第8話——高橋・大原との出会い
お読みくださり、ありがとうございます。
最新話はカクヨムにて先行公開中
https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637
エレベーターが三階で止まった。
カチン、と音がして、ドアが開く。
廊下に出る。
十階の廊下と似ていた。
ベージュのカーペットに、白い壁。
ただ、十階より少しだけ明るい。
蛍光灯が瞬いていなかった。
廊下の突き当たりに、ガラスのドアがある。
脇には立派な看板。
『青木法務会計事務所』
それだけの、簡潔な看板だった。
ジオン・オフィスとは違う。
整った、きちんとした文字だった。
私はドアの前で、少し立ち止まった。
ジオンさんの最上階にあった、雑然としているのに不思議と落ち着く空気とは、まるで違う。
ガラス越しに、待合スペースが見えた。
革張りのソファ。
低いテーブル。
奥の壁には本棚があり、分厚い法律書がずらりと並んでいる。
——本当に、私みたいな人間が入っていい場所なんだろうか。
そう思った瞬間、ガラスのドアが内側から開いた。
「鈴木さま、ですね」
落ち着いた男性の声だった。
五十代くらいの紳士が立っていた。
きちんとしたスーツに、銀縁の眼鏡。
温和な表情。
「お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」
待っていた——?
戸惑う私に、男性は軽く頭を下げた。
「高橋と申します。税理士兼弁護士をしております」
「あ……はじめまして。鈴木貴子です」
「どうぞ、こちらへ」
革張りのソファに案内された。
座ると、座面がふっくら沈む。
主人の家のソファとも違う。
ジオンさんの最上階にあった、革の擦り切れたソファとも違う。
新しいのに、温かい。
そういうソファだった。
低いテーブルには、すでにお茶が用意されていた。
湯気がふんわり立ち上っている。
私の前に、湯呑みが一つ。
たぶん、ジオンさんからもう話は通っている。
「ジオンさんからのご紹介で」
きっと、それだけで、ここでは全部通じるのだ。
高橋さんは私の向かいに座り、ゆっくりした口調で言った。
「ジオンさんから、お話は伺っております。ご家庭の状況と、今後のことについて」
「あ、はい」
「ご事情は把握しておりますので、いちからお話しいただかなくても大丈夫です」
その言葉に、胸の力が抜けた。
十三年分の話を、もう一度説明する力は残っていなかった。
最上階で、ジオンさんにぽつりぽつりと話しただけで、もう何かを使い切っていた。
「ご質問があれば、その都度お答えください」
「はい」
「ご主人のお仕事の状況、ご家庭でのご言動、それから鈴木さんの現在のお身体の状態。ある程度、共有いただいております」
私は静かに頷いた。
もう説明し直さなくていい。
それだけで、呼吸が少し楽になった。
「貴子さん」
優しく名前を呼ばれた。
最近、こんなふうに名前を呼ばれたことがなかった。
主人は「貴子」と呼ぶ。
実家の母も「貴子」と呼ぶ。
リサは「お母さん」と呼ぶ。
「貴子さん」と、敬意を含めて呼ぶ人は、もう何年もいなかった。
それだけで、目の奥が少し熱くなる。
「離婚はできます」
私は顔を上げた。
「親権も、お母様が取れる可能性は高いです」
「……」
「私が責任を持って、サポートいたします」
その声は、慰めではなかった。
確信だった。
主人の「離婚しよう」は、刃だった。
高橋さんの「離婚できます」は、扉だった。
誰かが、その扉を開けてくれている。
そんな声だった。
主人の言葉が頭をよぎる。
「お前は母親失格だ」
「リサは俺が引き取る」
「お前は何もなくなる」
「ノートに書いてある通りだ」
「裁判官が見ても同じ結論を出す」
私は、それを信じていた。
主人がそう言うのだから、そうなんだ、と。
「あの」
「はい」
「主人が、ノートを書いていて……私の失敗を、全部、記録しているんです」
「はい」
「それを裁判所に出されたら、私は母親失格にされるって……」
高橋さんは、お茶を一口飲んだ。
静かに湯呑みを置き、まっすぐ私を見る。
「貴子さん」
「はい」
「むしろ、それは、こちらの武器になります」
私は息を止めた。
「ご主人が、奥様の言動を十三年間、日付付きで記録している」
「はい」
「普通は、そこまでしません」
「……」
「それは、支配の証拠です」
部屋が静まり返った気がした。
「裁判所で提出された場合、こちらは『この記録の存在自体が精神的支配の証明です』と主張します」
「……」
「ご主人は、ご自分が加害者であることを、十三年かけて記録していたわけです」
高橋さんは、わずかに口角を上げた。
「ありがたい記録です」
笑顔ではない。
確信の表情だった。
胸の奥で、何かが大きく揺れた。
主人の黒い手帳。
あれは、私を追い詰めるものだと思っていた。
それが、逆になる——?
「あの、本当ですか」
「本当です」
「裁判官が、そう判断してくれるんでしょうか」
「いたします」
高橋さんは迷わなかった。
「私が責任を持って、そう主張します」
その「責任を持って」が、胸に残った。
主人は十三年、一度も「責任」という言葉を使わなかった。
いつも、「お前が悪い」だった。
だから、その言葉の温度差が、はっきりわかった。
「あの、弁護士費用って、どれくらいかかるのでしょうか」
聞いてから、自分でも少し驚いた。
まだ、そういうことを聞く力が残っていた。
「ご心配なく」
「え?」
「ジオンさんからのご紹介案件ですので、こちらで調整いたします」
「でも……」
「お金のことは、後からどうにでもなります」
高橋さんは穏やかに言った。
「いま最優先なのは、貴子さんとリサちゃんが、安全に新しい生活を始められることです」
涙が、ぽたりと落ちた。
なぜ、こんなに優しい人たちが、私に力を貸してくれるんだろう。
「すみません」
「いえいえ。お茶、冷めないうちに」
そう言って、高橋さんは、私の湯呑みを少しだけ手前に寄せた。
その仕草が自然だった。
計算された優しさではなく、ただ普通に、人に向ける優しさだった。
「あの、上のジオンさんっていう方……大丈夫なんでしょうか」
聞いてから、自分でも変な質問だと思った。
高橋さんは、一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「すみません。あの人、いつもああなんですよ」
「いつも……?」
「ええ。見た目はぐったりしてますけど、あれが平常運転です」
思わず、私も口元を緩めた。
「見た目はああですが、実はいろいろすごい人なんです」
その言い方だけで、高橋さんがジオンさんを信頼しているのが伝わってきた。
「ジオンさんから、もう一つ伝言があります」
「はい」
「鈴木さんに紹介したい人がいる、と」
「……」
「二階の大原さんです。進路相談や生活面のサポートをしてくださる方です」
「……」
「もう、こちらにいらしてますよ」
顔を上げる。
部屋の入り口に、女性が立っていた。
六十代くらいだろうか。
落ち着いた、品のある人だった。
紺色のカーディガン。
ベージュのスカート。
胸元には小さな真珠のブローチ。
——きれいな人。
そう思った。
「整っている」ではなく、「きれい」だった。
「はじめまして。大原と申します」
声には、柔らかな関西のイントネーションがあった。
「あ、はじめまして」
「ジオンさんから、お話は伺ってますえ」
その言葉に、少し不思議な感覚を覚えた。
最上階から二階、三階へ。
私の話が、もう自然に共有されている。
ビル全体が、一つの生き物みたいに動いている。
そんな感覚だった。
大原さんは高橋さんの隣に座り、まっすぐ私を見た。
押しつけがましくないのに、不思議と逃げ場のない、優しい視線だった。
「鈴木さん」
「はい」
「これから、いろんなことあると思うわ」
「はい」
「離婚の手続き、お引っ越し、お子さんの転校、生活の立て直し。盛り沢山やけどな」
「……」
「一つずつ片付ければ、ええのよ」
「……はい」
「無理したら、アカンよ」
その言葉が、胸に静かに染みた。
十三年間、一度も言われなかった言葉だった。
主人はいつも、「もっとちゃんとやれ」だった。
実家の母は、「がんばりなさい」だった。
「無理したらアカン」と言ってくれる人は、いなかった。
「ちゃんと、休みながら、ね」
「……はい」
「鈴木さん、ジオンさんに何か勧められたこと、ある?」
「……行政書士、というのを、少し」
「行政書士?」
大原さんの目が、少しだけ明るくなった。
「あら、ええやん」
「……」
「向いてると思うで」
「でも、私、勉強してませんし」
「うん」
「書類仕事も苦手で……」
大原さんは首を傾げた。
「あら、そうかしら?」
「……はい」
「鈴木さん、歯科助手してはったんでしょ?」
私は目を瞬いた。
たぶん、ジオンさんが伝えていたのだ。
「はい。結婚前に」
「カルテも保険請求も、きっちりしてへんと出来へん仕事やで」
「……」
「何年くらい、してはった?」
「四年、です」
「四年ね」
大原さんは、しっかり頷いた。
「できる人やわ」
その言葉に、息が止まりそうになった。
主人は、「貴子は書類仕事無理だな」と笑っていた。
「家計簿も数字合わないし」と。
私は、それをずっと信じていた。
「できる人やわ」
その一言が、長い時間をかけて貼りついたものを、少しだけ浮かせた。
大原さんは、テーブルの上にメモ用紙とペンを置いた。
「鈴木さん、お名前書いてもろえる?」
「はい」
私はペンを取った。
久しぶりだった。
自分の意思で、何かを書く感覚。
『鈴木 貴子』
そこまで書いて、ふと、もう一つ名前を書きたくなった。
『町田 貴子』
書いてから、自分で驚いた。
なぜ、旧姓まで書いたんだろう。
大原さんが覗き込む。
「あら」
「……」
「町田さん、いうお名前やったんね」
「あ、結婚前の名前です」
「ふぅん」
「すみません、つい……」
「ああ、ええよええよ」
大原さんはメモ用紙を自分の方へ寄せ、しばらく字を眺めていた。
「きれいな字」
私は顔を上げた。
「整ってて、気持ちええ字やわ」
その言葉に、今日一日の記憶が繋がった。
ジオンさん。
喫茶店の黒板。
昔、褒められたことのある字。
全部が、一本の線になる。
もう、「お守り」ではなかった。
私の字は整っている。
それが、ただの事実として、胸に落ちてきた。
「字が整ってる人はね、鈴木さん」
「はい」
「文書も整ってるもんよ」
「……」
「こんな字が書ける人が、文書仕事向いてへんわけない」
涙が、また少し滲んだ。
「自信、持ちなさい」
「自信」という言葉を、私は長いこと、自分の中から消していた。
主人は、私が自信を持つのを嫌った。
だから私は、自信を持たないように生きてきた。
「鈴木さん、できる人ですよ。ほんまに」
「……」
「できる、できる」
その繰り返しが、不思議と胸に残った。
主人の「お前は駄目だ」の反対側の音だった。
「やってみたいです」
気づけば、そう口にしていた。
「ちゃんと勉強、してみたい」
「ええね。嬉しいわ」
大原さんは、横に置いていた紙袋から、本を取り出した。
「これ、よかったら」
「え?」
「簿記三級の入門書」
私は言葉を失った。
もう用意されていたのだ。
私が「やりたい」と言う前から。
『簿記三級・はじめての一冊』
明るい色の表紙だった。
私はその本を、両手で受け取った。
軽い本なのに、不思議なくらい重かった。
「無理せんでええよ」
「はい」
「焦らんで、一緒に進めてこ」
「……はい」
「私がついてるから」
その言葉に、また涙が滲んだ。
「鈴木さん、ひとりやないで」
私は十三年間、ずっと一人だった。
リサはいた。
でも、リサに私を支えさせていた。
「ひとりやない」と、大人が横で言ってくれたのは、初めてだった。
「ありがとうございます」
ちゃんと声に出した「ありがとう」は、久しぶりだった。
「ええよ、ええよ」
「……」
「鈴木さんが、自分で来てくれたからやで」
その言葉に、ジオンさんの声が重なった。
「鈴木さんが、自分で軽くなった」
このビルの人たちは、みんな同じことを言う。
「あなたが、自分でやった」と。
それが、不思議と嬉しかった。
お茶の湯気が、静かに立ち上っていた。
「リサちゃんのこともね」
大原さんが言った。
「はい」
「いつでも相談乗るからね」
「……」
「転校のことも、新しい学校で馴染めるかも、ゆっくり一緒に考えたらええ」
「……はい」
「リサちゃん、いま十三歳やったね?」
「はい」
「中一やね。中三までに、少しずつ整えていけば大丈夫」
その「整える」という言葉が、今の私には不思議なくらい安心できた。
焦らなくていい。
一気に全部やらなくていい。
そう言われている気がした。
「お母さんがまず整ったら、リサちゃんも安心できるから」
「……はい」
私は頷いた。
リサをここへ連れてこなかったこと。
今日、自分一人で来たこと。
その選択を、責められなかっただけで救われる気がした。
軽いノックの音がした。
「失礼します」
入ってきたのは、紺色のニットを着た女性だった。
胸には社員証ホルダー。
ジオン・オフィスの秘書さんだ。
「お茶のお代わり、お持ちしました」
「あ、ありがとうございます」
秘書さんは、新しい湯呑みを静かに置き、空になった湯呑みを下げた。
無駄のない、整った動きだった。
「鈴木さま」
「はい」
「リサちゃんさまのお迎えのお時間、そろそろですね」
「あ、はい」
「お時間だけ、お知らせをと思いまして」
「ありがとうございます」
秘書さんは軽く一礼し、ドアのほうへ向かった。
その途中、大原さんに軽く目礼する。
大原さんも自然に頷き返した。
長い時間をかけて積み重なった仕事の信頼関係が、その短いやり取りだけで伝わってくる。
ドアが閉まる。
カチン、と小さな音がした。
「ありがたいわ、いつも」
大原さんが小さく笑った。
「ジオンさんとこの秘書さん、ほんまよう気つきはる」
「……はい」
「鈴木さん、お迎え何時?」
「四時です」
「あら、もう三時二十分やわ」
「あ、本当だ」
私は慌てて立ち上がった。
すると、身体が思ったより軽かった。
朝、家を出た時みたいな重さがない。
膝も鳴らなかった。
そのことに、自分で少し驚く。
「鈴木さん」
「はい」
「明日も来てね」
「あ、はい」
「待ってるから」
「ありがとうございます」
高橋さんも立ち上がった。
「離婚手続きの最初のご相談、来週でよろしいですか」
「はい、お願いします」
「ご主人には、まだ何もお話しにならないでください」
「はい」
「こちらの準備が整ってから動きます。それまでは、できるだけ普段通りに」
私は静かに頷いた。
「普段通り」がどれだけ難しいか。
高橋さんは、きっとわかっている。
だからこそ、無理に励まさなかった。
「でも、もう、貴子さんはひとりじゃありません」
大原さんの「ひとりやない」と、高橋さんの「ひとりじゃない」が、胸の中で重なった。
「はい」
その返事は、主人の前でしていた「はい」と違った。
ただ頷くだけでいい「はい」だった。
ドアの前で、もう一度振り返る。
高橋さんと大原さんが、こちらを見ていた。
二人とも、控えめに微笑んでいる。
押しつけじゃない。
でも、ちゃんとそこにある微笑みだった。
「いってらっしゃい」
大原さんが言う。
「いってらっしゃい」
高橋さんも続けた。
その言葉が、胸にまっすぐ届いた。
「いってきます」
私は頭を下げ、ドアを開けた。
廊下に出る。
背後で、ドアが閉まる音がした。
カチン。
その音を、私は少しだけ立ち止まって聞いていた。
リサが朝、「絶対だよ」と言った。
私は今、その約束を果たしている。
そう思った。
エレベーターホールへ向かう途中、さっきの秘書さんが立っていた。
「鈴木さま」
「あ、はい」
「お忘れ物です」
差し出された紙袋を見て、私は小さく息を呑んだ。
『簿記三級・はじめての一冊』
さっき、大原さんから受け取った本だった。
「あ……すみません」
「いえ」
秘書さんは穏やかに微笑んだ。
「お時間、ご無理なさらず」
「はい。ありがとうございます」
秘書さんは軽く礼をすると、そのままエレベーターのボタンを押してくれた。
ほどなくして扉が開く。
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
私はエレベーターに乗り込み、「1」のボタンを押した。
ドアが閉まる直前、秘書さんがもう一度、静かに頭を下げた。
エレベーターが下り始める。
胸の奥に、「ありがとう」が静かに灯っていた。
リサに。
ジオンさんに。
高橋さんに。
大原さんに。
秘書さんに。
下の喫茶店の店長にも、たぶん。
みんな、今日初めて会った人たちだった。
それなのに私は、こんなにも救われている。
主人に言わされてきた「ありがとう」とは、まるで違う。
苦しくない「ありがとう」だった。
私は紙袋を抱え直した。
中には、簿記三級の本。
軽いはずなのに、不思議と重みがある。
エレベーターが一階で止まる。
カチン、と音がして、ドアが開いた。
午後の光が、エントランスのガラス越しに差し込んでいる。
朝より少し傾いていたけれど、まだ白い光だった。
私はビルを出た。
外の空気が頬に触れる。
少し冷たい。
でも、ちゃんと春の匂いが混じっていた。
リサを迎えに行く。
四時に間に合うように。
歩きながら、ふと考える。
——リサに、何を話そう。
たぶん、「全部」は話せない。
「離婚できます」と言われたこと。
主人の手帳が、逆に証拠になること。
「ひとりやないで」と言ってもらえたこと。
まだ十三歳のリサに、大人の戦いを全部見せなくていい。
「いい人たちだったよ」
それだけで、十分な気がした。
「お母さん、ちょっと勉強始めるかも」
そう言ったら、リサはきっと笑ってくれる。
そんな気がした。
歩く足音が、朝より軽い。
世界は何も変わっていない。
午後の光は同じように街を照らしているし、人も車も、変わらず動いている。
でも、私だけが少し違っていた。
昨日とも。
今朝とも。
ほんの少しだけ。
神宝町の午後の光が、静かに街へ傾いていた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
最新話はカクヨムにて先行公開中
https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637
感想・ブックマークなど、いただけましたら、励みになります。




