表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燃えカスの守り人  作者: K3
歌う男は、死の淵を歩いた人

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/23

プロローグ

お読みくださり、ありがとうございます。


最新話はカクヨムにて先行公開中

https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637


 夏の夜は、終わりたがらない。

 校舎を出ると、空はまだ青かった。 紺と赤と紫が継ぎ目みたいに重なって、昼でも夜でもない、不思議な時間。

  あ、月だ。

 細い月がビルとビルのあいだに引っかかっている。

 竹刀袋を背負い直す。 セーラー服の白いリボンが、汗で首に貼りついていた。

 うちの中学、まだセーラーなんて。 隣の中学はもうブレザーなのに。

 道場の先生が稽古を見に来ていて、「一本お願いします」になって、気づいたら八時を過ぎていた。

 スマホでお母さんにだけ送る。 『今日もジオンさんとこ寄って帰る』 返事はたぶん来ない。 お母さんはもう慣れている。

 駅前のハンバーガー屋を横目に通り過ぎた。 中で同じ中学の女子たちが笑っている。

  あの子たち、明日には新しい彼氏ができてそう。

 わたしには、たぶん、一生、できない。 でも、いい。

 そう思いながら、わたしは別の方角へ歩いた。 行く場所が別にある。

  神宝町。

 電車でふた駅。 夏の夜の書店街。 古い本の匂いがする街。

  わたしの、夜が、ある場所。

 そこにわたしの居場所があった。

   *   *   *

 おじいちゃんのビル。 レンガ造りの十階建て。

 祖父はビルのオーナーで、一階をジオンさんに貸している。

 家賃は普通よりずっと安い。

「ちーちゃん。このビル、なかなか不思議な歴史があるんだぞ」

「えー、なにそれ」

「ま、長くなる話でな。そのうち、教えてやる」

  絶対教えてくれないやつだ。

 祖父はお酒を飲むとぽつりとこぼす。

  「孫の命の恩人だから」

 そんなビル。

 入口の自動ドアの前で、わたしは立ち止まった。

 事務所の窓。電気はついていない。

  あ、留守。

 ちょっとだけ肩が下がった。

 ジオンさんはたまに出張に行く。 朝電話したら「いま北海道」と返ってきたりする。

  飛行機、機嫌よく飛ばしますね、あの人は。

 しかたない、と踵を返そうとした、その時。

  あ、そっか。

 ふと思いついた。

  NAKANOに行ってみよう。

 ビルから歩いて五分。 裏路地の奥にある小さな店。

 NAKANO・朝昼夜舎。 朝と昼は喫茶店、夜はバー。 中野家、一家でやっている。

 ジオンさんが、毎日一回、必ず顔を出す店。

  きょうも、いるかな。

 裏路地に向かって歩き出す。

 夏の夜の、書店街の、奥。 古い本の匂いと夏草の匂いが、湿った風に混ざっていた。

 路地を曲がった、その先。

 NAKANOのガラスの向こうがぽつんと明るかった。

  わたしの、避難所。

 カウンターのいちばん奥の席。 壁を背に、糸目で座っている男。

  あ、いた。

 ジオンさんだった。

   *   *   *

 ジオンさんは毎日一回NAKANOに顔を出す。

 たぶん、絶対来る。 出張で東京を離れていない限り。

「儀式みたいなもんですよ」

 いつだか、ジオンさんがそう言った。

「ここに来ない日は、調子、出ないんですよね」

 中野のおじさんが笑う。

「俺の店のコーヒーが効くんだよ」

 裕子さんは台所で肩をすくめた。

「あんなぐったりしたお客さん、ほかにいないわよ」

  でも、来る。

 毎日、来る。 たいてい夕方。 今日みたいに、夜になることもある。

 事務所から徒歩五分。 ジオンさんは毎日その五分を歩く。

 それがジオンさんの儀式らしかった。

 ふだんのジオンさんは近づきにくい。 背中に「話しかけるな」って書いてある日もある。 道で会っても、わたし以外の中学生は、ぜったいに話しかけない。

 保護者会で見たとき、お母さんたちが、

「あの方、ちょっとオーラが……」

 って、ヒソヒソしていた。

  オーラ。

 うん。あると、思う。

 普通の大人とは、ちがうものを、持っている。

  たぶん、世界の裏側、片足で立ってるみたいな人。

 ……いや、それは、わたしの中二病かもしれない。

 でも、NAKANOの中だけは別だった。 ここでは糸目がちょっとだけゆるむ。

  だから、わたしはここに来る。

 たぶん、そう、いうこと。

   *   *   *

 ガラス越しにジオンさんを見た。

 カウンターにもう一人いた。

 若い男の人。たぶん、二十歳くらい。

  え、なに、この人。

 肩より長い、くしゃくしゃの黒髪。 日焼けした、痩せた身体。 よれよれの黒いTシャツ。 耳に銀のピアスがいくつか光っている。 首筋に、薄い痣。 Tシャツの袖から、ちらっと何かの絵が覗いていた。

  刺青?

 最初に頭に浮かんだ言葉。

  え、ヤンキー?

 うちの中学にも不良はいる。 でも、そういうレベルじゃない感じ。 もっと、なんていうか、本物の不良っぽい人。

 息がちょっと浅くなる。 こんな人がNAKANOにいるなんて。

 ガラス越しでもわかった。

  飲んでる。

 しかも、すごい量。

 カウンターに空いたジョッキが三つ。 ハイボールのグラスも二つ。 顔は、真っ赤というより、もう紫色だった。

  ぐでんぐでん、というやつだ。

 そして、その人はジオンさんの肩をわしっと掴んでいた。

「だぁかぁらぁ……俺はぁ……」

 ガラス越しでも声が響いていた。

 低くて、太い声。 酔っているのに、芯がある声。

「もう、歌、やめるんだってばぁ……」

  歌?

「歌、歌、歌、なんだよ。歌うとか、もう、無理なんだよ……」

 その人はジオンさんの肩から、ずるずる、と、ずり落ちていった。 カウンターに突っ伏した。

 ジオンさんは糸目でその人を見ていた。 動こうともしない。 ただ自分のアースクエイクをちびちび飲んでいる。

  アースクエイク。

 なんか、地震みたいな名前のお酒。

 中野のおじさんがいつだか教えてくれた。

「ジョンちゃんの、いつものお酒」

「あれ、ものすごい強いんだぞ」

「ふつう、二口で潰れる酒だぞ」

「ジョンちゃんは、あれを気に入ったみたいで、よう飲んでる」

  味、わかる人なんだ。

 それがいつものジオンさんだった。 強い酒を、ちびちび味わいながら、何時間でも座っている。 顔色は、変わらない。 酔った姿、見たことない。

 中野のおじさんがいつかこう言ってた。

「あの兄ちゃんは、底がねえからな」

「ガブ飲みしないのは、酒の味を楽しむためなんだよ」

  うわばみで、味、わかる人。

 それがジオンさんの飲み方だった。

  え、ジオンさん、絡まれてるんですよ。   大丈夫?

 ガラス越しに心配して見ていた。 でも、ジオンさんはぜんぜん慌てていない。 怖がってもいない。 むしろ、ちょっと楽しそうに、糸目で笑っていた。

  なに、これ。

 ちょっと笑ってしまった。

 そして、ガラスのドアを押した。

   *   *   *

「いらっしゃい——あ、ちーちゃん」

 中野のおじさんの低い声。

「こんばんは」

「あ、ちょっと、その竹刀、置いとくか」

「お願いします」

 竹刀袋を、入口の傘立ての横に立てかけた。 奥のテーブルでは、サラリーマンらしき人たちが笑っている。

 そして、カウンターのいちばん奥。

 ジオンさんがふっと振り返った。

 酔ったのか、もとからそういう顔なのか、糸目がいつもより薄く開いていた。

「お、ちーちゃん」

  その響き。

 一瞬、心臓が跳ねた。

  わたしが、ちーちゃん。

 ジオンさんはわたしのことを、いつからかそう呼ぶようになっていた。 小さい子をぜんぶ「ちーちゃん」と呼ぶらしい。 だから、わたしだけが特別、というわけじゃない。

 それはわかってる。

 わかってるんだけど。

 夏の夜の店の灯りの中で、酔った糸目で薄く笑って、そう呼ばれると、

  なんで、こんなに、変な気持ちになるんだろう。

 息がちょっと苦しくなる。 頬が勝手に熱くなる。

 それを知られたくなかった。

 セーラー服の汗ばんだ襟元を、ぐい、と引っ張った。

「ジオンさん、こんばんは」

「はい、こんばんは。剣道の帰り?」

「うん。今日、長引いて」

「また、勝ったの?」

「次の関東大会までは、ちょっとね」

「楽しみだな」

  楽しみ。

 そのひと言を聞きたくて、わたしは毎日ここに来ている。

 たぶん、そう、なんだと思う。

   *   *   *

 小学校時代のわたしは、敵なしだった。 全国大会も優勝した。 道場の師範に「あんたは天才だ」と言われた。 新聞にも載った。 六年生の春までは、まっすぐな道だった。

  でも、そこから、ちょっとだけ迂回した。

 中学に入った瞬間、まわりが急に大きくなった。 いや、わたしが大きくならなかった、と言うべきかも。

 小学校では「強い」と言われた身長が、中学では「ふつう」になった。 クラスの女子は、夏休みのあいだに別人みたいに伸びていた。 道場の同期もわたしを抜かしていった。

   *   *   *

 そして、中一の春。 わたしは学校の剣道部で部長になった。

 経緯はよく知らない。

 ただ、入部の初日、顧問の先生がぽつりと言った。

「お前、中一だが、部長を、やれ」

「えっ、いいんですか?」

「実力で、選んだだけだ」

「……はい」

  よく分からないけど、頑張ろう。

 そう思った。

 部員たちは、男女、十二人くらい。 みんな、わたしのことを「部長」とか「ちーちゃん」とか、ふつうに呼んだ。 よく笑ういい人たちだった。

 ただ、顧問の先生だけが、ちょっと、違った。

   *   *   *

「お前、ちょっと、稽古に付き合え」

 ある日、顧問がわたしを呼んだ。

「はい」

  あ、わたしを、鍛えてくれるんだ。

 そう思った。

 放課後の道場。 他の部員はまだ来ていない。

 顧問はすでに防具をつけて、竹刀を握って、立っていた。

「打ち込んでこい」

「はい」

 わたしは面を打ちにいった。

 その瞬間。

  え。

 身体が宙に浮いた。

 顧問の体当たりだった。 中一・百四十センチのわたしの面打ちを、四十代の大人の左肩が、思いきり、押し返した。

  うっ。

 板の間に背中から落ちた。 肩から胸の真ん中まで、痛みが走った。

「弱いな。もう一回」

「……はい」

  うん。   わたし、弱い。

 立ち上がる。 息がうまく吸えなかった。

 もう一回、打ち込む。

  え。

 また宙に浮いた。

 今度は、踏み込みの足を、外側から、思いきり、払われた。 左の足首が変な角度にねじれた。

 板の間に頬から落ちた。

「立て。もう一回」

「はい」

 そして、その次。

  え。

 竹刀の先がまっすぐ、わたしの喉元に入ってきた。

  突き。

 中学では本来、習わない技。 中学生同士の試合でも、ふつう、禁止されている技。

 防具の突き垂が、ぐ、と、押し込まれた。

 声が出なくなった。 息もできなかった。

 両手で喉を押さえて座り込む。

「突き、躱せ。次、突くぞ」

 顧問はそれをふつうに指導の声で言った。

  ……はい。

 声が出ないまま、頷いた。

 二、三秒、経って、ようやく息が入った。

  突き、躱せるようにならなきゃ。   わたし、弱い。

 立ち上がる。

「もう一回」

「はい」

   *   *   *

 それから、稽古の内容が、ちょっとずつ変わっていった。

 顧問の竹刀はわたしの面打ちを受けない。 代わりに、

  小手の、手首の、裏。

 防具の継ぎ目のところ。 革と革のあいだの薄い場所。

 そこを狙って打ってきた。

「お前は、小手を守れ。手首は開けるな」

  はい。

 竹刀を握る右手がしびれた。 家に帰ってお風呂で見ると、手首の付け根に青黒いまるい痣がいくつもできていた。

  竹刀、ちゃんと、握れるかな。   明日、握れなかったら、どうしよう。

 そんなことを考えながら寝た。

   *   *   *

 別の日。

「お前、胴の脇、空いてんぞ」

  え。

 竹刀が胴のサイドの隙間に入った。

 胴の左右の脇。 防具で覆われていない、肋骨の横。

 そこをまっすぐ打たれた。

  う。

 息がぜんぶ抜けた。

 板の間に横向きに倒れた。

 肋骨が、たぶん、ひびくらい入った。 家に帰ってお風呂のとき、左の脇腹をそっと触ると、ぎし、と鳴った。

  一週間、ぐらいで、治るかな。   治らなかったら、範士に、申し訳ない。

 そう思った。

   *   *   *

 そして、別の日。

 竹刀がまっすぐ、面金の隙間を抜けた。

 面金の奥。

  頬。

 頬の骨が、ぐん、と鳴った。

 口の中で血の味がした。 舌で奥歯を確かめる。

  歯、まだ、ある。

 そっと安心した。

「お前、面の隙間、空けるな」

「……はい」

  はい。   空けないように、します。

   *   *   *

 家で。

 お風呂のあと、お母さんが廊下ですれ違いざまに、

「あら、あんた」

 と声を上げた。

「肩のところ、なに、それ」

 お風呂上がりのキャミソールの肩紐の横。 青と紫の痣がはみ出していた。

  あ、しまった。

「ぶつけた」

 口が勝手に答えた。

「稽古中に、防具と、防具の、あいだに、ぶつけて。ふつうに、よくあるやつ」

「ふぅん」

 お母さんはそれで引き下がった。

  よかった。

 そう思った。

  お母さんに、心配、かけたら、剣道、やめろって、言われるかもしれない。   そしたら、範士に、申し訳ない。   部長、失格になる。

 それだけは絶対に嫌だった。

 そんな稽古が月に二、三回、続いた。

 部員たちはその時間にはいない。 顧問がふたりきりの時間を選んでいた。

  たぶん、わたしのレベルに合わせるために、ほかの部員を、待たせてるのかも。   申し訳ない。

 そう思った。

 防具の中、わたしの身体には、青と紫の痣が地図みたいに広がっていた。 左の足首はいつも少し腫れていた。 右の手首は竹刀を握ると、じん、としびれた。 左の脇腹は深呼吸すると、ぎし、と鳴った。

  剣道の防具って、すごい。   痣、ぜんぶ、隠してくれる。

 家でも誰にも見せなかった。 お風呂のときも、自分でしか見ない。

  弱音、吐けない。   範士に、申し訳ない。   部長、失格になる。   わたしが、強くなれば、顧問の打ち込みも、ちゃんと、受けられるように、なる。

 それだけはちゃんと決めていた。

   *   *   *

 そして、部員たちとの通常稽古。

  あれ。

 左の足首が踏ん張れない。 右の手首がしびれている。 深呼吸すると、左の脇腹が、ぎし、と鳴る。

 返し技で踏み込もうとすると、足首がぐらつく。 面打ちで竹刀を振り上げると、肩が、ずきっ、と鳴る。 小手を打とうとすると、手首が震える。

 部員のひとりが、わたしの面を、ぱしっ、と打った。

「あれ?」

 その子が首を傾げる。

「ちーちゃん部長、今日、なんか、遅くないですか」

「うん、ちょっと、ね」

「部長、最近、たまに、ふらついてますよ」

「あ、はは。寝不足、かな」

 そうごまかした。

  わたし、最近、変だ。   身体が、思うように、動かない。   みんな、ぐんぐん、伸びてるのに、わたしだけ、止まってる。

 夏。秋。冬。

 部員たちがどんどん伸びていく。 同期の男子も女子もわたしを抜いていった。

  わたし、置いてかれてる。   スランプだ。

 そう思った。

 それだけだった。

   *   *   *

 中一の試合は、ぜんぶ、ぽろぽろ負けた。 体格でかわされて、力で押されて。 気づいたら、ふつうの剣道少女になっていた。

  優勝、ゼロ。

 小学校時代、新聞に載った「天才少女」が、中学一年で消えた。

  え、これ、わたし、もしかして、終わった?

 そう思った夜、こっそり泣いた。

  あんなに、ジオンさんに、言われたのに。

 ジオンさんは十二歳のわたしにこう言った。

「ちーちゃんは、戦闘に関しては、スペシャリストかもしれないですね」

 それだけ。 ランクとか、保証とか、ぜんぶない。

「スペシャリスト」と「かもしれない」が、同じ口から出てくる、いつものゆるい言い方。

 でも、わたしはその言葉を、十二歳の夏からずっとお守りにしていた。

  「戦闘スペシャリスト」。

 口の中で、何度か、転がしてみる。 そのたび、ちょっと強くなれる気がした。

「占いみたいなもんですけど」とも、言っていた。

 うん、知ってる。 でも、その占いが、わたしを支えていた。

  絶望、というより、申し訳なかった。

 ジオンさんの占いを、わたしがはずさせるのが、いやだった。

  だから、考え方を変えた。

 体格で勝てないなら、間合いを取る。 力で押されるなら、フェイントで崩す。 身長が伸びないなら、踏み込みの速さで奪う。

 剣道、っていうか、たぶん、これはもっと広い、なにか。 ジオンさんが言ってた「戦闘」って、たぶん、剣道だけじゃない。

  意識して、鍛え直した。

 中学二年の春。 わたしは復活した。

 中学二年の夏。 大会のタイトルを片っ端から取った。

 県大会、優勝。 関東中学校剣道大会、優勝。 全国中学校剣道大会、優勝。

  いま、わたしの世代の、中学剣道で。   わたしを、止めた人は、いない。

 そういう状況、らしかった。

 新聞にも何回か載った。 学校でもちょっと有名になった。 先生たちもわたしの扱いに困っていた。

 部活の男子たちは「鬼神」と呼んだ。

  鬼神。

 うん。 わたしはその響き、ぜんぜん嫌いじゃない。

 ……いや、まあ、口には、出さないけど。

   *   *   *

 道場、っていうのは、警察の近くの少年剣友会。 平日は学校の部活で、土日と放課後は、少年剣友会。 警察のおじさんたちも、たまに混ざる。

  大人と、子どもの稽古、混合。

 道場のいちばん上の人。

  範士、っていう、すごく偉い、おじいさん。

 小学生の頃から、ずっと、わたしのことを見ていた。 本部から月に一回、特別指導に来る人。

 会うたびに、範士は、低い声で、ぽつりと言う。

「おぬし、見込みがある」

「ぼーっと見てたら、面白い太刀を振るな」

 そう言って、口の端だけで、ふっと笑う。

 その範士から、中学に上がる前の春、こう告げられた。

「おぬし、もう、子供の部じゃ、もったいない」

「中学に入ったら、大人の部に入って、よかろう」

「え、いいんですか?」

「おぬしなら、本気でいける」

「わしの責任で、許可する」

  範士の責任、って、なんか、重いじゃん。

 それで、中一のはじめから、少年剣友会の一般の部で稽古するようになった。

  あとから、知った。

 範士は、学校の剣道部にも、わざわざ電話を一本入れてくれていたらしい。

「あの嬢ちゃんは、中一でも、部長で、よかろう」

「実力で、選べ」

 そのひと言、だけ。

 道場が実力主義だったから、学校もその流れで、わたしは中一から部長を引き受けた。

  範士の、おかげ。

 会うたびに、

「おぬし、稽古、続けとるか」

「うむ。よい、目をしとる」

 それだけの短い会話。

 でも、わたしにはそれだけで十分だった。

   *   *   *

  大人の男の人と、本気の稽古。

 警察のおじさんたちは、最初、優しかった。

「お、嬢ちゃん、ちっこいなー」

「がんばれよー」

「あんま、無理すんなよー」

 防具をつけてあげる手も、優しかった。 稽古の最中も、ちゃんと加減して、面を打たせてくれた。 帰り際には、缶ジュースまでくれた。

  なんだ。   大人の道場、ぜんぜん、こわくないじゃん。

 そう思っていた。

 最初の、二週間だけ。

 ある日、わたしが、おじさんの一人から、面、一本、取った。

  あ、勝てた。   わたし、嬉しい。

 そう思って、見上げたら。

  おじさんの顔、変わってた。

 笑ってない。 缶ジュースくれた、あの顔じゃない。

 その日から、空気が、変わった。

  スランプになった。

 身長、百四十、ちょっと。 体重、四十前半。 体格で押される。

  うん、まあ、それはわかる。

 問題は、

  大人たちが、本気でかかってきた。

 子ども扱いしなくなった。

 なぜなら、

「中一の女の子に、負けてなるか」

「本気を見せねぇと、男じゃねえ」

「俺らのメンツが、かかってんだ」

 そう、思ったらしい。

 警察のおじさんたちが、稽古着をぎゅっと握って、「うおおおお」と突進してくる。

  え、ちょ、本気?

 防具の上から、痣ができた。 踏み込みが強すぎて、押し負けた。 体格差で、空中に浮いた。

  大人、本気のガチンコ。

 そのうち、思った。

  力で戦っちゃダメだ。大人、本気だから、力比べ、こっちが絶対、負ける。

 それで、技術を磨いた。 間合い、フェイント、踏み込みの速さ。身体の軸のずらし方。打突の軌道。

  気づいたら、警察のおじさんたちが、追いつかなくなった。

 中二の春。

 その夏、大会で優勝した。

 警察のおじさんがこう言った。

「お前、ほんと、化け物だな」

  あの時、本気で突進してきた自分たちのことを棚に上げて、よく言うな。

 そう思ったけど、口には出さなかった。

   *   *   *

 身長は、まだ百五十、ちょっと。 体重も、四十、ちょっと。 でも、技術があれば関係ない。

 稽古では、警察の人たちを何人も吹っ飛ばすようになっていた。

 剣道には、「起こり」を読む、という技術がある。 相手が「打つ」と決めた、その瞬間を捉える技術。

 まだ竹刀は動いていない。 まだ足も出ていない。 ただ、身体の奥で、筋肉が、ぴくり、と震える。

  その、ぴくり。 わたしは、それを、相手が動く前に読む。

  たぶん、これは。   剣の道の、いちばん深い、ところにある、技術。

 ……まあ、わたしは、まだ、入り口に、立ったばかりだけど。

 だから、相手が踏み込もうとした時には、もう遅い。 こちらの竹刀が、先に走っている。

  おじさんたちは、まだ打とうとしただけだ。   まだ、何も始まっていない。

 なのに。

 もう、面が入っていた。

「え?」

「あれ?」

「いま、何、された?」

 警察の人たちがぽかんとする。

 そりゃそうだ。 本人、まだ動いてないのに、打たれてる。

 踏み込みで宙に浮かす。   

大人の男の人が、ふっ飛ぶ。   

なんか、楽しい。

 そんなことを続けてたら。

 警察の控え室で、おじさんたちが、わたしのことを、

  「神宝町の悪魔」。

  え。悪魔?

  わたしが?

「お前ら、公では絶対言うなよ」

「あの嬢ちゃんに聞かれたら、また本気で来るぞ」

「勘弁してくれ……俺、ぎっくり腰あるんだって」

 控え室の奥から聞こえてきた会話に、ちょっと笑いそうになった。

  内輪で人を化け物扱いしてんの。   っていうか、最初に本気で来たの、おじさんたちだからね?

  でも、まあ、缶ジュースくれた人たちでも、ある。

 そう呼ばれている、らしい。

  わたし、まだ中学生なんだけど。

 でも。

  「神宝町の悪魔」。

 口の中で、もう一度、転がしてみる。

  うん。   その響き、ぜんぜん、悪くない。   むしろ、ちょっと、かっこいい、かも。

 ……あ、いや。

  いやいや、なに考えてんの、わたし。   やっぱり、ちょっと、中二病かも、これ。   ってか、ちょっと、じゃなくて、ガチ。

 知らないけど。

   *   *   *

 クラスでも、ときどき男子が話しかけてくる。

「あっ……あの」

 机から顔を上げた。

 男子がひとり、わたしの前に立っている。

「あの、その」

「うん?」

「えっと」

「うん」

「あ、その……」

  ……。

 しゃべらない。

「あ、あの」

「す、すみま、せ」

  なんで謝るの。

「いっ、いっ、いっ」

  "いっ"の先、なに。

 そこで止まる。

  わたし、これから道場なんだけど。   お昼休み、あと五分しかないし。

 時計をちらっと見る。

  三分経過。

 男子はまだ立っている。 顔が真っ赤だった。 手になにか握られてる。よく見えない。

 そのとき。

「××ーー!」

 後ろから声が飛んだ。

 いつも一緒にいる友達。

「××、なにやってんだよお前ー!」

「あ、ご、ごめ」

「行くぞー! サッカーコート取れたー!」

 男子は、一瞬だけわたしを見た。 あわてたみたいに笑う。

「あ……ごめん。呼ばれちゃった」

 そう言って、逃げるみたいに走っていった。

  なんだったの、いまの。

 お昼休み、終了。 お弁当、食べきれなかった。

 そんなことが、月に二、三回ある。

 廊下で会うと、なぜかみんな道を空ける。 いや、そこまで避けなくていいから、と思うけれど、口には出さない。

  わたし、そんなに、こわい?

 たぶん、こわい、んだろうな。

 中学二年生、女子、百五十センチ、四十キロ。 警察のおじさんを吹き飛ばす、剣道部の部長。

  うん、こわいか。

 ……あ、ちょっと、嬉しいかも、それ。

 いや、嬉しがってる場合じゃない。

 最近はだいたいそんな扱いだった。

   *   *   *

 そして、中二の、夏の少し前。

 タイトルを片っ端から取りはじめて、新聞にも何回か載って、男子部員たちが「鬼神」と呼ぶようになった頃。

  学校の、剣道部の、稽古日。

 顧問の先生は、四十代。 昔、ちょっと、強かったらしい。

 中一から、わたしが部長なのが、ずっと、面白くなかったらしい。

 それは、なんとなく、わかっていた。

 廊下で会っても、目を合わせない。 試合に勝っても、「うん」とだけ、言う。 わたしの竹刀の握り方を、男子部員の前で、わざわざ指摘してくる。   ぜんぶ、教科書通りなのに。

 そういう人だった。

 その日。

 顧問は、男子部員、全員の前で。 わたしを、ちらっと指で示してから、男子たちに向かって、こう、言った。

「女だから回ってきた席だ。男じゃ絶対、無理だ」

  え。

 男子部員たちは、しん、と静まり返った。 わたしも、少し遅れて、黙る。

  わたしの方を、見ない。

 そこが、まず、刺さった。

 目の前にいるのに。 わたしを話題にしているのに。 顧問はわたしに向かっては喋らなかった。

「お前ら、わかってんのか」

 顧問は続けた。

「女の上位は、頭打ちが、早い」

「全国優勝? いまだけの話だぞ」

「高校行ったら、体格で、終わる」

「だからな、お前ら男子は、いま、奮起しろってことだ」

  あ。

 そういう、ことか。

  わたしを、棒にしたいんだ。   男子を、奮起させるための、棒。

「『女に負けた』って、恥ずかしいだろうが」

「お前ら、いつまでも、女に部長やらせて、いいのか」

 男子部員たちは、誰も、答えなかった。

 ひとりが、板の間の木目を、じっと、見ていた。 別のひとりが、袴の襞に、視線を、落としていた。 誰かが、口を、ぎゅっと、結んでいた。

 その沈黙のほうが、顧問の声よりも、何倍も、重かった。

  あの人たち、わたしの代わりに、痛がってくれてる。

 顧問は、満足そうに、頷いた。

  褒めてる、つもりですら、ない。

 むしろ、わたしを、利用してる。

 胸の奥に、斜めに、引っかかった。 怒っていいのか。 笑っていいのか。 正面が、ない、変な角度に。

「……はい」

 少し、遅れて、頭を下げた。

 それで、その日の稽古は、ふつうに、始まった。

   *   *   *

 その夜。

 学校の稽古は、いつもどおり、終わった。 わたしは、いつもどおり、少年剣友会へ向かった。

  大人の部の、稽古日。

 道場の戸を引き開けた瞬間。

 範士がいた。

 特別指導の日では、ない。 本来なら、月に一回しか、来ない人。

 なのに、その日に限って。 道場の隅で、腕を組んで、座っていた。

  あ。

 範士は、わたしを、ちらっと見た。 それだけ。 頷きも、しない。

 わたしは、いつもどおり、防具をつけた。 いつもどおり、警察のおじさんと、稽古した。

  「うおおおお」と来る。   いつもの、ガチンコ。

 その日も、技で、ちゃんと、勝った。

 防具を外して、汗を拭いて。 帰り支度をしていたら、

「おぬし」

 範士の、低い声。

「はい」

「ちょっと、こっち、来い」

 板の間に、正座する。

 範士は、皺の深い顔で、しばらく、わたしを見ていた。 それから、ぽつりと言った。

「おぬしの太刀は」

「男も、女も、ない」

  え。

「強い者は、強い」

「それだけ、じゃ」

 それだけ、だった。

 範士は、もう、こっちを見ていない。

 湯飲みの茶を、ずず、と啜っている。

「あ……はい」

「もう、行ってもよかろう」

「はい」

 立ち上がる。

 道場の戸を出る時、もう一度、振り返った。

 範士は、目を閉じて、湯飲みを傾けていた。 こちらには、まったく、興味がなさそうに、見えた。

 でも。

  先生は、知ってた。

 それだけは、わかった。

 なぜ知っていたのか。 誰から聞いたのか。 それとも、ただの偶然か。

  わからない。

 ただ、範士は、いつもの月一回じゃ、ないのに、その日に、いた。

 そして、ふた言だけ、置いていった。

「男も、女も、ない」

「強い者は、強い」

 それだけ。

 それだけで、胸の奥の、斜めに引っかかっていたものが、ふ、と、解けた。

 完全には、消えなかった。 でも、抜けた。

  ありがとう、ございます。

 口には、出さなかった。

 範士は、たぶん、聞こえてないふりを、するから。

   *   *   *

 そして、その帰り道。

 竹刀袋が、いつもより、少しだけ、軽かった。

 夕方の街灯が、ぽつぽつ、灯りはじめていた。 セミの声が、また、戻ってきていた。

  女だから。   男も、女も、ない。

 ふたつの言葉が、頭の中で、別々の方向へ、流れていった。

 同じ剣道の世界で、同じ大人の男の人の口から、出てくる。

  大人って、こんなに、違うんだ。

 だから、わたしは、選んでいい。

  顧問の声、いらない。   範士の声、信じる。

  いや、信じる、というより。   もう、決めた。

  わたしは、範士の側で、生きる。   顧問の側じゃ、ない。

 うん、そう。

 そして、神宝町に向かった。

 たぶん、あの店、灯ってる。 たぶん、糸目の人、いる。

 それだけで、足が、勝手に、動いた。

   *   *   *

 でも。

「……そういうとこ、ほんと危なっかしいよね」

 ジオンさんが、いつもの糸目で、薄く笑いながら、そう言う。

 その顔が。 その声が。

 なぜか、ずっと頭に残った。

  なんでだろう。

 たぶん、答えはもう分かってる。 でも、まだ認めたくなかった。

 だって、わたし、まだ十三だし。

 ジオンさんは二十七。 お兄さん、って呼ぶには大人すぎて、 おじさん、って呼ぶには、まだ若い。 そんな、微妙な年齢。

 わたしから見たら、たぶん、おじさん寄り。

  わたし、おじさん好きなのかもしれない。

 そう思った瞬間、自分で自分にちょっと引いた。

  いや、なにそれ。   だめな漫画の導入じゃん。

 そう思うのに。

  でも、おじさん好き、とは、ちょっと違う気がする。   ジオンさん限定。   うちのお父さんとは、十歳以上、違うし。   これは、おじさん好きじゃなくて、ジオンさん好き。   うん、そう、たぶん。

  ……ってか、なに、わたし。   ヤバい、ヤバい。

  好き、なのかな。

 その考えだけ、消えなかった。

 毎日、ここへ来る。 道場に来て、稽古して、それで、帰り際に、少しだけ話して。

  ジオンさんに、会いに来てる。

 その結論だけは、もう、ごまかせない気がした。

 もしかしたら、わたしにとっても、これが儀式になってるのかもしれない。

   *   *   *

「あ……あの、ジオンさん」

 ジオンさんの隣でぐでんぐでんに潰れている人を、おそるおそる指差した。

「だ、誰、この人……?」

「ああ、これですか」

 ジオンさんは、糸目のまま、ちらっと隣を見る。

「初対面です」

「は?」

「さっき、ふらっと入ってきて、勝手に隣座って、勝手に飲み始めて、勝手に絡んできました」

「えぇ……」

  いや、待って。

 その人をもう一度見た。 耳のピアス。シャツの隙間から覗く、肩の刺青みたいな柄。黒い服。指、細い。

 全体的に、"近づいちゃダメな大人"感がすごい。

「ジオンさん、その人、ヤバくないですか」

「見た目は、まあ」

「いや、めちゃくちゃヤバそうですけど」

「うん、わかります」

「絡まれてるんじゃ」

「ですね。絡まれてますね」

「逃げないんですか?」

「めんどくさいんですよ」

「逃げるのが?」

「こういうの、放置するのが」

  あー。   はいはい。

 なんとなく、納得した。

 ジオンさんは、糸目のまま薄く笑う。 その"めんどくさい"が、全然めんどくさそうじゃない。 むしろ、少し楽しんでるみたいだった。

 アースクエイクをちびっと飲んで、グラスを揺らしながら、ぽつりと言う。

「人ってさ、自分から潰れに来る時って、たいてい、守りたいもん、あるんですよね」

  え。

 ジオンさんを見た。

 でも、ジオンさんはもう別の方を向いている。 何も言ってませんけど? みたいな顔で。

  なに、いまの。

 あの人、たまにこういうことを言う。 で、聞き返すと、絶対、

「気のせいです」

 って笑う。

 だから、もう聞かない。

 その代わり。

  ……ていうか。   これ、近い。

 初めて、その酔っ払いのすぐ隣に座ってることを意識した。

  なんか、する。

 酒。汗。 煙草じゃないけど、夜の店の空気みたいな匂い。 そこに混ざる、男の人特有の、少し湿った熱。

  あ。   これ、一日二日、風呂入ってない系のやつ。

 夏の湿気と混ざって、独特の空気になっていた。

  うわ。

 そっと呼吸を浅くする。

 部活で、男子の防具の臭いを嗅いだことがある。 あれよりはマシ。 でも、方向性が違う。

  あれより、大人。   年頃の女子にこれはダメ。

 椅子を、ちょっとだけジオンさん側へ寄せた。

 すると。

 突っ伏していたおにいさんが、

「ううう……」

 と低く唸って、ゆっくり顔を上げた。

  え。

 息が止まった。

 目は半分しか開いていない。 でも。

  顔、整ってる。

 鋭い二重。通った鼻筋。痩せた輪郭。 頬に、カウンターの木目の跡がついていた。

 神経質そうな顔。 近づきにくい顔。

 なのに、酔いと涙のせいで、その鋭さが、今だけ半分くらい崩れていた。

  この人、笑ったら、別人みたいになる、たぶん。

「ジオン……さん……」

「はい」

「俺ぇ……もう、歌ぁ、やめますからぁ……」

「はい」

「ギターもぉ……売ったんでぇ……」

「ええ」

「先日ぅ、売りましたぁ……」

「うん、聞いた、聞いた」

「生活費ぃ、なくてぇ……」

「うん」

「上京して半年でぇ……こうなりましたぁ……」

「うん」

  半年。   わたしが、夏の稽古、続けてた、その半年で。   この人は、東京で、こんなになるまで、潰れた。

「俺ぇ、才能、ないんですぅ……」

「ね」

  その喋り方。

 ぐでぐでに酔ってるのに。 声の奥だけ、変に熱かった。

 体は潰れているのに、芯だけ燃え残っているみたいな。

「故郷ぉ……帰りますぅ……」

「うん」

「もう、無理なんですぅ……」

「うん」

 ジオンさんはただ頷いていた。

 否定もしない。 慰めもしない。

「頑張れ」とも、「諦めるな」とも言わない。

 ただ、アースクエイクをちびちび飲みながら、静かに相槌を打っている。

 それだけだった。

 おにいさんが、

「うえぇぇ……」

 と声を漏らした。

 泣いていた。

 カウンターに、ぽた、ぽた、と涙が落ちる。

 中野のおじさんは何も言わず、新しいおしぼりを置いた。

 裕子さんが、わたしにそっと顔を寄せる。

「ねえ、ちーちゃん。奥のテーブルでココア飲む?」

 小さい子に見せる空気じゃない、って思ったんだと思う。

 でも、わたしは首を振った。

「ここで、いいです」

 ジオンさんの二つ隣の席に座る。 そして、そのおにいさんを見た。

  歌、やめるんだ。

 胸の奥で、なにかが、ぎゅっと縮まる。

 歌なんて聞いたことない。 名前も知らない。

 それなのに。

 泣きながら「才能ない」って言う姿が、内側のどこかを、つめたい指でつねるみたいだった。

 ジオンさんが、ちらっとこっちを見た。

 そして。

 糸目のまま、にこっと笑う。

  え?

 なに、その顔。

 ジオンさんは、またアースクエイクを少し舐めて、それから、おにいさんに声をかけた。

「お兄さん。ちょっといいですか」

「……はいぃ」

「こちらの、ちーちゃんに。一曲、歌ってあげてくれませんか」

  え?

 目を見開いた。

 おにいさんが、

「は?」

 と顔を上げる。

「いや、急になに言ってるんですか、ジオンさん……」

「めんどくさかったら、全然いいんですけどね」

 ジオンさんは、相変わらずの糸目で笑う。

「こちらのちーちゃん、剣道の大会、ずっと勝ち続けてるんですよ。まあ、その、お祝い的な感じで」

「いや……それと、俺の歌に、なんの関係が……」

「だって」

 ジオンさんは、グラスを指先で揺らしながら言った。

「お兄さん、歌うたい、なんでしょう」

 おにいさんは黙った。

 さっきまで酔っぱらいみたいに崩れていたのに、その一言のあとだけ、急に静かになる。

 それから。

「……でしたー」

 ぽつりと言った。

「過去形で」

「過去形ですか」

「ええ……」

「じゃあ今は、ふつうのお兄さんですか」

「ええ……ただの、ふつうの……無職です……」

「はい」

「夢、捨ててきました」

「はい」

 ジオンさんは、そこで変に励ましたりしなかった。

「そんなことないですよ」とも、

「まだ若いんだから」とも言わない。

 ただ、一回頷いて。

「じゃあ、ふつうのお兄さんとして」

 さらっと続けた。

「ちょっと一曲、歌うのは、可能ですか」

 おにいさんが、じっとジオンさんを見る。

 ジオンさんは、糸目でにこにこしていた。

 逃がさない時の顔だった。

 カウンターの上で、氷が、からん、と鳴る。

 少し長い沈黙のあと。

 おにいさんは、小さく息を吐いて。

「……一曲、だけなら」

 と言った。

   *   *   *

 ギターはなかった。

 おにいさんは、さっき「売った」と言っていた。 だから、もうない。

  っていうか。   ギターないのに、歌うの?   アカペラ?   居酒屋で?

 ちょっと不安になった。

 でも。

 ぐでんぐでんだったおにいさんは、ゆっくりカウンターに両手をついて、顔を上げた。

 一回、深く息を吸う。

 それから。

 歌った。

 声が出た瞬間。

 胸の奥が、

  え。

 って、なった。

 夏の夜だった。 冷房のぬるい風が流れていた。 焼き鳥の匂いと、お酒の匂いが混ざっていた。

 なのに。

 その声が出た瞬間、店の空気が、ぜんぶ塗り替わった。

 低い声。 太いのに、どこか震えている声。 泣きそうなのに、まっすぐ前へ出ていく声。

 英語だった。 知らない歌だった。

 何を歌っているのか、わからない。

 でも。

  あ。   これ。

 わかった。

 これは、別れの歌だ。

 別れたくないのに。 それでも、自分で、別れると決めた人の歌。

 そういう声だった。

 胸の奥を、ぎゅう、と掴まれる。

 涙が出そうになった。

  なんで。   知らない歌なのに。   知らない言葉なのに。

 こんな。

  うわ。

 それしか出てこなかった。

 気づけば。

 中野のおじさんも、裕子さんも、皿を拭く手を止めていた。 奥のテーブルのサラリーマンまで、こっちを見ている。

 店の中で、誰も動かなかった。

 ジオンさんだけが。

 糸目のまま、薄く笑っていた。

 そして、アースクエイクをちびちび飲んでいる。

 おにいさんはだんだん目を閉じていった。

 歌っているうちに、酔いが抜けていくみたいだった。

 さっきまで潰れていた顔が。 泣き崩れていた人の顔が。

 歌に引っ張られるみたいに、少しずつ別人になっていく。

  歌、やめるって。   嘘でしょう。

 そう思った。

 こんなの。 やめられるわけがない。

「もう歌いません」なんて。 言えるわけがない。

 だって、これは。

  この人の、いちばん大切なところにあるものだ。

 なぜ、中学生のわたしにそんなことがわかったのか、自分でもわからない。

 でも。

  わかった。

 それだけは確かだった。

 歌は二分か三分くらいだったと思う。

 なのに。

 二時間くらい長く感じた。

 最後の声が、店の天井に、ゆっくり染み込んでいく。

 しんと静かになった。

 おにいさんは、ゆっくり目を開けた。

 カウンターの空いたジョッキを見て、首を傾げる。

 それから。

 ジオンさんを見た。

 それから。

 わたしを見た。

 それから。

 自分の手を、見た。

「……あれ」

 少しだけ素に戻った声で。

「俺、なんで歌ったんでしたっけ」

 と、言った。

「ちーちゃんのお祝いに、ね」

「あ、そうでしたか……」

「うん」

「いや、でも俺、ぜんぜんダメで……」

「そうですか」

「もう、やめるんで」

「はい、はい」

「歌、やめるんで」

「はい、はい」

 ジオンさんは、糸目のまま、静かに頷いていた。

 それから。

 ぽつりと。

「まあ、たぶん無理ですけどね」

 と言った。

「……は?」

「お兄さん、たぶん、歌、やめられないですよ」

「いや、やめます」

 おにいさんは、少し、むきになったみたいに言う。

「やめるんで」

「はい、はい」

「絶対、やめるんで」

「はい、はい」

 ジオンさんはそこで反論しなかった。

 ただ、グラスの中のアースクエイクを飲み干して。 氷が、からん、と小さく鳴る。

 それから、おにいさんに向かって、胸ポケットを探った。

「あ、お兄さん。よかったら、これ」

 細い紙の名刺を、一枚、差し出す。

「ぼくの名刺です」

「……は?」

「捨ててもいいんですよ」

「いや、でも……」

「まあ、お兄さん」

 ジオンさんは、いつもの気の抜けた声で続ける。

「明日とか明後日とか、二日酔いで目ぇ覚まして」

「ちょっと、おかしいかもな、って思ったら、連絡ください」

「……は?」

「来なくて、全然いいんです」

「はあ……」

「ぼくも、わざわざ追いかけたりしないんで。めんどくさいし」

「……はい」

「もし来るなら、お兄さんが、自分で歩いて来てください」

「……はい」

  その瞬間だった。

 ジオンさんが、ふっと。

 糸目を少しだけ開いた。

  え。

 息が止まった。

 いつも眠そうで、ぐにゃぐにゃしてて、力なんか入ってなさそうな人。

 なのに。

 その一瞬だけ。

  人、殺せる目だ。

 って、思った。

 理由はわからない。

 でも。

  この人、本気で追うって決めたら。   世界のどこにいる相手でも、見つけ出す。

 そんな目だった。

 開いた瞳だけ、獣みたいだった。

  わたし、たぶん、知らないほうがいい顔、見た。

 ……いや、知らんけど。

 おにいさんも、たぶん、その目を見た。

 一瞬、酔いが冷めたみたいな顔をしたから。

 でも、次の瞬間には。

 ジオンさんは、もう、いつもの糸目に戻っていた。

「にこっ」

 って音がしそうな、ゆるい笑顔。

 おにいさんは、震える手で名刺を受け取った。

 酔ってるはずなのに。 なぜか、その手だけ少し震えていた。

 それから。

「……名前、教えてもらってもいいですか」

「はい」

「俺、三浦翔太(しょうた)って言います」

「はい、覚えます」

「芸名だと、SHOって名乗ってます」

「SHOさんですね。覚えます」

 ジオンさんは、糸目で頷いた。

 でも。

 たぶん、その時。

 ジオンさんは、もう、その名前を忘れないって決めたんだと思う。

 なぜか。 わたしには、それがわかった。

   *   *   *

 おにいさんは、そのあとまた、カウンターに突っ伏して寝てしまった。

「ねえ、ちーちゃん」

 裕子さんが、グラス棚を拭きながら、ふふっと笑う。

「こういう男の人はねぇ、ちょっと危ないのよ」

「裕子さん、それ、そういう問題?」

「本気で歌手を目指す歌うたいってね」

 裕子さんは、どこか懐かしそうな顔をした。

「たいてい、一回、死の淵を歩いた人なのよ」

  死の淵。

 ちらっと、おにいさんを見る。

 カウンターに潰れたまま、口の端から、ちょっとよだれ垂れてるし。 さっきまで泣いてたし。

 でも。

 よく見ると、Tシャツの首元に、薄い痣みたいな跡があった。 誰かに掴まれたみたいな、青黒いやつ。

  うん。   死の淵を歩いた者だけが持つ、希有な目だ。

 ……いや、ぜんぜんわかんないけど。

 なんか、勝手に、頭の中で、物語、できあがっていく。

 中野のおじさんが、困ったみたいに肩をすくめた。

「ジオン。俺にこいつをどうしろと?」

「いいですよ」

 ジオンさんは、空いたグラスを指先で、くるっと回す。

「ぼく、タクシーで最寄りまで送りますんで」

「悪い奴じゃ、なさそうだしな」

「ええ」

 裕子さんが、またふふっと笑った。

「あなた、ほんと、めんどくさがりなのに」

「はい、はい」

「めんどくさいことしか、しないわよねぇ」

「それ、ぼくの人生最大の矛盾です」

 ジオンさんは、へらっと笑った。

 それから、ふっと振り返って、わたしを見る。

「ちーちゃん、今日、楽しかった?」

  え。

 ちょっとだけ黙った。

 それから、小さく頷く。

「……うん」

 自分の声なのに、少し震えていた。

 楽しかった、というより。

  なんか。   世界、ちょっと、変わった。

 そんな感じだった。

 歌をやめる、と言っていた、知らないおにいさん。

 たぶん明日には、また二日酔いで目を覚ますんだと思う。

「夢なんか捨てた」って、本気で思うんだと思う。

 でも。

  やめられない。

 それだけは、なぜか確信できた。

 そして。

 ジオンさんも、たぶん、同じことを思っていた。

「ちーちゃん、もう遅いし、おじさん駅まで送ろうか?」

 中野のおじさんが、声をかけてくれる。

「あ、いえ、大丈夫です」

 立ち上がった。 バッグを肩にかける。

「ジオンさん、お先に」

「はい、はい。お疲れさまでした。気をつけて」

 ジオンさんは、いつもの糸目で、にこっと笑った。

 それだけ。

 本当に、それだけだったのに。

 胸の奥で、夏の夜が、少しだけ揺れた。

   *   *   *

 外に出た。

 夏の夜は、まだ少し明るかった。

 竹刀袋を肩に背負う。 セーラー服の襟が、汗で、じっとり湿っていた。

 駅へ向かって歩きながら、ふと空を見上げる。

 細い月が浮かんでいた。

  「楽しみだな」

 ジオンさんの声が、まだ、耳の奥に残っていた。

 中学二年生。 剣道、中学二年で、全国優勝したばかり。

  竹刀振ってる時より、今のほうが、心臓うるさい。なんで。

 夜風が吹く。 汗の残った首筋を、少しだけ冷やしていった。

  ちーちゃん。

 ジオンさんは、わたしをそう呼ぶ。

 小さい子を、みんなそう呼ぶ人だから。

 わたしだけ特別、じゃない。 そんなの、ちゃんと、わかってる。

 でも。

 夏の夜くらい。 少しくらい、特別だって、思いたかった。

 歩くたび、竹刀袋が、肩で揺れる。

 電車の音。 コンビニの光。 湿ったアスファルトの匂い。

 夏の夜の全部に、ジオンさんの「楽しみだな」が、まだ混ざっていた。

  その声が。   まだ終わらない季節の、始まりだった。



ここまでお読みくださり、ありがとうございました。


次のお話で、またお会いできましたら幸いです。


最新話はカクヨムにて先行公開中

https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637


感想・ブックマークなど、いただけましたら、励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ