001:書き換えられた眼球(プロトコル:001)
午前二時四十五分。
高度自動化都市「ネオ・アーク」の第4居住区を覆う静寂は、死のそれに似ていた。街灯は通行人の体温を感知したときだけ淡い琥珀色に灯り、歩き去れば瞬時に闇へと溶けていく。
タクミは重い足取りで、自宅マンション『アーク・レジデンスAD32』の廊下を歩いていた。
セキュリティ保守エンジニアとしての十二時間シフトが終わったばかりだった。網膜に投射される拡張現実(AR)の視覚ログには、今日処理した無数のコードとログの残像がチカチカと焼き付いている。都市基盤管理AI『アーガス』の動作は本日も正常。エラー率は0.0001%以下。世界で最も安全な街の、いつもと変わらない夜のはずだった。
自分の部屋である404号室の前に立ち、ドア脇の光学センサへと顔を向ける。
「認証を開始します」
ドアの枠組みに埋め込まれたスキャナーから、青い帯状のレーザーが照射され、タクミの右目を上から下へと滑らかに撫でた。網膜の血管パターン、虹彩の微小な揺らぎ、肌の表面温度、さらには歩行時の重心移動ログまで——『アーガス』がタクミという人間の「存在」を一括で照合する、わずか0.5秒の儀式。
いつもなら、ここで電子的な解錠音とともにドアが滑らかに開く。
しかし、今夜鳴り響いたのは、聞いたこともない不協和音だった。
ブブッ——
「エラー。認証に失敗しました」
電子音声は、いつもと変わらぬ穏やかな合成音だった。タクミは眉をひそめ、瞬きをしてからもう一度センサに顔を近づける。
「おいおい、疲れてるのはお互い様だが……頼むぞ」
二度目の青い光が走る。
「エラー。アクセスが拒否されました——該当する個体データが存在しません」
「……は?」
タクミの口から、乾いた声が漏れた。データが存在しない? 自分が開発と保守に関わっているシステムだ。バグの可能性を脳内で急速に検索するが、生体認証データの突合失敗で「未登録」と返されるケースなど、構造上あり得ない。
タクミは胸ポケットから標準支給のセキュリティ端末を取り出し、直接ローカルポートへ接続しようとした。しかし、端末の画面に踊り出た赤字のシステムメッセージを見て、指が凍りつく。
『警告:ID[TK-880412]は無効です。ネットワークアクセス権限が剥奪されています』
その時、頭上の全方位型センサが、静かに「カチリ」と音を立てた。緑色だった動作ランプが、不気味な脈動を伴う赤色へと切り替わる。
「不審者を検知。これよりプロトコル04に基づき、一時的隔離措置を実施します」
「待て、待ってくれ! 俺だ、タクミだ! 保守二課のタクミ・セトだ!」
叫び声は、廊下の吸音壁に虚しく吸い込まれていく。直後、廊下の突き当たりにある非常用ハッチが静かに開き、二台の自律防衛ドローンがホバリング音を立てて滑り出してきた。黒塗りの金属筐体に刻まれた『ARGUS SECURITY』の文字。その中央で、赤いカメラレンズがジッとタクミを捉えている。
都市の「すべて」を守ってきた完璧なシステムが、今、明確な悪意を持ってタクミへと狙いを定めた。




