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突然、肩を軽く叩かれる感覚があった。

それが吳季軒の思考を途切れさせた。


イヤホンを外して顔を上げると、どうやら退勤の時間になっていたらしい。

出て行く同僚が、笑顔で吳季軒に声をかけてくる。

吳季軒は微笑みながら手を振り、軽くうなずいて「じゃあね」と返した。


片付けを終える頃には、オフィスの人影もほとんど消えていた。

――それでも、あの「ギイ、ギイ……」という音だけは、止むことなく響いている。


吳季軒は額を押さえ、小さくため息をついた。

正直、あまり首を突っ込みたくはない。

だが、放っておけば後々面倒なことになる――そんな嫌な予感がどうしても拭えなかった。


いつもあるわけではない、この胸のざわつき。

だからこそ、今回の不安は余計に気になった。


机の上に置かれたマグカップを手に取り、湯沸かし室へ向かう。

冷水を注ぎ、周囲に人がいないことを確認してから、吳季軒はポケットから小さな白い札を取り出した。

簡易の浄化符だ。


ライターで火をつけると、符は淡い光を放ちながら燃え始める。

吳季軒は静かに口を開いた。


「清水を基とし、四方を浄め、炎を媒介として、邪を祓う」


呟いた瞬間、小さな炎が一度だけ強く閃いた。

そして、符はすぐに灰となり、水の中へと舞い落ちる。


簡易的な御神水――あるいは浄化用の水が、これで完成した。


次に確かめるべきは、あの耳障りな音の正体と位置だ。


吳季軒は指先を御神水に浸し、テーブルの上に「尋」の字を描く。

そして静かに目を閉じ、息を整える。


「月光よ、我を導け。霧を払い、隠されたものを我が前に示せ――」


言葉が終わると同時に、水で描かれた「尋」の字が微かに震え、まるで沸騰するように揺らめいた。

やがて水滴は四方へ散り、空気の中に消える。


ほんの少しの沈黙のあと、吳季軒の脳裏にいくつかの映像が閃いた。


――見つけた


位置はおおよそ裏のベランダ、つまり非常口のあたりだった。

だが厄介なのは、何階なのかがわからないことだった。

オフィスビルの廊下の造りはどこも似たようなものだからだ。


環境に慣れている吳季軒は、頭の中に浮かぶ映像を頼りに非常階段を素早く上っていく。

扉を押し開けた瞬間、視界に漂う黒い霧がぶつかってきた。

霧の中には、蒼白で血の気のない顔が浮かび上がり、冷たい気配が凝りついているようだった。


その顔は奇妙にも左右に分かれていた。

左半分は歪んだ笑みを浮かべ、口角が上がり、どこか邪悪な笑みを含んでいるように見える。

その目は刃のように鋭い。

一方、右半分は静かで表情がなく、目を閉じ、まるで麻痺したように沈黙していた。

そして、あの「ギイ、ギイ……」という音は、左半分の口から発せられていたのだった。


……ちっ、半妖か。


吳季軒は足を止め、目の前の彼女を見つめた。


この世の万物はすべて妖となる可能性を持つ。

人も、物も、あるいは動植物でさえも——執念に染まれば妖へと変わる。

一度妖となれば、殺すしかない。元には戻れない。

妖が消滅するということは、その前身——人や物、生き物としての存在が完全に消えるということだ。


もし人が妖になったなら、殺すことはすなわち人を殺すのと同じ。

魂は消え去り、二度と存在しなくなる。


だが、人の半妖は違う。

半妖であるということは、まだ完全に執念に汚染されていない証拠。

人としての魂が残っているのだ。

だからこそ、むやみに殺してはならない。

半妖は「祓う」か「浄化」するしかない。

無害な形へと戻し、穢れていない魂を守るために。


だが、消滅させるよりも、祓いと浄化の方がはるかに厄介で難しい。


吳季軒は手にした水の入ったコップをちらりと見て、小さくつぶやいた。

「……ったく、面倒なのに当たったな。」


半妖はすぐに吳季軒の存在に気づいた。

その視線には敵意と、そして観察するような色が混じっていた。

どうやら、自分の姿が見えていることに驚いているようだ。


吳季軒は歯を食いしばり、彼女を見ながら声をかけた。

「今の自分の状態がわかってるのか?」


半妖は左の口角を引き上げ、「ギャァァァァ……」と呻くような声を上げた。

唇の端からはゆっくりと唾液が垂れ落ち、痛みと悲しみが混ざったようなガタガタとした音を発している。


……話は通じそうにないな。


吳季軒は唇を引き結び、手にしていた水のコップをそっと置く。

そしてポケットから、いつも持ち歩いている黄色い鈴を取り出した。

紫の紐がついており、全体の長さはブレスレットほどだが、金色の鈴はやけに目立つ。


紐を握り、吳季軒は鈴を軽く振る。

鈴が「チリン」と澄んだ音を立てた。

その音は、ベランダの外から聞こえる車の騒音と重なり、奇妙に際立って響いた。



鈴を軽く鳴らしながら、吳季軒は口を開いた。

「執念よ、消え去れ。迷霧よ、砕け散れ。――月光を証とし、不浄なるものを祓い、この地に清明を還さん!」


――リン……リン……


呪文と鈴の音が重なり合うたび、半妖の身体を包んでいた黒い霧が風に吹き飛ばされていく。

彼女はごく普通の丸首の長袖シャツに、ゆるめのパンツを穿いていた。けれど、その服ではどうしても隠しきれない――あまりに細い手足。


自分が祓われようとしていると悟ったのだろう。

半妖は怒りの咆哮を上げ、容赦なく吳季軒へと飛びかかってきた。


咄嗟にしゃがみ込み、手にしていたコップの水を勢いよくぶちまける。

水を浴びた半妖の服から、ジュッという音とともに白い煙が立ち上った。

彼女は焼けつく痛みに呻き、後ろへと退く。


「――今だ!」

吳季軒は迷いなく鈴を振り、じりじりと距離を詰めていく。


「この地に異界の霊、留まることを許さず。陰陽分かたれ、然るべき場所へ還れ。

 月読の名のもとに、異形を祓う――ここに留まることを赦さぬ!」


「ガアアアアア――ッ!」


甲高い悲鳴が響き渡り、吳季軒の鼓膜を貫く。

思わず耳を押さえ、二歩ほど後ずさる。頭の芯まで響くような痛み。

次の瞬間、半妖は天へと突き上がり――光の粒となって消えた。


「……とりあえず、終わった。」


いくら慣れたと言っても、この手の仕事にはどうしても慣れない。

震え続けていたスマホを手に取り、疲れたように画面をスワイプする。


王廷からのメッセージが一件。

『着いたよ、どこ?』

その下には――「不在着信 1件」


時間を見た瞬間、顔が引きつった。


「うわ、やばっ!!!」


今日の約束は――七時にレストランで待ち合わせ。

現在時刻:18時55分。


「……泣きたい……。」


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