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陽の下、揺ぐ  作者: カナメ
四章 陽中瀬
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妖異降ろし

 

 祠は、街の少し奥まった場所にあった。

ヒナカセの港から少し離れた丘の中腹に位置し、白木の生い茂る小道を抜けた先に、静かに佇んでいた。


辺りはすでに夜の帳が下り、静かさだけが残っていた。

苔むした石段を登ると、簡素だが手入れの行き届いた木造の社殿が姿を現した。祠の前には、すでに数人の人々が集まっていた。子供を抱えた母親、背を丸めた老人、仕事帰りのような装束の若い男、そしてきちんとした衣をまとった街の役人風の男。

皆、静かに、祠の前で待っていた。


ミナトは少し驚き、思わず足を止めた。


「…ずいぶん人がいるな」

シズクは特に表情を変えず、前へ進んだ。彼女が石段を上がるにつれて、人々の間に自然と道が開ける。


「逝導様…待っておりました」

最前列にいた年配の女性が、深々と頭を下げながら言った。それに続いて他の人々も、まるで儀礼のように一斉に頭を垂れる。


「遠路を…ありがとうございます」

「この日を待っていました…」

口々に漏れるその声は、神を迎えるかのような敬意と、わずかな緊張感に包まれていた。


ミナトは一歩遅れてシズクの隣に立ち、少しだけその場の空気に気圧されながらも、彼女の静かな横顔に目を向けた。


シズクは静かに祠の正面へと進み、祭壇の前に立つ。そして、振り返りもせず、淡々とした声で言った。


「始めます…妖異降ろしの儀を」

その声が空気を切るように響いた瞬間、周囲の人々は一斉に祠の周囲から離れ、距離を取った。誰もが一歩引き、言葉を呑み、これから始まる神事に息を潜めた。


風が静かに木々を揺らし、白木の枝が微かに擦れ合う音が、まるで祈りの調べのようにあたりを包んでいた。


ミナトは無言のまま、儀式の始まりを見つめていた。目の前に立つシズクの背中が、今までよりも遠く、けれども確かな光のように見えた。


 

 祭壇の前でシズクが静かに手を合わせると、周囲の空気がわずかに変わった。まるで音が沈むように、風のざわめきさえ遠のいていく。

 

ミナトが息を呑んだ時だった。

 

人々の中から、先ほど最前にいた年配の女性が一歩前に出た。彼女は、懐から布に包まれた小さな刃物。祭器のような細身のナイフを取り出した。

ほかの者たちも同じように、無言でナイフを手にしている。


ミナトの目が見開かれる。


「おいあんたたち何してんだよ」

その声に誰も返事をしない。ただ、整った手順のように、彼らは一人また一人と、祭壇の前に並ぶ。


「おい…おい…シズク、なんだよこれ!」

 

シズクはゆっくりとミナトを振り返った。その顔には、どこか苦しげな色が浮かんでいたが、それでも彼女は目を逸らさず、静かに言葉を発した。


「…妖異を降ろすには、贄がいるの。強い想いを持った命が…複数、必要」


「なんだよそれ…わけわかんねえこと言ってんじゃねえよ…!」

ミナトの声は怒りに震え、足元の石を蹴り飛ばすようにして前に出た。


「こんなのおかしいだろ!人が死ななきゃできないなんて、そんなの……!」

ミナトの言葉を遮るように、一人の若い男が、静かに首元に刃をあてがい、迷いなく切り裂いた。鮮血が吹き出す音と共に石畳を濡らし、男が倒れる。

その匂いが風に溶け、ミナトの体が凍りつく。


「おい…やめろ…やめろって!!」

ミナトは駆け寄って男を支える。しかし別の者が続くように自ら首元を切り裂いていく。

ミナトの声が祠に響いたが、それは誰の耳にも届かなかった。まるで彼らには、それが決められた運命の一部であるかのように。


母が子の手を取り、老人が微笑み、順番に一人ずつその場で倒れていく。


「なんで…なんでだよ!なんでこんな…」

ミナトは拳を握り締め、震える声でシズクを見据えた。


「これが“浄化”だってのかよ…!こんなもん、ただの殺しじゃねえか!」

シズクの肩がわずかに揺れた。その目の奥には、確かに痛みがあった。彼女は人々の死を見届けるたびに、唇を噛みしめ、目を逸らしそうになるのを堪えていた。手の甲は強く握りしめた爪の跡で白くなり、喉の奥では何かが震えていた。


「…私が背負うから」

その言葉の重さが、ミナトの胸に重く落ちた。


「そんなもんで帳消しになるわけねえだろ…!お前だって苦しんでるくせに、なんで…!」

ミナトはシズクの肩を掴み、揺さぶるように叫んだ。


「目、逸らすなよ!お前がやってんだよ!命が消えてんだぞ!どうして止めねえんだよ!」

シズクは目を閉じ、ほんの少し首を横に振った。その頬を一筋の涙が伝っていた。


「……でも、これしか方法がないの。私が拒めば、煌は誰にも消せない…」

その言葉にミナトは言葉を失った。怒りと悲しみが胸の奥でせめぎ合い、どうにもできない現実がそこにあった。


儀式は、静かに、残酷に、進んでいた。空はどこまでも深い闇に包まれていたが、ミナトの心の中には、もうその色は映らなかった。


 

 シズクは静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

その吐息が風に溶け、祠の静寂に広がる。両手を胸の前で合わせ、目の前に小さな導珠を掲げる。銀色の鎖が、月の光を受けて微かにきらめく。

導珠は、青白く輝いていた。それはまるで、魂を映す鏡のような、冷徹な美しさを持っていた。


「…現れよ」

シズクの声が、穏やかに響いた。

その瞬間、導珠の輝きが一瞬だけ強く、まるで夜空の星が瞬いたかのように輝き、やがて穏やかな光となった。

彼女はその光を見つめながら、ゆっくりと両手を広げ、深い祈りのように目を閉じた。


祠の周りの空気が震え、風が強く吹き始める。あたりの木々がざわめき、白木の枝が揺れる。倒れた人々の身体から溢れ出した淡い光が、集まるように空間を駆け巡る。濃く、深い霧が湧き上がり、その中から、揺らぐように青白い光が現れる。


「なんだ…これ…」


ミナトの目が、その光に引き寄せられた。光は徐々に凝縮され、中心に浮かび上がる。その中から現れるのは、人ならざる者。妖異の姿だった。


その姿は、ひどく異形でありながら、どこか神々しさすら漂わせていた。四肢は不自然に長く、身体は雪のように白い。まるで霧をそのまま形にしたような存在。輪郭は曖昧に揺らめき、その周囲には薄い霧が漂っている。それは衣のようにも見え、羽のようにも見えた。

そして、青い瞳だけが、はっきりと輝いてみえた。澄みきった深海のようなその目は、すべてを見通すような静謐さを湛えている。

 

妖異は、死者たちの魂が一つに結びついて生まれたもの。その瞳の青い光には、無数の命が込められているように感じられた。美しく、儚げでありながら、どこか恐ろしさを伴うその姿に、ミナトは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「…これが…妖異」

ミナトが呆然と呟いた。


妖異は、まるで呼吸するようにその存在感を増し、シズクの方へとゆっくりと向かっていく。


その光景は、どこまでも神聖でありながら、同時に恐ろしくもあった。


シズクは、目の前の妖異の姿を静かに見上げた。

風はやみ、祠の中に一瞬の静寂が訪れる。


「…降りよ」

シズクの声はかすかだったが、はっきりとした響きを持っていた。

手にした導珠を胸元に近づけ、そっと両の掌で包み込むように持ち上げる。導珠がふたたび青白く光を放ち、その光が揺れ、脈打つように強さを増していく。


妖異の青い瞳が、導珠の光を映す。妖異はまるで自身の帰る場所を理解しているかのように、片腕をすっと伸ばした。長い腕の先が、光へと触れようとする。その動きは、祈るようで、迷いのないものだった。


そして次の瞬間、導珠の光がふわりと広がり、妖異をやわらかく包み込んだ。

音はなかった。夜空の下で月明かりに照らされた霧が、ただ静かに揺らめいていた。


「あなたたちの想い、無駄にはしない」

シズクの呟きとともに、妖異の身体が霧のようにほどけていく。

真っ白の身体はひとひらの雪のように融け、淡い光となって、導珠へと吸い込まれていった。長い四肢も、揺らめいていた霧も、青い瞳までも、静かに、しかし確かな意志で導珠へと降りていく。

 

ミナトは息をのんだまま、その光景から目を離せなかった。


やがてすべての光が導珠に集まり、最後の瞬きのように淡い光を放って、珠の輝きがふっと収束する。

銀の鎖がわずかに鳴り、静けさが周囲を満たした。


「……はあ…」

シズクは、力の抜けたように膝をつき、その場に座り込んだ。手の中の導珠は、もう輝いていない。けれど確かに、あの青い瞳を宿しているように見えた。


その手の中にあるのは、祈りの結晶か、それとも犠牲の証か。ミナトには、その答えが分からなかった。


 

二人の間には長い静寂が流れていた。

ミナトは言葉を失い、ただその場に立ち尽くしていた。冷たい夜気が頬を撫で、木々が遠くでざわめく音だけが、かすかに耳に届く。


やがてミナトはゆっくりと口を開いた。震えを抑えるように、低く。


「…終わったのか?」


その問いに、シズクは顔を上げた。疲れ切ったように見えたが、その瞳にはどこか静かな決意が宿っていた。


「……終わった」

その言葉に、ミナトはふっと肩の力を抜いた。

安堵ではなかった。心の中に残るのは、重く、鈍く、どこか納得のいかない何か。命が消えていく瞬間をこの目で見たのに、それが“正しい”とされていることに、どうしても折り合いがつかなかった。


それでも、今はそれ以上何も言えなかった。

彼女がその重さを一人で背負おうとしていることも、わかってしまったからだ。


「……わかった」

ミナトは小さく息を吐いた。


「…街へ戻ろう。休まなきゃ」

シズクはゆっくりと立ち上がり、手の中の導珠を胸元へ戻した。ふたりは無言のまま、夜の祠を後にする。

夜道はしんと静まり返っていたが、不思議と恐ろしさはなかった。むしろ、先ほどまでの祠の静寂のほうが、よほど重く、魂にのしかかるような気がした。


街の灯が少しずつ近づいてくる。

ヒナカセの街は、夜の帳の中で静かに呼吸していた。遠くの波の音と、灯火の明かりが、ふたりを迎えるように揺れている。


ミナトは歩きながら、空を見上げた。

星は静かに瞬いていた。

あの祠で失われた命の分だけ、夜が深くなったような気がして、彼はそっと目を閉じた。


ヒナカセの街が、二人を静かに包み込んでいった。


※本作はすでに完結済みの長編ファンタジーです。現在、連載形式で投稿中です。物語は最後まで投稿される予定ですので、安心してお楽しみください。


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