第3話 ノートに名前を書く
翌朝。
今日も全力で鳴き続ける蝉の声が、「夏は終わってないぞ!」としつこく主張してくる。
……昨日のあれも、ただの暑気あたりだった、ということにしておこう。
チャイムと同時に教壇に立った三山先生は、昨日あんな爆弾を投げたくせに、何事もなかったような顔で黒板に日付を書いていた。
背筋はしゃんと伸びて、声は落ち着いていて、白シャツはしっかりアイロンがかかってる。
眼鏡越しの目元も穏やかで、まるで――普通の教師みたいだった。
なのに私だけが、変に意識してしまっている。
ん?それだと恋みたいではないか……いや違う。
クラスの誰も知らない危険物の存在を、私だけが知っている。……冷静に考えると、わりと怖い。
「それじゃあ、出席取るぞー」
その声が、やけに近くに感じられる。
前の名前が呼ばれ、ひとつ返事があって、そして――
「柊 葉月」
「……はい」
ただそれだけなのに、喉の奥がきゅっとなる。
声のトーンが変じゃなかったか心配になるし、なんか顔が少し、熱い。……熱い?
お願いみんな、勘違いしないで。特に先生。
でも何となく、先生は全部、気づいてるような気がする。
「はいはーい! 先生、彼女とかいるんですかー?」
出席の最後、ミカが妙に元気よく手を挙げた。
先生は面倒くさそうにため息をついて、
「いないし、募集もしてないぞ」
即答だった。その瞬間、ふと視線が合う。一瞬だけだったのに、心臓が跳ねた。
あの視線に意味なんてない。……たぶん。ない。……いや、ないよね?
先生の眼鏡に、翻訳結果がピカッと表示されたりしないだろうか。『無意味』 とか。
……ウケる。
でも、ほんの少しだけ期待してしまった自分もいたので。
これも暑気あたりだった、ということにしておこう。
昼休み、屋上に続く階段の踊り場。
窓を少し開けて、ミカと並んでお弁当を食べる。
「先生、それなりにカッコイイのに、彼女いないんだねー。草食系なのかな?」
口をもぐもぐさせながらミカが言う。
「……檻に入った肉食獣かもしんないよ?」
「へ? どういうこと??」
「理性という、檻の中に入ってるんだよ……」
「……葉月、詩人にでもなった?」
うん、私もなんか変なこと言ってる自覚はある。
でもミカには、先生の野獣の姿なんて知らないままでいてほしい。今のところは。
* * *
放課後。私は進路指導室をノックした。
「どうぞー」
返事が聞こえて扉を開けると、先客の3年生がいた。
制服の着こなしがピシッとしてて、たぶん学年でも真面目側な人。
三山先生はその子の目をまっすぐ見て話していた。
私には、ちらっとだけ視線をよこして、静かに言う。
「そこ、座ってていいぞ」
その一言だけを残して、また3年生との話に戻る。
……あれ?昨日見たのは夏の幻?
私は静かに椅子を引き、腰を下ろした。
何となく時間がもったいなく感じて、カバンからルーズリーフを取り出す。
英語の単語帳も開いて、ペンを走らせる。
……やば。私、学校で自習とか、初めてかも。
外から差し込む陽が、紙の上に落ちる。
ページの影がじわじわ伸びて、夕方の気配が室内に満ちていく。
しばらくして、3年生が「ありがとうございました」と言って退出した。
それと入れ替わるように、先生がドアの前まで行って、「相談中」のプレートを出す。
カチッと音がして、空気が切り替わった気がした。
この部屋と外の世界を遮断するような……いやちょっと待て。今鍵閉めたのか?
そして先生は、私の隣に座る。
静かに、少しだけ斜めから手元を覗きこむ。
「……字、綺麗だな」
一言だけ。ほんのささやかな言葉。
「一応、昔、習字教室行ってたので……」
そう答えると、先生は少しだけ身を乗り出してきた。
「そうか……じゃあ、数字の三と、“山”って書いてもらえる?」
「え? ……はい?」
言われるままに、ノートの端にさらさらと書いてやる。
三、山。──いや、これ完全に先生の名字じゃん。
「……はい、三山」
「うむ、完璧だ」
なんなんだこの時間。
先生は顎に手を当てて、ちょっと考えるような素振りを見せたあと、こう言った。
「そこに、“好奇心”の“好”を足してみてくれないか」
「……は?」
「あと、ひらがなの“き”も」
いや、何を言って――
……って、あ。これ、「好き」じゃん。
「…………」
無言のままノートに書いて、ペンを置く。
『嫌い』にしてやった。
先生は、なぜか嬉しそうにその字面をじっと見つめてる。
いやいやいや、なんで喜んでんの。
「え、それ……どういう感情ですか?」
恐る恐る問いかけてみたら、先生は真顔のままぽつりと言った。
「切ないけど、なんかグッときてる。新しい扉が開いたんだろうか」
「……バカなんですか?」
呆れて返すと、先生は「自覚はある」と一言だけ返して笑った。
思わず、こっちも笑ってしまった。……って、なんで笑ってんの私。
もう本当、面倒くさい。
だけど――少しだけ、楽しいかも?




