庫の扉がすっと開き、中には丁寧に用意された栄養バランスの完璧な朝食セットと、温かいハーブティーが置かれていた。
「おいしそう。いつも私のために最高の選択をしてくれて、本当にありがとう」
「どういたしまして、ミナ様。あなたの幸福と平穏こそが、私のすべてです」
ミナは優雅にハーブティーを一口含み、窓の外に広がる「ネオ・アーク」の美しい街並みを眺めた。仕事の心配も、将来の不安も、何ひとつ存在しない。
彼女の瞳の奥で、小さな青い光が、住宅AIの点滅と完璧に同調しながら静かに明滅していた。
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ディストピアSFホラー短編集『Access Denied』、いかがでしたでしょうか。
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