42.子猫伯爵と避けられぬ戦い
神学のグループワークが終わって数日。
季節は夏の第三月――前世で言うところの6月へと移り変わった。
先月までに比べると日差しに温かさが増したが、春というだけあってうだるような暑さにはまだほど遠い、穏やかな気候が続いている。
梅雨というものもなく、快適な日々を送る事が出来ていた。
そんな過ごしやすい日の放課後、オレはスミレに会うために庭園へ向かう。
スミレたちと出会ってからまた一月、クロたちはスミレの手にも余るやんちゃな盛りを迎えていた。
オレたちが顔を出すと少しは羽を伸ばせるのだろう。
大変な母猫を助けるという口実も相まって、オレは今日も足繁くスミレの住処へと足を向ける。
「ふんふふんふ~ん♪」
今日はスミレたちのためのおやつもぎっしりだ。
手を焼く子猫たちの世話に忙しいスミレの食欲が増したのもあるが、食いしん坊のサビと競うようにクロとモモもよく食べるようになったのである。
手も足も立派に育った子猫たちはお菓子の取り合いにバシバシと喧嘩をする始末だ。
ハンスにはオレそっくりだと言われたが、オレはそこまで食い汚くないと思う。
それに最近は加護術の授業のおかげもあって、馬鹿みたいに空腹を感じる事は少なくなった。
急に空腹がぶり返したり、かえって起きられなくなったり、まだまだ鍛錬が必要ではあるが、卒業までには何とかなる事だろう。
自分にも子猫たちにも成長を感じるオレは、たっぷり中身の詰まった鞄を抱え、いそいそと茂みをかき分けた。
「ふふんふんふんふふんふふふふ~ん♪」
鼻歌混じりに、何度も通った事で少しくぼんでしまった場所を抜けていく。
ハンスがいれば低木を飛び越えていくのだが、今はオレ一人だ。
トラスティーナ教授に呼ばれたハンスは、今頃あの怖い教授にこき使われているのだろう。
ハンスはそんな事はないと言うが、トラスティーナ教授が恐ろしい事に変わりはない。
ここは騎士団ではなく学院なのだから、もう少しお手柔らかにお願いしたいものである。
「は…?」
うんしょと穴を抜け、庭園の裏側へと入り込む。
パッパッと泥と葉っぱを払うオレの目に見覚えのある後ろ姿が飛び込んできた。
ここにいるはずのない相手に、自然と冷や汗が背中を伝う。
「チッ、ミオンじゃないか」
そこにいたのはサマル・バロッドだった。
こちらに気が付いたサマルが、忌々しそうにオレをねめつける。
「何してん…ですか?」
普通に話しかけようとして――躊躇う。
サマルの事を敬う気持ちなど微塵にもないが、オレは伯爵令息で向こうは侯爵令息。
正面切って争っているわけでもないのに、余計な波を立てる必要はない。
何でこんな奴にとは思うが、歯痒い気持ちをぐっと堪えてサマルの様子を伺った。
サマルはというと、下手に出たオレに少し気が良くなったらしい。
口角を上げ、オレの傍へと一歩二歩と歩み寄ってくる。
「お前は分を弁える事が出来るようだな」
「………ども」
何一つとして誉め言葉ではないそれを、短く受け流す。
それでもサマルはオレが逆らわない事に着実に気を大きくしたようだった。
嫌味な奴だと思うが、今はサマルが何故ここに来たかを探る方が先決だ。
ただ庭園を歩いているだけなら言う事はないが、この低木の奥にまで来る理由は普通ならないはずだ。
「丁度いい。猫を寄越すんだ、ミオン」
「は?」
「お前がここで猫の世話をしているのは知っている。早く連れてこい」
どう切り出すかを悩んでいるとサマルが上から命令する。
(今、何て言った…?)
サマルが何を言ったのか、すぐには理解出来なかった。
バクバクと心臓が煩く跳ね回り、それ以外の音が消え去ったような感覚に陥っていく。
(猫…?猫、だって……?)
嫌な予感が押し寄せる。
じんわりと暑さを増す日差しとは別に、シャツの中がぐっしょりと汗で湿っていった。
寒さを感じる季節は過ぎ去ったにも関わらず、汗で濡れた背中のせいか体がブルリと震えあがる。
その悪寒を振り払うように乾いた唇を開いた。
「…………猫なんて知りませんけど」
「ふぅん?白を切るつもりか?紫色の猫がいる事くらいこっちだって知っているんだ」
「……っ…」
サマルの言葉に体が強張った。
紫色の猫と特定している時点で、オレがスミレと会っている事は筒抜けという事だ。
だからといってサマルに教える事はない。
「……猫なんか探してどうするんですか?」
「何故教えなければならない。お前に許されているのは黙って案内するか、連れてくるか――その二択だけだよ」
「それは……出来ません。猫がいる所なんて知らないので」
簡単に口を割らないサマルから一歩距離を置く。
悔しいがこれはオレ一人でどうにか出来る問題ではない。
ハンスを呼びに戻らなければ――そう思うオレを嘲笑うように、サマルがオレの手を掴む。
「おっと、ミオン?猫の事なんて知らないんだろう?ならここで私と話をしようじゃないか。それとも案内をする気になったかな?」
「このっ……!誰がそんな事……!!」
「口の利き方には気を付ける事だね。カイトに気に入られているようだが、今ここにいるのは私とお前だけ。少しでも気に障る事を言えば――そうだな、お前の犬共に罰を受けてもらうとしよう!クク!お前にはそっちの方が利くだろう?」
にやりと口を吊り上げて、サマルは下卑た笑みを浮かべる。
「犬って…ハンスたちのことを言ってるのか…?」
「それ以外に誰がいる?弱者の群れに君臨するのはさぞ楽しいだろうね?ミオン?」
「オレはそんなこと思ってない…!!」
ぐっと腕を引くオレを、サマルは汚らわしいものに触るように地面に叩きつける。
尻もちをついたオレを見下すのは憎悪を秘めた冷ややかな瞳だった。
「頭の悪い奴め。猫だけで済まそうと思ったが……お前の態度次第では話が変わってくるぞ?」
憎悪に溢れたその目に見下ろされた瞬間、ゾワリと嫌な予感が全身を駆け回った。
(まさか……)
口内に溢れてきた唾液をごくりと飲む。
(動物を殺したって……)
愕然とするオレの頭に『ラブデス』の一説が蘇った。
動物を殺したサマルが、その亡骸をハンスへと見せつける小説きっての凄惨な場面だ。
とりわけ残酷なシーンのため詳細が書かれる事はなかったが、都合良く学院に動物がいるわけがない。
そのためだけに動物を連れてくるのだって合理的ではないし、ハンスの心を抉る事はないだろう。
だとすれば、答えは一つ。
(ハンスは原作でもスミレを可愛がってたんだ)
ハンスは猫が好きだと言っていた。
たとえスミレに相手にされなかたっとしても、庭園に住むスミレに会いに行っていたはずだ。
そして、サマルはそこに目を付けた。
ハンスが世話を焼いていた猫に手をかければ、ハンスの正義を折れると踏んだに違いない。
気付きたくない事実に気づき、オレは言葉を失った。
それ以上に、先日訪れたカルバの街とは比べ物にならない怒りが湧き上がってくる。
小説の中の出来事は所詮フィクションと割り切らなければいけないのかもしれないが、今目の前で起きようとしている事は紛れもない現実だ。
スミレたちがこんな奴の身勝手で死ぬなんて絶対にあってはならない。
(大丈夫、大丈夫だ、オレは逃げない)
恐怖に竦む体に喝を入れ、その場に立ち上がる。
歯がガチガチと音を鳴らすが、それも顎にぐっと力を込めて抑えつけた。
(スミレを殺させなんかしない――!!)
キッとサマルを睨む。
痛いのも怖いのも全部嫌だ。
逃げられるものなら、回れ右をして逃げ出したい。
でもここで逃げたらオレは一生後悔し続ける事になるだろう。
無駄に悩んできたハンスに殴られないも、カイトと関わらないようにも、スミレの命に比べれば些末な事だ。
今までの比ではない覚悟を決め、オレは頭一つ高いサマルへと掴みかかった。
「お前に渡すものなんかない!!ここから消えろ!!」
「クッ、フフ……ハハハ!手を挙げたな?私に逆らったな?」
掴みかかったつもりだったが、逆に突き飛ばされる。
胸に強い衝撃が襲い掛かったと思えば、瞬きする間もなく視界が反転した。
「ハハハハ!馬鹿め!」
「ぐっ!!う、くぅ…!!」
再び地面に転がったオレの体をサマルが足蹴にする。
蹴られる度に鋭い痛みが走り、今すぐにでもサマルに泣きついて許しを請いたかった。
この期に及んでみっともない事を考える自分が恨めしい。
「んぐぐ…!」
体を丸め耐えようとするが、細身とはいえ170を超える長身のサマルが相手だ。
喧嘩どころか武術の心得一つないオレは、手も足も出ないまま土の上をのた打ち回る。
「どうした?先に手を出したのはお前の方だろう?」
「んぎっ!?んぐぅ……っ!!」
声高に笑いながらサマルは容赦なくオレを蹴飛ばし続ける。
オレが気を失わないよう、わざと手加減して蹴ってくるところが腹立たしい。
(クソ野郎め…!!!!)
しかしどんなに悪態をつこうがオレに成す術はない。
サンドバックにされるばかりで、一矢報いる事すら出来なかった。
「――ああ、そうだ」
思い出したように足を止め、サマルはオレの腹の上に足を置く。
体重をかけられると、内臓なのか肋骨なのか、ギリギリと鈍い音が体の中でこだました。
「あ゛、ぐっ、んああぁ……!!」
「カイトにやられたと言うんだ。そうすれば猫は助けてやる――悪い話じゃないだろう?」
喉の奥から掠れた声を絞り出すオレを見下ろして、サマルはにたりと笑みを深める。
常軌を逸したとしか思えない、爛々と輝く目がオレを見つめていた。
「なに、いって……」
「お前がカイトを煩わしく思っているのは知っているとも。だから全てカイトのせいにしてしまえば良いと言っているんだ。そうすればお前はカイトの評判を落とせる上に猫も助けられる。頭の悪いお前にもよく分かる話だと思うのだけどね」
「デル、ホークを…裏切る、のか……」
「クッ、ククク!アハハハ!!」
仲が良くないとは思っていたが、こう簡単に裏切れるものなのか。
オレの問いにサマルは大口を開けて笑った。
笑って、嗤って、深淵のように濁った瞳にオレを映し出す。
「裏切るも何も私は最初からあの男が大嫌いでね。いつ蹴落としてやろうかと機を伺い続けてきたのだよ。フ、クク……ああそうだ。ミオン、お前だ。お前を使えばカイトを引き摺り下ろせる」
「イカレて、やがる……」
オレは勘違いしていたのかもしれない。
小説においての主犯格だからとカイトを疑い続けてきていたが、オレがもっとも注視すべきはサマルの方だったのだ。
(んなの、分かりきってたのに……)
そうだ、最初からサマルの独断だった。
小説で動物を殺したのも、今こうしてスミレを利用しようとするのも全部、サマル一人の凶行だった。
ギリリと奥歯を噛むがもう遅い。
悔しさを滲ませるオレに、サマルがなおもにたにたと笑みを浮かべた。
「私は優しいからな、三つ選択肢を与えてやる」
ひゅーひゅーとか細い呼吸を繰り返すオレの上で、サマルが指を三本立てる。
何を言われても癇に障るだけだが、人を小馬鹿にした態度で一つ一つ丁寧に説明してくれた。
一つはカイトを貶めること。
一つはスミレを差し出すこと。
一つはハンスを見捨てること。
どれを選んでもサマルの思う壺だ。
ここでサマルと共にカイトを悪く言ったところで、最後にはオレ一人の責任にされるだけだ。
スミレを差し出すのは言わずもがな、ハンスたちを裏切る事だってしたくない。
「心配しなくても私は約束を守る男だ。お前がちゃんと言う事を聞けるなら、大事なペットには手を出さないでおいてやるとも」
黙り込んだオレを見てサマルがクツクツと喉を鳴らす。
守る気もない約束を提示しておいてよく言うものだ。
だがサマルの言う事を聞くつもりはない。
選択肢などなくとも、オレの答えは決まっていた。
「クソッタレ」
笑って言い捨てる。
オレの答えにサマルは足を振り下ろした。




