25.子猫伯爵と女神の神殿
神経質そうに胸元のジャボを弄りながら、サマル・バロッドがオレたちの前に現れた。
立ち上がった襟に顔までかかる大量のフリル。
大振りの宝石が嵌ったカフスに、タイピン、金色に光るボタンにと、一目で分かる気合の入れようだ。
この世界ではけして珍しい事ではないのだが、油で固めた髪はギトギトに輝き、あまりの情報量の多さにオレは目が痛くなった。
今日くらいはと革で出来た立派なベストを着せられたオレとは大違いである。
目を細めるオレには気づかず、サマルは自信満々に鼻で笑う。
「まったく、これだから卑しい身分の人間は嫌いなんだ。ここが神聖な場所と理解できないのなら、今からでも帰った方が良いのではないかな。いいや、神殿を穢さないためにも帰るべきだよ。特に君はね、ハンス・ウィルフレッド」
カイトの真似だろうか、堂々とした物言いと態度でサマルはハンスに対峙した。
しかしハンスはどこ吹く風だ。
「シャルル、リボンが曲がっている」
「え?どこ?」
「直してやるからじっとしていろ」
本当に曲がっているかは知らないが、ハンスは素知らぬ顔でオレの髪を結わうリボンに手を触れた。
サマルが何か言いたげに口をわなつかせるがハンスは見向きもしない。
それどころかユージーンたちでさえ、サマルに目を向けなかった。
あんなに堂々と〝特に君はね、ハンス・ウィルフレッド〟などとほざいたところで、誰にも相手にされなければ一人虚空に向かって喋る怪しい人間である。
「貴様ら!!聞いているのか!!」
「ああ、バロッド様。ご忠告ありがとうございます。ですがバロッド様こそ大きな声を出されては迷惑になってしまいますよ」
無視をされるなどとは思ってもいなかったのだろう。
サマルが大声で捲し立てようとするが、そこにユージーンが割って入った。
悪びれた様子なくにこにこと微笑むユージーンに、サマルはこめかみをひくつかせている。
ハンスに言い返された時もそうだったが、真正面から正論で躱されるのが苦手なのかもしれない。
「男爵令息ごときが生意気な…!」
「申し訳ありません。男爵令息ごときなもので、どうにもバロッド様の仰りたい事が分からないみたいなんです。良かったらご教授願えませんか?」
悪びれもなく――正しくはいけしゃあしゃあと答えるユージーンの強かさに、サマルは押され気味だった。
(っていうか、こいつ何で一人で来たんだ…?)
ふと周りを見やっても、取り巻き―サマルに取り巻きがいるかは知らないが―は見当たらない。
カイトがいないのもあって、傍目にはサマルが勝手に難癖をつけているだけに見える事だろう。
一人喚くサマルに、オレたちよりも先に神殿に着いた生徒たちもこそこそと耳打ちをしあっている。
いかに侯爵令息であれ、無様な姿を見せれば噂好きな貴族たちの格好の餌食になるだけだ。
(ユージーンは顔広いもんなぁ)
何より喧嘩を買って出たのがハンスではなくユージーンなのだ。
派閥や身分関係なしに人脈を持つユージーンが相手では、流石のサマルも分が悪い事だろう。
必要以上に体面を気にするサマルは青筋を立てて体を震わせる。
「どいつもこいつも…自分の立場が分かっていないようだね……?」
何とか笑顔を保っているが、あと一歩で血管が切れてしまいそうに見えた。
ここまでくると普通に怖い。
思わず後ずさったオレの前に出たのは拳を固く握りしめたハンスだった。
サマルがユージーンに手を出した瞬間、血が噴き出す乱闘騒ぎになってしまいそうな雰囲気だ。
(待て待て待て――!!!!)
こんな所でサマル撃退イベントの前倒しは勘弁して欲しい。
前倒しどころか一生やらなくて良い。
焦って周りを見ると、こちらへ走り寄る影が見えた。
直後、一触即発のそこへ柔らかな声が降り注ぐ。
一見すると空気の読めないその声色に、全員の動きが止まった。
「――失礼致します」
目を丸くしたサマルの前に躍り出たのはクリスティアンだった。
流れるような身のこなしで近づき、ユージーンを背負うように二人の間に割って入る。
「バロッド侯爵令息様。お初にお目にかかります。ミオン伯爵家に仕えておりますクリスティアン・エインワーズです。我が主人ラドフォード・ミオンに代わりご挨拶申し上げます」
「エインワーズ――なるほど、ミオンの執事か」
「今日は『知啓の祝福』というバロッド様にとってもめでたき日でございましょう。僭越ながら、あなた様に尊き女神様の祝福があられる事を祈っております」
「……それはどうも」
朗らかな笑顔でクリスティアンは深々と頭を下げる。
クリスティアンの顔を見たサマルは、少しは冷静になったのかあっさりと引いていった。
(家同士の問題にはしたくないってとこか?)
クリスティアンに頼る形になってしまったのは不甲斐ないが、サマルが目の前から消えてくれた事にほっとする。
そして――新たな問題に胃が痛くなりそうになった。
どうやらオレが気に掛けるべきはハンス一人ではなくユージーンもだったようだ。
仲間思いなのは嬉しいが、今にも揉め事を起こしかねない友人たちには冷や汗ものだ。
サマルはサマルで〝覚えていろ〟だの〝貴族に守られる恥知らず〟だの何だの、ありきたりな捨て台詞を吐いていた気もするが、ろくな事は言ってないので聞き流しておく。
馬車置き場の方へ消えていったサマルを一瞥し、オレはクリスティアンを見上げた。
「助かったよ、クリスティアン」
「いえいえ。これも私の仕事でございます。さあ、皆様。手続きは済みましたので、どうぞ神殿へお入りください。私はここで皆様が無事に加護を賜られるのをお待ちしております」
穏やかに微笑み、クリスティアンはオレたちの背を押した。
神殿の中へ消え始めた先頭集団に続いて、オレたちも神殿の中へと向かっていく。
「ごめん、ユージーン」
「急にどうしたの?」
「巻き込んじまっただろ。お前は何の関係もないのに」
途中、どうしても気にかかってユージーンに声をかけた。
ハンスが何か言おうとしたが首を振って制止する。
――元はと言えばオレが招いた事だ。
オレといなければハンスがカイトたちに睨まれる事もなかったし、ユージーンを巻き込む事だってなかったはずだ。
(……ユージーンたちは本当に無関係だしな)
原作を考えると、今日のようにユージーンたちが面と向かってサマルと接触する事はなかったはずだ。
表情を曇らせるオレの肩をユージーンは軽く叩く。
「僕から見ても気分悪かったしね。それにどうせ没落手前なんだ。これで駄目になってもシャルルのせいだなんて思ったりはしないよ」
「ユージーン……」
あっけらかんと笑うユージーンに胸が締め付けられる。
何も言えずにいると、アンナとレフも〝気にしてない〟と笑ってくれた。
「そんなに言うなら、いざって時は雇ってもらおうかな?」
ユージーンが本当に何も気にしていないという風にさっぱりと笑う。
その言葉にオレも笑って頷いた。
・
・
・
「――バロッド」
カイトに名を呼ばれ、サマルはギクリと体を強張らせた。
人目のない場所と思ったのが裏目に出たらしい。
馬車置き場には誰もいないと踏んだサマルだったが、かえって鉢合わせたくない相手に追い詰められてしまったようだった。
(さっきの事が耳に入っていなければ良いが……)
目を合わせないように視線を落としてから息を呑む。
逃げ帰ったなどど知られれば、カイトからの信頼はガタ落ちだ。
それではこれまで積み重ねてきた努力が実を結ばない。
「……カイト様、私に何か?」
笑顔で答えるサマルの前で足音が止まる。
カイトは少し悩んだ素振りをした後に、サマルの顔を覗き込んだ。
両の目でサマルの顔をしっかり捉え、目を逸らす事は許さないというようにサマルの顎に手を伸ばす。
ガッシリ抑えつけられた細い顎は、下手に動いただけで粉砕してしまいそうだ。
「まさか俺の顔にまで泥を塗るつもりじゃないな?」
問われ、サマルは割れた歯列からヒューヒューと薄い呼吸を吐き出した。
「そ、そんな事、私はただ、あの生意気な連中を……」
「連中を?」
「懲らしめて…!懲らしめてやりたいのです…!」
骨が軋む痛みに構わずサマルは叫ぶ。
率直なまでのサマルの言葉にカイトは目を閉じ――笑みを消した。
「俺に同じ事を言わせる気か?」
ギリギリと悲鳴をあげる顎を懸命に動かし、バロッドは必死の思いで否定した。
「いえ!違い、ます!!ですから、あの平民を……!!」
「クッ、クク!ハハハハッ!」
「ぐっ…!!ううぁ……っ!!」
サマルを地面に突き飛ばし、カイトはひどく面白そうに笑った。
その笑みの意味をよく知るサマルは額に汗を滲ませる。
見上げれば、笑みの消えたカイトの顔が見下ろしていた。
「ミオンには手を出すな――その意味が分からないようだな、バロッド」
「私はただ……」
「あの平民をどうにかしてやりたいんだろう?だがあいつは今ミオンの犬を気取ってるんだ。その犬に手を出してミオンが黙ってると思うのか?」
「それ、は……カイト様の…仰る通りです」
「こういう時こそ冷静になるべきだろ、バロッド。俺は別に見逃せと言ってるんじゃない。好機を待てと言ってるんだ。お前はいつから待ても出来ない馬鹿になった?」
「…………っ…!!!!」
カイトの言葉にサマルは拳を握りしめた。
血が滲むくらい強く歯を噛み締め、ブルブルと体を震わせる。
それは恐怖からくるものではなく底のない憎悪だった。
「分かったら行け。今日はもう顔を見せるな」
「……かしこまり…ました」
ふらふらと立ち上がったサマルは震える手で土を払った。
浅く呼吸を繰り返し、やはりふらふらと他の生徒の中へと紛れていく。
そんな惨めな後ろ姿を見送ってカイトはぼやいた。
「だからお前はいつまで経っても代用品のままなんだ」
カイトから見てもサマルは哀れな男だった。
だからと言って同情をする気も、優しく手を差し伸べてやるつもりもない。
不要になったら捨てる、それだけだ。
「――野放しにしてよいのかしら?」
カイトの乗ってきた漆黒の馬車の中から声が響く。
少し高い位置から降ってきた愛らしい声に、カイトはふっと瞳を緩めた。
金の装飾が施された馬車には、デルホーク家の象徴である鷹のレリーフが刻まれている。
「構わない。どうせあいつには期待してないからな」
「まあ、本人が知ったらどれだけ怒り狂われるのでしょうね」
「それならそれで良い。その程度の器でしかないという事だ」
開け放たれた窓から覗くのはうら若き少女の姿だ。
長い金髪をギブソンにまとめ上げたその少女は、春を思わせる桜色の唇で妖艶に微笑んでいる。
レモン色の鮮やかでありながら落ち着きのあるドレスは、輝く金髪と調和して柔らかに煌めいた。
天を向く睫毛に彩られる瞳もまた金色だ。
「そろそろ時間よ、カイト」
眩い黄金に包まれた少女は、金の時計を見つめニイと笑う。
「あなたはこの国の剣の一振り。良い加護を賜る事も願っているわ」
「そう言われては気が重いな」
「あら、あなたらしくもない。カイトならどのような加護でも剣にふさわしいものに昇華できるはずよ。気負うなんて地の剣たるあなたがする事じゃないわ」
鈴の音をころころと転がすように少女は笑う。
その手を取って、カイトは純白の手袋に覆われた細い指に唇で触れた。
「空の衣が言うのなら、期待に応えねばならないな」
「ふふ、楽しみにしているわ」
金色に輝く少女に見送られ、カイトもまた神殿へと入って行った。




