閑話⑤ おなじ、まちがいを
ノートが、増えていった。
一ページ、また一ページ。
できたことと、なおすことが、ぼくの字で、たまっていった。
ぼくは毎日、ビルの三階に通った。
「なおすこと、一つ」を、どうやってなおすか、坂田さんと、計画を立てた。
計画は、こうだった。
寄せられたとき、足元を見てしまう。
だから――寄せられる前に、顔を上げて、次に出す先の一点を、先に決めておく。
そして、相手が来たら、身体で、ボールを隠す。
「身体を、入れろ」と坂田さんは言った。
「相手と、ボールのあいだに、尻を置く。お前の、尻の横と、背中と、腹。立つときに使った、あの筋肉だ。あれで、壁を作る」
ぼくは、坂田さんを相手に、何度もやった。
坂田さんが、横から寄せてくる。
大人の力だ。
ぼくは顔を上げたまま、尻を入れて、ボールを隠す。
最初は、簡単にはがされた。
坂田さんの肩が、ぼくの背中を、ぐい、と押すと、それだけで、よろけた。
十回。
二十回。
三十回。
汗が、マットに、落ちた。
坂田さんは、手加減を、しなかった。
大人の肩は、重かった。
何度も、はがされて、ボールは、ころころと、部屋のすみまで、転がっていった。
ぼくは、それを、拾いに行く。
また、構える。
また、はがされる。
また、拾いに行く。
情けなくて、涙が出そうになった。
やめます、と言いたくなった。
でも、坂田さんは、ぼくが拾いに行くたびに、ただ、待っていてくれた。
急かさず、笑わず、ただ、待っていた。
だから、ぼくも、やめなかった。
何十回目か、ぼくの身体が、坂田さんの寄せを、覚えた。
来る、とわかった。
肩の、押してくる角度が、わかった。
ぼくは顔を上げたまま――足元を見なかった――先に、尻を、入れた。
坂田さんの寄せが、ぼくの背中に当たって、止まった。
ボールは、ぼくの足元で、ちゃんと隠れていた。
「いいぞ」
ぼくは、自分で、びっくりしていた。
さっきまで、はがされていた、おなじ寄せだ。
おなじ力、おなじ角度。
なのに今は、踏まなかった。
――覚えていたからだ。
一回前の失敗を、身体が覚えていたから、おなじ、まちがいを、しなかった。
失敗が、消えたんじゃない。
失敗が、ぼくを、守る側に、回った。
四日前、ぼくは、失敗を、消したくて、サッカーを、やめた。
失敗から逃げれば、楽になれると思った。
でも、逃げた失敗は、消えないで、ずっと、うしろから、追いかけてきた。
今は、違う。
失敗を、覚えて、抱えて、味方にする。
そのほうが、ずっと、強い。
坂田さんの言う「覚えてる人間が強い」って、こういうことか、と、ぼくは、すこし、わかった気がした。
うまくいったのが嬉しくて、ぼくは言った。
「もう一回、もう十回、やります」
「やめろ」坂田さんは、短く言った。
「今日は、ここまでだ」
「でも、まだ、できます」
「できる、ときに、やめるんだ」
坂田さんは、壁にもたれて、すこし黙った。
それから、いつもより低い声で、言った。
「昔、ぼくが教えてた子がいた。お前くらいの歳の。すじが、よかった。お前より、ずっと。……ぼくは、もっと、もっと、と追い込んだ。あいつが、もう無理です、と言っても、根性が足りん、と言って、やらせた。根性で、超えられる、と思ってた。――ある日、あいつの膝が、ぐにゃっと、音を立てた。靭帯が、切れた。あいつは、サッカーを、やめた。今でも、雨の日は、階段を下りるのが、つらいらしい」
ぼくは、何も言えなかった。
坂田さんの、大きな手が、すこし、握られていた。
坂田さんは、それから、しばらく、窓の外を見ていた。
隣町の、夕方の空を。
「ぼくは、あいつの才能を、見てた。なのに、あいつの身体は、見てなかった。もっと、もっと、と、自分の作りたいものばかり、見てた。――いちばん、見なきゃいけない点を、見てなかったんだ」
その声は、いつもの、短い声じゃなかった。
低くて、すこし、湿っていた。
坂田さんも、見る場所を、まちがえたことが、あるんだ、と思った。
この人も、その一点を、ずっと、忘れずに、覚えている。
覚えているから、ぼくに、根性で、やるな、と言える。
忘れた人には、言えない言葉だった。
「身体は、追い込んだときには、強くならん。前にも言ったな。強くなるのは、休んでるときと――覚えてるときだ。根性は、おなじ怪我を、何度でも繰り返す。覚えてる人間だけが、おなじ、まちがいを、繰り返さない。だから、お前は、根性で、やるな。覚えて、やれ」
坂田さんは、ぼくのノートを、指さした。
「お前のそのノートは、根性より、ずっと強い。忘れない、ってことだからな」
帰り道、公園の前を通ると、縁石に、あの人が座っていた。
慈恩さん。
膝の上で、両手を、組んで。
「どうでした、坂田さんは」
「……今日、おなじ失敗を、しませんでした。覚えてたから」
慈恩さんは、すこし笑った。
「忘れない人が、ね、いちばん、強いんですよ」
それから、遠くを見るような目で、言った。
「ぼくの仕事はね、人の中身を観て、覚えておくことです。この子は、こういう光を持っていた、と。たとえ、その子が、自分のことを、灰だと思っても。世界じゅうが、忘れても、ぼくだけは、忘れない。――しょうにん、っていうんです。証す人、と書いて。証人」
しょうにん。
よくわからなかったけど、その言葉は、なぜか、灰の中に、もう一つ、消えない点になった。
誰かが、ぼくのことを、覚えていてくれる。
それだけで、夜が、すこし、こわくなくなる気が、した。
ぼくは、家のことを、思い出した。
母さんが、昼と夜の、二つの仕事で、ぼろぼろになりながら、それでも、休まないこと。
あれは、根性だ。
でも、根性は、いつか、あの子の膝みたいに、ぽきっと、いくのかもしれない。
ぼくは、母さんの膝が、急に、心配になった。
――いつか、ぼくが、ちゃんと、稼げるようになったら、母さんを、休ませてあげたい。
そう思って、はっとした。
ぼくは、いつのまにか、「いつか」のことを、考えていた。
未来のことを考えるなんて、四日前のぼくには、できなかったことだった。
その夜、ぼくは、家の近くの、誰もいない壁の前で、ボールを蹴っていた。
顔を上げて。
一点を、見て。
軸足を、決めて。
足の裏の三点、内もも、尻の横。
ボールが、まっすぐ、帰ってくる。
「たのしい」
――言おうとする、前に、もう、言っていた。
棒読みじゃなく。
心が、言葉を追い越して、先に、来ていた。
坂田さんの言ったとおりだった。
千回めじゃなかったけど、たしかに、ひょいと、出てきた。
ぼくは、壁の前で、ひとりで、笑った。
誰も、見ていなかった。
でも、それで、よかった。
誰も見ていなくても、ぼくは、ぼくの「たのしい」を、聞いていた。
そのあと、ぼくは、もう一回だけ、じしん、と、言ってみた。
声に出して。
まだ、半分しか、言えなかった。
喉が、つっかえた。
でも、四日前は、ゼロだった。
今は、半分だ。
半分は、ゼロじゃない。
坂田さんなら、こう言うだろう。
できたこと、ひとつ。
半分、言えた。
なおすこと、ひとつ。
あと、半分。
ぼくは、暗い道を、家へ、歩いた。
足元じゃなく、前を、見て。
次の日、ぼくは、慈恩さんに、訊いた。
ずっと、胸の奥で、見ないようにしていた、いちばん遠い点を、初めて、まっすぐ見て。
「……ぼく」
「うん」
「ぼく、ドイツ、行っても、いいのかな」
慈恩さんは、すぐには、答えなかった。
ぼくの目の、奥を覗き込むように、しばらく見て、それから、言った。
「その点が、自分で見えたなら。――もう、行ける、ってことですよ」




