第13話 ともだちのお母さん(13)
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
翌朝。
目が覚めた瞬間。
簿記。
という言葉が浮かんだ。
驚いた。
ここ数年、朝一番に浮かぶのは主人、朝食、洗濯、失敗しないこと、そればかりだったから。
私は布団の中で少し笑った。
今日も、少しだけ進める。
そう思えた。
それだけで、少しだけ生きている気がした。
朝食。
味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
いつもの食卓。
主人が新聞を読んでいる。
リサはトースト。
私はコーヒーを淹れる。
「そういえば」
主人が言った。
嫌な予感がした。
「簿記はどうだ」
来た。
「少しずつ」
「そうか」
新聞をめくる。
「難しいだろう」
「うん」
「資格試験は甘くないからな」
優しい声。
いつもの声。
でも、今は聞こえる。
削るための言葉だ。
「落ちる人の方が多い」
「……」
「特に主婦が片手間で受けると」
ドクン。
心臓が鳴る。
「お父さん」
リサだった。
主人が顔を上げる。
「なんだ?」
「応援してるの?」
空気が止まった。
私も固まる。
主人も固まる。
ほんの一秒。
本当に一秒。
でも、私は見た。
主人の笑顔が消えた瞬間を。
「もちろんだ」
すぐ戻る。
穏やかな顔。
優しい父親。
「心配してるんだよ」
「ふーん」
リサは納得していない。
でも、それ以上は言わない。
大人みたいな顔をしていた。
主人が出勤する。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる。
沈黙。
三秒。
四秒。
五秒。
「お母さん」
リサが言った。
「うん?」
「気にしなくていいよ」
私は止まった。
「何を?」
「お父さんの言うこと」
ドクン。
胸が痛む。
「リサ」
「私ね」
一拍。
「最近分かるようになった」
十三歳の顔じゃなかった。
「お父さん」
「応援してるふりする時ある」
私は息を止めた。
気付いていた。
この子は、ずっと、ずっと前から。
「お母さん」
「うん」
「簿記やって」
「……」
「絶対やって」
その言葉に、涙が出そうになった。
昼。
勉強。
仕訳。
計算。
問題集。
少しずつ。
本当に少しずつ進む。
すると、スマホが鳴った。
大原さん。
「もしもし?」
『おー鈴木さん』
明るい声。
『勉強どう?』
「なんとか」
『なんとかは偉い』
即答だった。
『諦めてへんやろ?』
「はい」
『それで十分』
一拍。
『ところで』
「はい」
『今週会える?』
「え?」
『キャリアシート作ろう思って』
私は固まった。
「キャリア……?」
『仕事探しの第一歩や』
仕事。
その言葉に、まだ少し怖さがある。
でも、前みたいな恐怖じゃない。
少しだけわくわくが混じっていた。
その夜。
主人が帰宅する。
食卓。
いつもの時間。
いつもの席。
いつもの空気。
でも、違った。
私が違う。
主人が言う。
「まだ続いてるのか」
「うん」
「へぇ」
少し驚いた顔。
たぶん、やめると思っていた。
三日坊主だと。
いつもみたいに、途中で諦めると思っていた。
「大変だろ」
「そうだね」
「無理するなよ」
優しい声。
でも、私は初めて、少しだけ笑った。
「うん」
一拍。
「でも、やってみたいから」
静寂。
箸が止まる。
主人の目が上がる。
私を見る。
じっと。
じっと保存するように見る。
その視線を、私は初めて逸らさなかった。
「そうか」
主人が笑う。
でも、その笑顔はどこか固かった。
たぶん、主人も気付いた。
少しだけ、少しだけ私が変わり始めていることに。
その夜、書斎で主人は黒い手帳を開いた。
さらさら。
ペンが走る。
『最近、反抗的な発言が増えた』
『資格取得を理由に家庭を疎かにする傾向』
『娘が母親側へ傾いている』
簿記の勉強を始めて二週間。
私は夕食の後、一時間だけ机に向かうようになっていた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
でも進んでいる。
それが嬉しかった。
問題集に丸を付ける。
カリカリ。
シャーペンの音。
「まだやってるのか」
主人だった。
私は顔を上げる。
「うん」
「そうか」
主人は冷蔵庫から水を出す。
「すごいな」
褒められた。
はずなのに、胸がざわつく。
「俺だったら無理だ」
「……」
「仕事終わって勉強なんて」
コップを置く。
「まあ、続けばだけど」
一言。
それだけ。
それだけなのに、心のどこかが沈む。
三日後。
「今日はどこまでやったんだ?」
主人が聞く。
「第三章」
「へえ」
本を見る。
「まだそこ?」
笑う。
「結構時間かかるんだな」
悪意はないように見える。
でも、胸が痛い。
一週間後。
「試験いつ?」
「秋」
「そうか」
一拍。
「落ちても気にするなよ」
ドクン。
心臓が鳴る。
「まだ受けてもないのに」
リサが言う。
主人は笑う。
「現実的な話だ」
「失敗した時のことも考えないと」
「成功するかもしれないじゃん」
「もちろん」
笑顔。
「でも確率は高くない」
リサの顔が曇る。
主人はそれを見ない。
いや、見ている。
見ながら言っている。
その夜。
私は問題集を閉じた。
文字が読めない。
頭に入らない。
まだそこ?
続けばだけど。
落ちても気にするな。
言葉がぐるぐる回る。
すると、コンコン。
リサだった。
「お母さん」
「ん?」
「勉強してないの?」
「ちょっと休憩」
嘘だった。
本当は怖くなった。
また失敗する気がして。
また駄目だと言われる気がして。
リサは机を見る。
開いたままの問題集。
それから私を見る。
「お父さん?」
私は黙った。
それだけで分かったらしい。
「お父さんだ」
リサが小さく言う。
「リサ」
「ねえ」
一拍。
「お父さんってさ」
言いにくそうにする。
でも、言う。
「応援するの下手だよね」
私は思わず笑ってしまった。
リサも笑う。
「めちゃくちゃ下手」
「うん」
「たぶん世界一」
二人で笑う。
その瞬間、浩が植え付けた言葉が少しだけ軽くなった。
でも同時に、書斎では黒い手帳が開かれている。
『妻の判断力低下』
『資格取得への執着』
『娘が母親へ同調』
『家庭秩序に影響』
さらさら。
さらさら。
ペンが走る。
浩は本気だった。
自分が家族を守っていると。
自分が正しいと。
善人の顔のまま、家族を壊していく。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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