第7話 ともだちのお母さん(7)
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
「なるほど」
慈恩さんが言った。
「それで今日来たんですね」
私は首を振った。
「違います」
「ん?」
「リサが」
涙で前が見えない。
「リサが、連れてきたんです」
沈黙が落ちた。
慈恩さんは天井を見上げた。
何かを言いかけて、やめたように見えた。
それから、本当に面倒そうに呟いた。
「リサちゃん、すげぇな」
その言葉で、私はようやく理解し始めた。
私は一人でここへ来たのではない。
十三歳の娘に、連れて来られたのだ。
守る側のはずだった。
母親のはずだった。
なのに私は、ずっと守られていた。
「貴子さん」
名前を呼ばれた。
「はい」
「質問いいですか」
「……はい」
慈恩さんはコーヒーを一口飲んだ。
「全部自分が悪いって、最初に誰に教わりました?」
心臓が鳴った。
「え……」
「全部お前が悪いってやつです」
考えたこともなかった。
そんなものは、最初から自分の中にあると思っていた。
「……夫です」
気づけば言っていた。
「たぶん」
「たぶん?」
「怒鳴ったりする人じゃないんです。暴力もないし、働いてますし、生活費もちゃんと。浮気も」
「はい」
「だから」
言葉が止まる。
だから、何だろう。
だから不幸じゃない?
だから私が弱いだけ?
慈恩さんは指を折った。
「生活費を入れる。浮気しない。暴力をしない。働く」
一拍。
「普通ですね」
胸が強く鳴った。
「じゃあ聞きます」
慈恩さんが言う。
「優しかったのは、いつです?」
頭の中に映像が浮かんだ。
二十二歳。
桜。
喫茶店。
コーヒー。
東京。
新しい部屋。
夕食のカレー。
『幸せだな』
昔の声。
「昔は」
声が震える。
「優しかったんです」
「うん」
「本当に」
「うん」
「優しかった」
そこで気づいた。
昔は。
私は今、自分でそう言った。
昔は、優しかった。
裏を返せば、今は違う。
「あ……」
その小さな気づきが、胸の奥に落ちる。
怖かった。
口にしたら、本当に戻れなくなる。
「戻らないですよ」
慈恩さんが言った。
静かな声だった。
「だって、壊した側は、元に戻したいなんて思ってないですから」
言葉が、真っ直ぐ胸へ入ってきた。
戻らない。
私はずっと、戻れると思っていた。
もっと頑張れば。
もっと上手くやれば。
もっと我慢すれば。
優しかった頃に戻れるんじゃないかと。
でも、もし向こうに戻す気がなかったなら。
私は何のために、十三年も頑張っていたんだろう。
「怖かったんです」
思わず口から出た。
「怒られるのが。嫌われるのが。失望されるのが。だから、ちゃんとしなきゃって。母親だから。妻だから。頑張らなきゃって」
涙が落ちる。
「でも、もう無理なんです」
この十三年で初めて口にした本音だった。
部屋の空気が少し変わった。
慈恩さんの背筋が、わずかに伸びる。
視線が私ではなく、部屋の隅へ向いた。
視界の端に、黒いものがいた。
天井の近く。
壁際。
あの影。
ずっと見えていたもの。
「慈恩さん……います」
「いますねぇ」
あっさり言われて、私は息を飲んだ。
「正確には、本人じゃないですけど」
「本人じゃ……」
慈恩さんは少しだけ黙った。
その沈黙が、怖かった。
「言葉です」
その声だけ、妙に静かだった。
「人間は、言葉で壊れるんですよ」
慈恩さんは影を見ている。
「毎日聞くと、特に」
普通は。
母親なら。
次から気をつけて。
お前が悪い。
子供に気を遣わせるな。
覚えていて、これか。
影が揺れる。
声が、私の中から聞こえる。
でも、部屋の隅からも聞こえる。
どちらがどちらなのか、分からない。
「ほら」
慈恩さんが言う。
「まだ言ってる」
私は耳を塞ぎそうになった。
その時、慈恩さんの目がまっすぐこちらを向いた。
「貴子さん」
心臓が鳴る。
「その声、本当に自分の声ですか?」
部屋が静かになった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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