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「ねえ、季軒ジシュエン、このコードさ、前のと違くない?」

――職場ではよくある、何気ないやり取りだった。


季軒は手を止め、同僚が指差すエディタをのぞき込む。

画面には、以前自分が上げたコードとコメントが並んでいた。

ドキュメントを開いて簡単に説明すると、同僚は納得したようにうなずき、自席へ戻っていった。


静かになったデスク周り。

季軒はため息をつきながらモニターを見つめる。

――金曜の午後なんて、誰が本気で働けるんだよ。


そのとき、不自然な「ギギギ……」という音がオフィスのどこかから響いた。

けれども、誰も気にしていない。

まるでその音が、最初から存在していないかのように。


……ああ、またか。

そう思った季軒はイヤホンを取り出し、静かに音楽を再生した。

そして現実から少しだけ意識を離し、別のことを考え始める。


宗教、霊、祓い、占い――

世の中の多くの人は、それらを「ただの迷信」だと言う。


かつての季軒も、そう信じて疑わなかった。

……あの日までは。


二年前、日本をひとりで旅していたとき。

ある神社で「奇妙な出来事」に出会ってから、


二年前の冬。

嵐山の竹林を散策したあと、呉季軒ウー・ジーシュエンはふらりと周辺を歩いていた。すると偶然、竹林の奥にひっそりと佇む小さな神社を見つけた。

これまで訪れた伏見稲荷のような華やかさはなく、ただ静かで、竹の葉が風に揺れる音だけが響く。まるで山に隠された秘密の場所のようだった。


境内に足を踏み入れると、そこには豪華な装飾などなく、いくつかの提灯が淡く冷たい光を放っているだけだった。

呉季軒は静かに一周して、不思議な安らぎと静寂を感じた。軽く手を合わせて祈ったあと、帰ろうとしたその時──


本殿の奥から、巫女装束の少女が姿を現した。十代後半から二十歳前後ほどに見える。彼女はにこりと笑って、呉季軒に手を振った。


「……???」


頭の中にクエスチョンマークを浮かべたまま、呉季軒は自分を指さして「私?」という仕草をした。

少女は笑顔のまま、こくりと頷く。


……は?何これ?


半信半疑のまま、呉季軒はゆっくりと少女に近づいた。

少女はまるで彼女の疑問を読んだかのように口を開く。


「#%^*=—¥&⋯⋯」


「……え、えっと……」

長々と話された中で、唯一聞き取れたのは「すみません」だけだった。


しばらく考えたあと、呉季軒はスマホを取り出して翻訳アプリを起動する。

それを見ると、少女は「あっ」と声を上げて「ちょっと待ってて」と言い、奥へと引っ込んだ。


しばらくして戻ってきた彼女の手には何もないように見えたが、次の瞬間、口の中に入るガムのような形をした白い紙を差し出し、呉季軒に指先で端をつまむように示した。


その瞬間──頭の中に直接声が響いた。


「ごめんなさい、急に呼び止めて。この紙は、あなたと私が話せるようにするものです」


「うわっ、なにこれっ!?」

呉季軒は思わず飛び上がり、頭がじんじんする。


手を離した途端、その奇妙な感覚はすっと消えた。

巫女の少女は彼女の反応に驚くこともなく、むしろおかしそうに微笑み、もう一度紙をつまむように促した。


手が震える。深呼吸をして、心の準備を整えたあと──呉季軒は覚悟を決めて、もう一度指でつまんだ。


「……これ、何? あなた誰?」

目の前の少女は、特に特徴のない普通の日本人にしか見えなかった。


「ふふ、私は高橋椎溟たかはし・しいめい。驚かせてごめんね。その紙は術みたいなもので……詳しい話はあとで説明するね」

柔らかく響く声が、呉季軒の頭の中に広がる。少し不思議だけれど、不快ではない。


彼女は少し間を置いて、静かに言葉を続けた。


「数日前、神託が降りたの。月読尊つくよみのみことさまが、“旅人を待て”と仰った。そしてあなたが、その預言に示された人なの」


そう言って高橋椎溟は穏やかに微笑み、真っすぐ呉季軒を見つめた。


「ここは月読神社。月と夜、そして時間を司る神、月読尊を祀っている場所。そして──月読尊さまはあなたを選ばれたの」


……情報量が多すぎて、頭の中はハテナでいっぱいだった。


「は? 新興宗教の勧誘? それともマルチの新手口?」

二十数年生きてきて、意味不明な場面はいくつもあったが、これは群を抜いて怪しかった。


「うん、その反応、わかる。無理もないよ」

高橋椎溟は肩をすくめ、少し困ったように笑った。


……正直、そろそろ我慢の限界。


「……じゃあ、その“神託”って何なの?」

とりあえず話を合わせるように、呉季軒は尋ねた。


月読尊の神託曰く──


「人の世に、陰陽の均衡を保つ者あり。

その者、心明らかにして迷霧の中より正邪を見極め、

夜の光をその身に宿し、我が名をもって異なる事象に対すべし。」


高橋椎溟たかはし・しいめいの声が、まるで直接脳の奥に響くように、はっきりと聞こえた。

気のせいかもしれない。

けれど──彼女がその神託を口にした瞬間、呉季軒ウー・ジーシュエンの背筋に鳥肌が立った。


その声は淡く、どこか空気のように透きとおっていて、

まるで深山の霧の中から吹き抜ける風のようだった。

冷たく、静かで、そしてどこか優しい。


胸の奥でざわついていた感情が、誰かの手にそっと包まれたように落ち着いていく。


木造の回廊に並んで立つ二人のあいだに、時間が止まったかのような静寂が訪れた。

互いに見つめ合いながら、言葉のない数秒が過ぎる。


「……その、“探している人”が私だって、証明できるの?」

呉季軒は反射的にそう口走ってしまい、言った瞬間に後悔した。

──どうやって証明するんだ、そんなもの。


高橋椎溟は一瞬ぽかんとした顔になり、すぐに苦笑を浮かべた。

「……ごめん、つい、証拠とか理屈を求める癖でね」

呉季軒は頭をかき、気まずそうに笑った。


その時──視界の端で、何かがすっと横切った。


誰かが通った?と思う間もなく、高橋椎溟が小さく「あっ」と声を上げ、

手にしていた白い紙を落として、慌てて九十度の礼をした。


何が起きたのか聞く暇もなく、呉季軒は視線を向ける。


そこに立っていたのは、銀と墨黒が織り交ざった和服の人物。

上に羽織った外衣は簡素ながらも気品があり、

衣の裾には淡く月と雲の紋が浮かんでいた。


白と青を混ぜたような長い髪が腰まで流れ、肩にかかる房が微かに揺れる。

簪のような飾りがいくつか差してあり、派手さはないが、

その存在は彼の静かな威厳を一層際立たせていた。


瞳は夜空のように深く、そこに宿る光は人の心の奥を見透かすよう。

静寂の中にありながらも、どこか抗えぬ威厳があった。

見る角度によって、銀白の光が淡く揺らめく。


彼は扇を手に、穏やかに微笑んでいた。

それだけで、呉季軒の胸の奥にひとつの言葉が浮かぶ。


──「月読尊ツクヨミノミコト


気づいた瞬間、呉季軒は自然と姿勢を正し、深く頭を下げた。

彼は静かに頷き、わずかに口元を綻ばせる。


そして次の瞬間、風がふっと流れたと思ったら、もうその姿はどこにもなかった。


……これはもう、認めざるを得ない。


微妙な沈黙が、二人の間に落ちた。


「こ、こほん……す、すみません……」

呉季軒は咳払いしながら、たどたどしい日本語で謝った。


「ぷっ……あははははは!」

高橋椎溟はその顔を見た瞬間、堪えきれずに吹き出した。

地面に落ちていた紙を拾い上げ、再び差し出しながら、

「言葉って、気をつけないとね~」と笑う。


「……ほんとだね。軽く言うもんじゃない……」


呉季軒は苦笑しながら答えた。

──でも、まさか月読尊があんなに綺麗な顔してるとは思わなかったな……。

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