プロローグ
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夏の夜は、終わりたがらない。
校舎を出ると、空はまだ青かった。 紺と赤と紫が継ぎ目みたいに重なって、昼でも夜でもない、不思議な時間。
あ、月だ。
細い月がビルとビルのあいだに引っかかっている。
竹刀袋を背負い直す。 セーラー服の白いリボンが、汗で首に貼りついていた。
うちの中学、まだセーラーなんて。 隣の中学はもうブレザーなのに。
道場の先生が稽古を見に来ていて、「一本お願いします」になって、気づいたら八時を過ぎていた。
スマホでお母さんにだけ送る。 『今日もジオンさんとこ寄って帰る』 返事はたぶん来ない。 お母さんはもう慣れている。
駅前のハンバーガー屋を横目に通り過ぎた。 中で同じ中学の女子たちが笑っている。
あの子たち、明日には新しい彼氏ができてそう。
わたしには、たぶん、一生、できない。 でも、いい。
そう思いながら、わたしは別の方角へ歩いた。 行く場所が別にある。
神宝町。
電車でふた駅。 夏の夜の書店街。 古い本の匂いがする街。
わたしの、夜が、ある場所。
そこにわたしの居場所があった。
* * *
おじいちゃんのビル。 レンガ造りの十階建て。
祖父はビルのオーナーで、一階をジオンさんに貸している。
家賃は普通よりずっと安い。
「ちーちゃん。このビル、なかなか不思議な歴史があるんだぞ」
「えー、なにそれ」
「ま、長くなる話でな。そのうち、教えてやる」
絶対教えてくれないやつだ。
祖父はお酒を飲むとぽつりとこぼす。
「孫の命の恩人だから」
そんなビル。
入口の自動ドアの前で、わたしは立ち止まった。
事務所の窓。電気はついていない。
あ、留守。
ちょっとだけ肩が下がった。
ジオンさんはたまに出張に行く。 朝電話したら「いま北海道」と返ってきたりする。
飛行機、機嫌よく飛ばしますね、あの人は。
しかたない、と踵を返そうとした、その時。
あ、そっか。
ふと思いついた。
NAKANOに行ってみよう。
ビルから歩いて五分。 裏路地の奥にある小さな店。
NAKANO・朝昼夜舎。 朝と昼は喫茶店、夜はバー。 中野家、一家でやっている。
ジオンさんが、毎日一回、必ず顔を出す店。
きょうも、いるかな。
裏路地に向かって歩き出す。
夏の夜の、書店街の、奥。 古い本の匂いと夏草の匂いが、湿った風に混ざっていた。
路地を曲がった、その先。
NAKANOのガラスの向こうがぽつんと明るかった。
わたしの、避難所。
カウンターのいちばん奥の席。 壁を背に、糸目で座っている男。
あ、いた。
ジオンさんだった。
* * *
ジオンさんは毎日一回NAKANOに顔を出す。
たぶん、絶対来る。 出張で東京を離れていない限り。
「儀式みたいなもんですよ」
いつだか、ジオンさんがそう言った。
「ここに来ない日は、調子、出ないんですよね」
中野のおじさんが笑う。
「俺の店のコーヒーが効くんだよ」
裕子さんは台所で肩をすくめた。
「あんなぐったりしたお客さん、ほかにいないわよ」
でも、来る。
毎日、来る。 たいてい夕方。 今日みたいに、夜になることもある。
事務所から徒歩五分。 ジオンさんは毎日その五分を歩く。
それがジオンさんの儀式らしかった。
ふだんのジオンさんは近づきにくい。 背中に「話しかけるな」って書いてある日もある。 道で会っても、わたし以外の中学生は、ぜったいに話しかけない。
保護者会で見たとき、お母さんたちが、
「あの方、ちょっとオーラが……」
って、ヒソヒソしていた。
オーラ。
うん。あると、思う。
普通の大人とは、ちがうものを、持っている。
たぶん、世界の裏側、片足で立ってるみたいな人。
……いや、それは、わたしの中二病かもしれない。
でも、NAKANOの中だけは別だった。 ここでは糸目がちょっとだけゆるむ。
だから、わたしはここに来る。
たぶん、そう、いうこと。
* * *
ガラス越しにジオンさんを見た。
カウンターにもう一人いた。
若い男の人。たぶん、二十歳くらい。
え、なに、この人。
肩より長い、くしゃくしゃの黒髪。 日焼けした、痩せた身体。 よれよれの黒いTシャツ。 耳に銀のピアスがいくつか光っている。 首筋に、薄い痣。 Tシャツの袖から、ちらっと何かの絵が覗いていた。
刺青?
最初に頭に浮かんだ言葉。
え、ヤンキー?
うちの中学にも不良はいる。 でも、そういうレベルじゃない感じ。 もっと、なんていうか、本物の不良っぽい人。
息がちょっと浅くなる。 こんな人がNAKANOにいるなんて。
ガラス越しでもわかった。
飲んでる。
しかも、すごい量。
カウンターに空いたジョッキが三つ。 ハイボールのグラスも二つ。 顔は、真っ赤というより、もう紫色だった。
ぐでんぐでん、というやつだ。
そして、その人はジオンさんの肩をわしっと掴んでいた。
「だぁかぁらぁ……俺はぁ……」
ガラス越しでも声が響いていた。
低くて、太い声。 酔っているのに、芯がある声。
「もう、歌、やめるんだってばぁ……」
歌?
「歌、歌、歌、なんだよ。歌うとか、もう、無理なんだよ……」
その人はジオンさんの肩から、ずるずる、と、ずり落ちていった。 カウンターに突っ伏した。
ジオンさんは糸目でその人を見ていた。 動こうともしない。 ただ自分のアースクエイクをちびちび飲んでいる。
アースクエイク。
なんか、地震みたいな名前のお酒。
中野のおじさんがいつだか教えてくれた。
「ジョンちゃんの、いつものお酒」
「あれ、ものすごい強いんだぞ」
「ふつう、二口で潰れる酒だぞ」
「ジョンちゃんは、あれを気に入ったみたいで、よう飲んでる」
味、わかる人なんだ。
それがいつものジオンさんだった。 強い酒を、ちびちび味わいながら、何時間でも座っている。 顔色は、変わらない。 酔った姿、見たことない。
中野のおじさんがいつかこう言ってた。
「あの兄ちゃんは、底がねえからな」
「ガブ飲みしないのは、酒の味を楽しむためなんだよ」
うわばみで、味、わかる人。
それがジオンさんの飲み方だった。
え、ジオンさん、絡まれてるんですよ。 大丈夫?
ガラス越しに心配して見ていた。 でも、ジオンさんはぜんぜん慌てていない。 怖がってもいない。 むしろ、ちょっと楽しそうに、糸目で笑っていた。
なに、これ。
ちょっと笑ってしまった。
そして、ガラスのドアを押した。
* * *
「いらっしゃい——あ、ちーちゃん」
中野のおじさんの低い声。
「こんばんは」
「あ、ちょっと、その竹刀、置いとくか」
「お願いします」
竹刀袋を、入口の傘立ての横に立てかけた。 奥のテーブルでは、サラリーマンらしき人たちが笑っている。
そして、カウンターのいちばん奥。
ジオンさんがふっと振り返った。
酔ったのか、もとからそういう顔なのか、糸目がいつもより薄く開いていた。
「お、ちーちゃん」
その響き。
一瞬、心臓が跳ねた。
わたしが、ちーちゃん。
ジオンさんはわたしのことを、いつからかそう呼ぶようになっていた。 小さい子をぜんぶ「ちーちゃん」と呼ぶらしい。 だから、わたしだけが特別、というわけじゃない。
それはわかってる。
わかってるんだけど。
夏の夜の店の灯りの中で、酔った糸目で薄く笑って、そう呼ばれると、
なんで、こんなに、変な気持ちになるんだろう。
息がちょっと苦しくなる。 頬が勝手に熱くなる。
それを知られたくなかった。
セーラー服の汗ばんだ襟元を、ぐい、と引っ張った。
「ジオンさん、こんばんは」
「はい、こんばんは。剣道の帰り?」
「うん。今日、長引いて」
「また、勝ったの?」
「次の関東大会までは、ちょっとね」
「楽しみだな」
楽しみ。
そのひと言を聞きたくて、わたしは毎日ここに来ている。
たぶん、そう、なんだと思う。
* * *
小学校時代のわたしは、敵なしだった。 全国大会も優勝した。 道場の師範に「あんたは天才だ」と言われた。 新聞にも載った。 六年生の春までは、まっすぐな道だった。
でも、そこから、ちょっとだけ迂回した。
中学に入った瞬間、まわりが急に大きくなった。 いや、わたしが大きくならなかった、と言うべきかも。
小学校では「強い」と言われた身長が、中学では「ふつう」になった。 クラスの女子は、夏休みのあいだに別人みたいに伸びていた。 道場の同期もわたしを抜かしていった。
* * *
そして、中一の春。 わたしは学校の剣道部で部長になった。
経緯はよく知らない。
ただ、入部の初日、顧問の先生がぽつりと言った。
「お前、中一だが、部長を、やれ」
「えっ、いいんですか?」
「実力で、選んだだけだ」
「……はい」
よく分からないけど、頑張ろう。
そう思った。
部員たちは、男女、十二人くらい。 みんな、わたしのことを「部長」とか「ちーちゃん」とか、ふつうに呼んだ。 よく笑ういい人たちだった。
ただ、顧問の先生だけが、ちょっと、違った。
* * *
「お前、ちょっと、稽古に付き合え」
ある日、顧問がわたしを呼んだ。
「はい」
あ、わたしを、鍛えてくれるんだ。
そう思った。
放課後の道場。 他の部員はまだ来ていない。
顧問はすでに防具をつけて、竹刀を握って、立っていた。
「打ち込んでこい」
「はい」
わたしは面を打ちにいった。
その瞬間。
え。
身体が宙に浮いた。
顧問の体当たりだった。 中一・百四十センチのわたしの面打ちを、四十代の大人の左肩が、思いきり、押し返した。
うっ。
板の間に背中から落ちた。 肩から胸の真ん中まで、痛みが走った。
「弱いな。もう一回」
「……はい」
うん。 わたし、弱い。
立ち上がる。 息がうまく吸えなかった。
もう一回、打ち込む。
え。
また宙に浮いた。
今度は、踏み込みの足を、外側から、思いきり、払われた。 左の足首が変な角度にねじれた。
板の間に頬から落ちた。
「立て。もう一回」
「はい」
そして、その次。
え。
竹刀の先がまっすぐ、わたしの喉元に入ってきた。
突き。
中学では本来、習わない技。 中学生同士の試合でも、ふつう、禁止されている技。
防具の突き垂が、ぐ、と、押し込まれた。
声が出なくなった。 息もできなかった。
両手で喉を押さえて座り込む。
「突き、躱せ。次、突くぞ」
顧問はそれをふつうに指導の声で言った。
……はい。
声が出ないまま、頷いた。
二、三秒、経って、ようやく息が入った。
突き、躱せるようにならなきゃ。 わたし、弱い。
立ち上がる。
「もう一回」
「はい」
* * *
それから、稽古の内容が、ちょっとずつ変わっていった。
顧問の竹刀はわたしの面打ちを受けない。 代わりに、
小手の、手首の、裏。
防具の継ぎ目のところ。 革と革のあいだの薄い場所。
そこを狙って打ってきた。
「お前は、小手を守れ。手首は開けるな」
はい。
竹刀を握る右手がしびれた。 家に帰ってお風呂で見ると、手首の付け根に青黒いまるい痣がいくつもできていた。
竹刀、ちゃんと、握れるかな。 明日、握れなかったら、どうしよう。
そんなことを考えながら寝た。
* * *
別の日。
「お前、胴の脇、空いてんぞ」
え。
竹刀が胴のサイドの隙間に入った。
胴の左右の脇。 防具で覆われていない、肋骨の横。
そこをまっすぐ打たれた。
う。
息がぜんぶ抜けた。
板の間に横向きに倒れた。
肋骨が、たぶん、ひびくらい入った。 家に帰ってお風呂のとき、左の脇腹をそっと触ると、ぎし、と鳴った。
一週間、ぐらいで、治るかな。 治らなかったら、範士に、申し訳ない。
そう思った。
* * *
そして、別の日。
竹刀がまっすぐ、面金の隙間を抜けた。
面金の奥。
頬。
頬の骨が、ぐん、と鳴った。
口の中で血の味がした。 舌で奥歯を確かめる。
歯、まだ、ある。
そっと安心した。
「お前、面の隙間、空けるな」
「……はい」
はい。 空けないように、します。
* * *
家で。
お風呂のあと、お母さんが廊下ですれ違いざまに、
「あら、あんた」
と声を上げた。
「肩のところ、なに、それ」
お風呂上がりのキャミソールの肩紐の横。 青と紫の痣がはみ出していた。
あ、しまった。
「ぶつけた」
口が勝手に答えた。
「稽古中に、防具と、防具の、あいだに、ぶつけて。ふつうに、よくあるやつ」
「ふぅん」
お母さんはそれで引き下がった。
よかった。
そう思った。
お母さんに、心配、かけたら、剣道、やめろって、言われるかもしれない。 そしたら、範士に、申し訳ない。 部長、失格になる。
それだけは絶対に嫌だった。
そんな稽古が月に二、三回、続いた。
部員たちはその時間にはいない。 顧問がふたりきりの時間を選んでいた。
たぶん、わたしのレベルに合わせるために、ほかの部員を、待たせてるのかも。 申し訳ない。
そう思った。
防具の中、わたしの身体には、青と紫の痣が地図みたいに広がっていた。 左の足首はいつも少し腫れていた。 右の手首は竹刀を握ると、じん、としびれた。 左の脇腹は深呼吸すると、ぎし、と鳴った。
剣道の防具って、すごい。 痣、ぜんぶ、隠してくれる。
家でも誰にも見せなかった。 お風呂のときも、自分でしか見ない。
弱音、吐けない。 範士に、申し訳ない。 部長、失格になる。 わたしが、強くなれば、顧問の打ち込みも、ちゃんと、受けられるように、なる。
それだけはちゃんと決めていた。
* * *
そして、部員たちとの通常稽古。
あれ。
左の足首が踏ん張れない。 右の手首がしびれている。 深呼吸すると、左の脇腹が、ぎし、と鳴る。
返し技で踏み込もうとすると、足首がぐらつく。 面打ちで竹刀を振り上げると、肩が、ずきっ、と鳴る。 小手を打とうとすると、手首が震える。
部員のひとりが、わたしの面を、ぱしっ、と打った。
「あれ?」
その子が首を傾げる。
「ちーちゃん部長、今日、なんか、遅くないですか」
「うん、ちょっと、ね」
「部長、最近、たまに、ふらついてますよ」
「あ、はは。寝不足、かな」
そうごまかした。
わたし、最近、変だ。 身体が、思うように、動かない。 みんな、ぐんぐん、伸びてるのに、わたしだけ、止まってる。
夏。秋。冬。
部員たちがどんどん伸びていく。 同期の男子も女子もわたしを抜いていった。
わたし、置いてかれてる。 スランプだ。
そう思った。
それだけだった。
* * *
中一の試合は、ぜんぶ、ぽろぽろ負けた。 体格でかわされて、力で押されて。 気づいたら、ふつうの剣道少女になっていた。
優勝、ゼロ。
小学校時代、新聞に載った「天才少女」が、中学一年で消えた。
え、これ、わたし、もしかして、終わった?
そう思った夜、こっそり泣いた。
あんなに、ジオンさんに、言われたのに。
ジオンさんは十二歳のわたしにこう言った。
「ちーちゃんは、戦闘に関しては、スペシャリストかもしれないですね」
それだけ。 ランクとか、保証とか、ぜんぶない。
「スペシャリスト」と「かもしれない」が、同じ口から出てくる、いつものゆるい言い方。
でも、わたしはその言葉を、十二歳の夏からずっとお守りにしていた。
「戦闘スペシャリスト」。
口の中で、何度か、転がしてみる。 そのたび、ちょっと強くなれる気がした。
「占いみたいなもんですけど」とも、言っていた。
うん、知ってる。 でも、その占いが、わたしを支えていた。
絶望、というより、申し訳なかった。
ジオンさんの占いを、わたしがはずさせるのが、いやだった。
だから、考え方を変えた。
体格で勝てないなら、間合いを取る。 力で押されるなら、フェイントで崩す。 身長が伸びないなら、踏み込みの速さで奪う。
剣道、っていうか、たぶん、これはもっと広い、なにか。 ジオンさんが言ってた「戦闘」って、たぶん、剣道だけじゃない。
意識して、鍛え直した。
中学二年の春。 わたしは復活した。
中学二年の夏。 大会のタイトルを片っ端から取った。
県大会、優勝。 関東中学校剣道大会、優勝。 全国中学校剣道大会、優勝。
いま、わたしの世代の、中学剣道で。 わたしを、止めた人は、いない。
そういう状況、らしかった。
新聞にも何回か載った。 学校でもちょっと有名になった。 先生たちもわたしの扱いに困っていた。
部活の男子たちは「鬼神」と呼んだ。
鬼神。
うん。 わたしはその響き、ぜんぜん嫌いじゃない。
……いや、まあ、口には、出さないけど。
* * *
道場、っていうのは、警察の近くの少年剣友会。 平日は学校の部活で、土日と放課後は、少年剣友会。 警察のおじさんたちも、たまに混ざる。
大人と、子どもの稽古、混合。
道場のいちばん上の人。
範士、っていう、すごく偉い、おじいさん。
小学生の頃から、ずっと、わたしのことを見ていた。 本部から月に一回、特別指導に来る人。
会うたびに、範士は、低い声で、ぽつりと言う。
「おぬし、見込みがある」
「ぼーっと見てたら、面白い太刀を振るな」
そう言って、口の端だけで、ふっと笑う。
その範士から、中学に上がる前の春、こう告げられた。
「おぬし、もう、子供の部じゃ、もったいない」
「中学に入ったら、大人の部に入って、よかろう」
「え、いいんですか?」
「おぬしなら、本気でいける」
「わしの責任で、許可する」
範士の責任、って、なんか、重いじゃん。
それで、中一のはじめから、少年剣友会の一般の部で稽古するようになった。
あとから、知った。
範士は、学校の剣道部にも、わざわざ電話を一本入れてくれていたらしい。
「あの嬢ちゃんは、中一でも、部長で、よかろう」
「実力で、選べ」
そのひと言、だけ。
道場が実力主義だったから、学校もその流れで、わたしは中一から部長を引き受けた。
範士の、おかげ。
会うたびに、
「おぬし、稽古、続けとるか」
「うむ。よい、目をしとる」
それだけの短い会話。
でも、わたしにはそれだけで十分だった。
* * *
大人の男の人と、本気の稽古。
警察のおじさんたちは、最初、優しかった。
「お、嬢ちゃん、ちっこいなー」
「がんばれよー」
「あんま、無理すんなよー」
防具をつけてあげる手も、優しかった。 稽古の最中も、ちゃんと加減して、面を打たせてくれた。 帰り際には、缶ジュースまでくれた。
なんだ。 大人の道場、ぜんぜん、こわくないじゃん。
そう思っていた。
最初の、二週間だけ。
ある日、わたしが、おじさんの一人から、面、一本、取った。
あ、勝てた。 わたし、嬉しい。
そう思って、見上げたら。
おじさんの顔、変わってた。
笑ってない。 缶ジュースくれた、あの顔じゃない。
その日から、空気が、変わった。
スランプになった。
身長、百四十、ちょっと。 体重、四十前半。 体格で押される。
うん、まあ、それはわかる。
問題は、
大人たちが、本気でかかってきた。
子ども扱いしなくなった。
なぜなら、
「中一の女の子に、負けてなるか」
「本気を見せねぇと、男じゃねえ」
「俺らのメンツが、かかってんだ」
そう、思ったらしい。
警察のおじさんたちが、稽古着をぎゅっと握って、「うおおおお」と突進してくる。
え、ちょ、本気?
防具の上から、痣ができた。 踏み込みが強すぎて、押し負けた。 体格差で、空中に浮いた。
大人、本気のガチンコ。
そのうち、思った。
力で戦っちゃダメだ。大人、本気だから、力比べ、こっちが絶対、負ける。
それで、技術を磨いた。 間合い、フェイント、踏み込みの速さ。身体の軸のずらし方。打突の軌道。
気づいたら、警察のおじさんたちが、追いつかなくなった。
中二の春。
その夏、大会で優勝した。
警察のおじさんがこう言った。
「お前、ほんと、化け物だな」
あの時、本気で突進してきた自分たちのことを棚に上げて、よく言うな。
そう思ったけど、口には出さなかった。
* * *
身長は、まだ百五十、ちょっと。 体重も、四十、ちょっと。 でも、技術があれば関係ない。
稽古では、警察の人たちを何人も吹っ飛ばすようになっていた。
剣道には、「起こり」を読む、という技術がある。 相手が「打つ」と決めた、その瞬間を捉える技術。
まだ竹刀は動いていない。 まだ足も出ていない。 ただ、身体の奥で、筋肉が、ぴくり、と震える。
その、ぴくり。 わたしは、それを、相手が動く前に読む。
たぶん、これは。 剣の道の、いちばん深い、ところにある、技術。
……まあ、わたしは、まだ、入り口に、立ったばかりだけど。
だから、相手が踏み込もうとした時には、もう遅い。 こちらの竹刀が、先に走っている。
おじさんたちは、まだ打とうとしただけだ。 まだ、何も始まっていない。
なのに。
もう、面が入っていた。
「え?」
「あれ?」
「いま、何、された?」
警察の人たちがぽかんとする。
そりゃそうだ。 本人、まだ動いてないのに、打たれてる。
踏み込みで宙に浮かす。
大人の男の人が、ふっ飛ぶ。
なんか、楽しい。
そんなことを続けてたら。
警察の控え室で、おじさんたちが、わたしのことを、
「神宝町の悪魔」。
え。悪魔?
わたしが?
「お前ら、公では絶対言うなよ」
「あの嬢ちゃんに聞かれたら、また本気で来るぞ」
「勘弁してくれ……俺、ぎっくり腰あるんだって」
控え室の奥から聞こえてきた会話に、ちょっと笑いそうになった。
内輪で人を化け物扱いしてんの。 っていうか、最初に本気で来たの、おじさんたちだからね?
でも、まあ、缶ジュースくれた人たちでも、ある。
そう呼ばれている、らしい。
わたし、まだ中学生なんだけど。
でも。
「神宝町の悪魔」。
口の中で、もう一度、転がしてみる。
うん。 その響き、ぜんぜん、悪くない。 むしろ、ちょっと、かっこいい、かも。
……あ、いや。
いやいや、なに考えてんの、わたし。 やっぱり、ちょっと、中二病かも、これ。 ってか、ちょっと、じゃなくて、ガチ。
知らないけど。
* * *
クラスでも、ときどき男子が話しかけてくる。
「あっ……あの」
机から顔を上げた。
男子がひとり、わたしの前に立っている。
「あの、その」
「うん?」
「えっと」
「うん」
「あ、その……」
……。
しゃべらない。
「あ、あの」
「す、すみま、せ」
なんで謝るの。
「いっ、いっ、いっ」
"いっ"の先、なに。
そこで止まる。
わたし、これから道場なんだけど。 お昼休み、あと五分しかないし。
時計をちらっと見る。
三分経過。
男子はまだ立っている。 顔が真っ赤だった。 手になにか握られてる。よく見えない。
そのとき。
「××ーー!」
後ろから声が飛んだ。
いつも一緒にいる友達。
「××、なにやってんだよお前ー!」
「あ、ご、ごめ」
「行くぞー! サッカーコート取れたー!」
男子は、一瞬だけわたしを見た。 あわてたみたいに笑う。
「あ……ごめん。呼ばれちゃった」
そう言って、逃げるみたいに走っていった。
なんだったの、いまの。
お昼休み、終了。 お弁当、食べきれなかった。
そんなことが、月に二、三回ある。
廊下で会うと、なぜかみんな道を空ける。 いや、そこまで避けなくていいから、と思うけれど、口には出さない。
わたし、そんなに、こわい?
たぶん、こわい、んだろうな。
中学二年生、女子、百五十センチ、四十キロ。 警察のおじさんを吹き飛ばす、剣道部の部長。
うん、こわいか。
……あ、ちょっと、嬉しいかも、それ。
いや、嬉しがってる場合じゃない。
最近はだいたいそんな扱いだった。
* * *
そして、中二の、夏の少し前。
タイトルを片っ端から取りはじめて、新聞にも何回か載って、男子部員たちが「鬼神」と呼ぶようになった頃。
学校の、剣道部の、稽古日。
顧問の先生は、四十代。 昔、ちょっと、強かったらしい。
中一から、わたしが部長なのが、ずっと、面白くなかったらしい。
それは、なんとなく、わかっていた。
廊下で会っても、目を合わせない。 試合に勝っても、「うん」とだけ、言う。 わたしの竹刀の握り方を、男子部員の前で、わざわざ指摘してくる。 ぜんぶ、教科書通りなのに。
そういう人だった。
その日。
顧問は、男子部員、全員の前で。 わたしを、ちらっと指で示してから、男子たちに向かって、こう、言った。
「女だから回ってきた席だ。男じゃ絶対、無理だ」
え。
男子部員たちは、しん、と静まり返った。 わたしも、少し遅れて、黙る。
わたしの方を、見ない。
そこが、まず、刺さった。
目の前にいるのに。 わたしを話題にしているのに。 顧問はわたしに向かっては喋らなかった。
「お前ら、わかってんのか」
顧問は続けた。
「女の上位は、頭打ちが、早い」
「全国優勝? いまだけの話だぞ」
「高校行ったら、体格で、終わる」
「だからな、お前ら男子は、いま、奮起しろってことだ」
あ。
そういう、ことか。
わたしを、棒にしたいんだ。 男子を、奮起させるための、棒。
「『女に負けた』って、恥ずかしいだろうが」
「お前ら、いつまでも、女に部長やらせて、いいのか」
男子部員たちは、誰も、答えなかった。
ひとりが、板の間の木目を、じっと、見ていた。 別のひとりが、袴の襞に、視線を、落としていた。 誰かが、口を、ぎゅっと、結んでいた。
その沈黙のほうが、顧問の声よりも、何倍も、重かった。
あの人たち、わたしの代わりに、痛がってくれてる。
顧問は、満足そうに、頷いた。
褒めてる、つもりですら、ない。
むしろ、わたしを、利用してる。
胸の奥に、斜めに、引っかかった。 怒っていいのか。 笑っていいのか。 正面が、ない、変な角度に。
「……はい」
少し、遅れて、頭を下げた。
それで、その日の稽古は、ふつうに、始まった。
* * *
その夜。
学校の稽古は、いつもどおり、終わった。 わたしは、いつもどおり、少年剣友会へ向かった。
大人の部の、稽古日。
道場の戸を引き開けた瞬間。
範士がいた。
特別指導の日では、ない。 本来なら、月に一回しか、来ない人。
なのに、その日に限って。 道場の隅で、腕を組んで、座っていた。
あ。
範士は、わたしを、ちらっと見た。 それだけ。 頷きも、しない。
わたしは、いつもどおり、防具をつけた。 いつもどおり、警察のおじさんと、稽古した。
「うおおおお」と来る。 いつもの、ガチンコ。
その日も、技で、ちゃんと、勝った。
防具を外して、汗を拭いて。 帰り支度をしていたら、
「おぬし」
範士の、低い声。
「はい」
「ちょっと、こっち、来い」
板の間に、正座する。
範士は、皺の深い顔で、しばらく、わたしを見ていた。 それから、ぽつりと言った。
「おぬしの太刀は」
「男も、女も、ない」
え。
「強い者は、強い」
「それだけ、じゃ」
それだけ、だった。
範士は、もう、こっちを見ていない。
湯飲みの茶を、ずず、と啜っている。
「あ……はい」
「もう、行ってもよかろう」
「はい」
立ち上がる。
道場の戸を出る時、もう一度、振り返った。
範士は、目を閉じて、湯飲みを傾けていた。 こちらには、まったく、興味がなさそうに、見えた。
でも。
先生は、知ってた。
それだけは、わかった。
なぜ知っていたのか。 誰から聞いたのか。 それとも、ただの偶然か。
わからない。
ただ、範士は、いつもの月一回じゃ、ないのに、その日に、いた。
そして、ふた言だけ、置いていった。
「男も、女も、ない」
「強い者は、強い」
それだけ。
それだけで、胸の奥の、斜めに引っかかっていたものが、ふ、と、解けた。
完全には、消えなかった。 でも、抜けた。
ありがとう、ございます。
口には、出さなかった。
範士は、たぶん、聞こえてないふりを、するから。
* * *
そして、その帰り道。
竹刀袋が、いつもより、少しだけ、軽かった。
夕方の街灯が、ぽつぽつ、灯りはじめていた。 セミの声が、また、戻ってきていた。
女だから。 男も、女も、ない。
ふたつの言葉が、頭の中で、別々の方向へ、流れていった。
同じ剣道の世界で、同じ大人の男の人の口から、出てくる。
大人って、こんなに、違うんだ。
だから、わたしは、選んでいい。
顧問の声、いらない。 範士の声、信じる。
いや、信じる、というより。 もう、決めた。
わたしは、範士の側で、生きる。 顧問の側じゃ、ない。
うん、そう。
そして、神宝町に向かった。
たぶん、あの店、灯ってる。 たぶん、糸目の人、いる。
それだけで、足が、勝手に、動いた。
* * *
でも。
「……そういうとこ、ほんと危なっかしいよね」
ジオンさんが、いつもの糸目で、薄く笑いながら、そう言う。
その顔が。 その声が。
なぜか、ずっと頭に残った。
なんでだろう。
たぶん、答えはもう分かってる。 でも、まだ認めたくなかった。
だって、わたし、まだ十三だし。
ジオンさんは二十七。 お兄さん、って呼ぶには大人すぎて、 おじさん、って呼ぶには、まだ若い。 そんな、微妙な年齢。
わたしから見たら、たぶん、おじさん寄り。
わたし、おじさん好きなのかもしれない。
そう思った瞬間、自分で自分にちょっと引いた。
いや、なにそれ。 だめな漫画の導入じゃん。
そう思うのに。
でも、おじさん好き、とは、ちょっと違う気がする。 ジオンさん限定。 うちのお父さんとは、十歳以上、違うし。 これは、おじさん好きじゃなくて、ジオンさん好き。 うん、そう、たぶん。
……ってか、なに、わたし。 ヤバい、ヤバい。
好き、なのかな。
その考えだけ、消えなかった。
毎日、ここへ来る。 道場に来て、稽古して、それで、帰り際に、少しだけ話して。
ジオンさんに、会いに来てる。
その結論だけは、もう、ごまかせない気がした。
もしかしたら、わたしにとっても、これが儀式になってるのかもしれない。
* * *
「あ……あの、ジオンさん」
ジオンさんの隣でぐでんぐでんに潰れている人を、おそるおそる指差した。
「だ、誰、この人……?」
「ああ、これですか」
ジオンさんは、糸目のまま、ちらっと隣を見る。
「初対面です」
「は?」
「さっき、ふらっと入ってきて、勝手に隣座って、勝手に飲み始めて、勝手に絡んできました」
「えぇ……」
いや、待って。
その人をもう一度見た。 耳のピアス。シャツの隙間から覗く、肩の刺青みたいな柄。黒い服。指、細い。
全体的に、"近づいちゃダメな大人"感がすごい。
「ジオンさん、その人、ヤバくないですか」
「見た目は、まあ」
「いや、めちゃくちゃヤバそうですけど」
「うん、わかります」
「絡まれてるんじゃ」
「ですね。絡まれてますね」
「逃げないんですか?」
「めんどくさいんですよ」
「逃げるのが?」
「こういうの、放置するのが」
あー。 はいはい。
なんとなく、納得した。
ジオンさんは、糸目のまま薄く笑う。 その"めんどくさい"が、全然めんどくさそうじゃない。 むしろ、少し楽しんでるみたいだった。
アースクエイクをちびっと飲んで、グラスを揺らしながら、ぽつりと言う。
「人ってさ、自分から潰れに来る時って、たいてい、守りたいもん、あるんですよね」
え。
ジオンさんを見た。
でも、ジオンさんはもう別の方を向いている。 何も言ってませんけど? みたいな顔で。
なに、いまの。
あの人、たまにこういうことを言う。 で、聞き返すと、絶対、
「気のせいです」
って笑う。
だから、もう聞かない。
その代わり。
……ていうか。 これ、近い。
初めて、その酔っ払いのすぐ隣に座ってることを意識した。
なんか、する。
酒。汗。 煙草じゃないけど、夜の店の空気みたいな匂い。 そこに混ざる、男の人特有の、少し湿った熱。
あ。 これ、一日二日、風呂入ってない系のやつ。
夏の湿気と混ざって、独特の空気になっていた。
うわ。
そっと呼吸を浅くする。
部活で、男子の防具の臭いを嗅いだことがある。 あれよりはマシ。 でも、方向性が違う。
あれより、大人。 年頃の女子にこれはダメ。
椅子を、ちょっとだけジオンさん側へ寄せた。
すると。
突っ伏していたおにいさんが、
「ううう……」
と低く唸って、ゆっくり顔を上げた。
え。
息が止まった。
目は半分しか開いていない。 でも。
顔、整ってる。
鋭い二重。通った鼻筋。痩せた輪郭。 頬に、カウンターの木目の跡がついていた。
神経質そうな顔。 近づきにくい顔。
なのに、酔いと涙のせいで、その鋭さが、今だけ半分くらい崩れていた。
この人、笑ったら、別人みたいになる、たぶん。
「ジオン……さん……」
「はい」
「俺ぇ……もう、歌ぁ、やめますからぁ……」
「はい」
「ギターもぉ……売ったんでぇ……」
「ええ」
「先日ぅ、売りましたぁ……」
「うん、聞いた、聞いた」
「生活費ぃ、なくてぇ……」
「うん」
「上京して半年でぇ……こうなりましたぁ……」
「うん」
半年。 わたしが、夏の稽古、続けてた、その半年で。 この人は、東京で、こんなになるまで、潰れた。
「俺ぇ、才能、ないんですぅ……」
「ね」
その喋り方。
ぐでぐでに酔ってるのに。 声の奥だけ、変に熱かった。
体は潰れているのに、芯だけ燃え残っているみたいな。
「故郷ぉ……帰りますぅ……」
「うん」
「もう、無理なんですぅ……」
「うん」
ジオンさんはただ頷いていた。
否定もしない。 慰めもしない。
「頑張れ」とも、「諦めるな」とも言わない。
ただ、アースクエイクをちびちび飲みながら、静かに相槌を打っている。
それだけだった。
おにいさんが、
「うえぇぇ……」
と声を漏らした。
泣いていた。
カウンターに、ぽた、ぽた、と涙が落ちる。
中野のおじさんは何も言わず、新しいおしぼりを置いた。
裕子さんが、わたしにそっと顔を寄せる。
「ねえ、ちーちゃん。奥のテーブルでココア飲む?」
小さい子に見せる空気じゃない、って思ったんだと思う。
でも、わたしは首を振った。
「ここで、いいです」
ジオンさんの二つ隣の席に座る。 そして、そのおにいさんを見た。
歌、やめるんだ。
胸の奥で、なにかが、ぎゅっと縮まる。
歌なんて聞いたことない。 名前も知らない。
それなのに。
泣きながら「才能ない」って言う姿が、内側のどこかを、つめたい指でつねるみたいだった。
ジオンさんが、ちらっとこっちを見た。
そして。
糸目のまま、にこっと笑う。
え?
なに、その顔。
ジオンさんは、またアースクエイクを少し舐めて、それから、おにいさんに声をかけた。
「お兄さん。ちょっといいですか」
「……はいぃ」
「こちらの、ちーちゃんに。一曲、歌ってあげてくれませんか」
え?
目を見開いた。
おにいさんが、
「は?」
と顔を上げる。
「いや、急になに言ってるんですか、ジオンさん……」
「めんどくさかったら、全然いいんですけどね」
ジオンさんは、相変わらずの糸目で笑う。
「こちらのちーちゃん、剣道の大会、ずっと勝ち続けてるんですよ。まあ、その、お祝い的な感じで」
「いや……それと、俺の歌に、なんの関係が……」
「だって」
ジオンさんは、グラスを指先で揺らしながら言った。
「お兄さん、歌うたい、なんでしょう」
おにいさんは黙った。
さっきまで酔っぱらいみたいに崩れていたのに、その一言のあとだけ、急に静かになる。
それから。
「……でしたー」
ぽつりと言った。
「過去形で」
「過去形ですか」
「ええ……」
「じゃあ今は、ふつうのお兄さんですか」
「ええ……ただの、ふつうの……無職です……」
「はい」
「夢、捨ててきました」
「はい」
ジオンさんは、そこで変に励ましたりしなかった。
「そんなことないですよ」とも、
「まだ若いんだから」とも言わない。
ただ、一回頷いて。
「じゃあ、ふつうのお兄さんとして」
さらっと続けた。
「ちょっと一曲、歌うのは、可能ですか」
おにいさんが、じっとジオンさんを見る。
ジオンさんは、糸目でにこにこしていた。
逃がさない時の顔だった。
カウンターの上で、氷が、からん、と鳴る。
少し長い沈黙のあと。
おにいさんは、小さく息を吐いて。
「……一曲、だけなら」
と言った。
* * *
ギターはなかった。
おにいさんは、さっき「売った」と言っていた。 だから、もうない。
っていうか。 ギターないのに、歌うの? アカペラ? 居酒屋で?
ちょっと不安になった。
でも。
ぐでんぐでんだったおにいさんは、ゆっくりカウンターに両手をついて、顔を上げた。
一回、深く息を吸う。
それから。
歌った。
声が出た瞬間。
胸の奥が、
え。
って、なった。
夏の夜だった。 冷房のぬるい風が流れていた。 焼き鳥の匂いと、お酒の匂いが混ざっていた。
なのに。
その声が出た瞬間、店の空気が、ぜんぶ塗り替わった。
低い声。 太いのに、どこか震えている声。 泣きそうなのに、まっすぐ前へ出ていく声。
英語だった。 知らない歌だった。
何を歌っているのか、わからない。
でも。
あ。 これ。
わかった。
これは、別れの歌だ。
別れたくないのに。 それでも、自分で、別れると決めた人の歌。
そういう声だった。
胸の奥を、ぎゅう、と掴まれる。
涙が出そうになった。
なんで。 知らない歌なのに。 知らない言葉なのに。
こんな。
うわ。
それしか出てこなかった。
気づけば。
中野のおじさんも、裕子さんも、皿を拭く手を止めていた。 奥のテーブルのサラリーマンまで、こっちを見ている。
店の中で、誰も動かなかった。
ジオンさんだけが。
糸目のまま、薄く笑っていた。
そして、アースクエイクをちびちび飲んでいる。
おにいさんはだんだん目を閉じていった。
歌っているうちに、酔いが抜けていくみたいだった。
さっきまで潰れていた顔が。 泣き崩れていた人の顔が。
歌に引っ張られるみたいに、少しずつ別人になっていく。
歌、やめるって。 嘘でしょう。
そう思った。
こんなの。 やめられるわけがない。
「もう歌いません」なんて。 言えるわけがない。
だって、これは。
この人の、いちばん大切なところにあるものだ。
なぜ、中学生のわたしにそんなことがわかったのか、自分でもわからない。
でも。
わかった。
それだけは確かだった。
歌は二分か三分くらいだったと思う。
なのに。
二時間くらい長く感じた。
最後の声が、店の天井に、ゆっくり染み込んでいく。
しんと静かになった。
おにいさんは、ゆっくり目を開けた。
カウンターの空いたジョッキを見て、首を傾げる。
それから。
ジオンさんを見た。
それから。
わたしを見た。
それから。
自分の手を、見た。
「……あれ」
少しだけ素に戻った声で。
「俺、なんで歌ったんでしたっけ」
と、言った。
「ちーちゃんのお祝いに、ね」
「あ、そうでしたか……」
「うん」
「いや、でも俺、ぜんぜんダメで……」
「そうですか」
「もう、やめるんで」
「はい、はい」
「歌、やめるんで」
「はい、はい」
ジオンさんは、糸目のまま、静かに頷いていた。
それから。
ぽつりと。
「まあ、たぶん無理ですけどね」
と言った。
「……は?」
「お兄さん、たぶん、歌、やめられないですよ」
「いや、やめます」
おにいさんは、少し、むきになったみたいに言う。
「やめるんで」
「はい、はい」
「絶対、やめるんで」
「はい、はい」
ジオンさんはそこで反論しなかった。
ただ、グラスの中のアースクエイクを飲み干して。 氷が、からん、と小さく鳴る。
それから、おにいさんに向かって、胸ポケットを探った。
「あ、お兄さん。よかったら、これ」
細い紙の名刺を、一枚、差し出す。
「ぼくの名刺です」
「……は?」
「捨ててもいいんですよ」
「いや、でも……」
「まあ、お兄さん」
ジオンさんは、いつもの気の抜けた声で続ける。
「明日とか明後日とか、二日酔いで目ぇ覚まして」
「ちょっと、おかしいかもな、って思ったら、連絡ください」
「……は?」
「来なくて、全然いいんです」
「はあ……」
「ぼくも、わざわざ追いかけたりしないんで。めんどくさいし」
「……はい」
「もし来るなら、お兄さんが、自分で歩いて来てください」
「……はい」
その瞬間だった。
ジオンさんが、ふっと。
糸目を少しだけ開いた。
え。
息が止まった。
いつも眠そうで、ぐにゃぐにゃしてて、力なんか入ってなさそうな人。
なのに。
その一瞬だけ。
人、殺せる目だ。
って、思った。
理由はわからない。
でも。
この人、本気で追うって決めたら。 世界のどこにいる相手でも、見つけ出す。
そんな目だった。
開いた瞳だけ、獣みたいだった。
わたし、たぶん、知らないほうがいい顔、見た。
……いや、知らんけど。
おにいさんも、たぶん、その目を見た。
一瞬、酔いが冷めたみたいな顔をしたから。
でも、次の瞬間には。
ジオンさんは、もう、いつもの糸目に戻っていた。
「にこっ」
って音がしそうな、ゆるい笑顔。
おにいさんは、震える手で名刺を受け取った。
酔ってるはずなのに。 なぜか、その手だけ少し震えていた。
それから。
「……名前、教えてもらってもいいですか」
「はい」
「俺、三浦翔太って言います」
「はい、覚えます」
「芸名だと、SHOって名乗ってます」
「SHOさんですね。覚えます」
ジオンさんは、糸目で頷いた。
でも。
たぶん、その時。
ジオンさんは、もう、その名前を忘れないって決めたんだと思う。
なぜか。 わたしには、それがわかった。
* * *
おにいさんは、そのあとまた、カウンターに突っ伏して寝てしまった。
「ねえ、ちーちゃん」
裕子さんが、グラス棚を拭きながら、ふふっと笑う。
「こういう男の人はねぇ、ちょっと危ないのよ」
「裕子さん、それ、そういう問題?」
「本気で歌手を目指す歌うたいってね」
裕子さんは、どこか懐かしそうな顔をした。
「たいてい、一回、死の淵を歩いた人なのよ」
死の淵。
ちらっと、おにいさんを見る。
カウンターに潰れたまま、口の端から、ちょっとよだれ垂れてるし。 さっきまで泣いてたし。
でも。
よく見ると、Tシャツの首元に、薄い痣みたいな跡があった。 誰かに掴まれたみたいな、青黒いやつ。
うん。 死の淵を歩いた者だけが持つ、希有な目だ。
……いや、ぜんぜんわかんないけど。
なんか、勝手に、頭の中で、物語、できあがっていく。
中野のおじさんが、困ったみたいに肩をすくめた。
「ジオン。俺にこいつをどうしろと?」
「いいですよ」
ジオンさんは、空いたグラスを指先で、くるっと回す。
「ぼく、タクシーで最寄りまで送りますんで」
「悪い奴じゃ、なさそうだしな」
「ええ」
裕子さんが、またふふっと笑った。
「あなた、ほんと、めんどくさがりなのに」
「はい、はい」
「めんどくさいことしか、しないわよねぇ」
「それ、ぼくの人生最大の矛盾です」
ジオンさんは、へらっと笑った。
それから、ふっと振り返って、わたしを見る。
「ちーちゃん、今日、楽しかった?」
え。
ちょっとだけ黙った。
それから、小さく頷く。
「……うん」
自分の声なのに、少し震えていた。
楽しかった、というより。
なんか。 世界、ちょっと、変わった。
そんな感じだった。
歌をやめる、と言っていた、知らないおにいさん。
たぶん明日には、また二日酔いで目を覚ますんだと思う。
「夢なんか捨てた」って、本気で思うんだと思う。
でも。
やめられない。
それだけは、なぜか確信できた。
そして。
ジオンさんも、たぶん、同じことを思っていた。
「ちーちゃん、もう遅いし、おじさん駅まで送ろうか?」
中野のおじさんが、声をかけてくれる。
「あ、いえ、大丈夫です」
立ち上がった。 バッグを肩にかける。
「ジオンさん、お先に」
「はい、はい。お疲れさまでした。気をつけて」
ジオンさんは、いつもの糸目で、にこっと笑った。
それだけ。
本当に、それだけだったのに。
胸の奥で、夏の夜が、少しだけ揺れた。
* * *
外に出た。
夏の夜は、まだ少し明るかった。
竹刀袋を肩に背負う。 セーラー服の襟が、汗で、じっとり湿っていた。
駅へ向かって歩きながら、ふと空を見上げる。
細い月が浮かんでいた。
「楽しみだな」
ジオンさんの声が、まだ、耳の奥に残っていた。
中学二年生。 剣道、中学二年で、全国優勝したばかり。
竹刀振ってる時より、今のほうが、心臓うるさい。なんで。
夜風が吹く。 汗の残った首筋を、少しだけ冷やしていった。
ちーちゃん。
ジオンさんは、わたしをそう呼ぶ。
小さい子を、みんなそう呼ぶ人だから。
わたしだけ特別、じゃない。 そんなの、ちゃんと、わかってる。
でも。
夏の夜くらい。 少しくらい、特別だって、思いたかった。
歩くたび、竹刀袋が、肩で揺れる。
電車の音。 コンビニの光。 湿ったアスファルトの匂い。
夏の夜の全部に、ジオンさんの「楽しみだな」が、まだ混ざっていた。
その声が。 まだ終わらない季節の、始まりだった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
最新話はカクヨムにて先行公開中
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