208.ありがとう
「冗談じゃないわ、お断りよ。私はブラント以外とそんなことをする気はないの」
アナスタシアはきっぱりと断る。
よく自分から裏切った相手に対し、そのようなことを言えるものだと、理解しがたい。
「へえ、フォスターくんに操を立てているんだ。でもここは多分、精神世界だろうし、元の肉体には直接影響ないと思うよ。だから、例外っていうことで気にしないで」
「……そういう問題じゃないわ。あなたとなんて、お断りなの。私があなたのことを憎んで殺そうとしたこと、覚えていないのかしら?」
武術大会の控え室で、アナスタシアは確かにシンを殺そうとした。
魔力暴走がなく、あの場でシンを殺すことが可能だったのならば、殺していただろう。
「うーん……憎しみは愛情の裏返しって言うじゃないか。それだけの強い感情を向ける何かがあったっていうことだろう? 今じゃなくても、ずっと前のことでもいいけど、きみは僕のことが好きだったんじゃないの?」
シンの言葉に、アナスタシアは虚を突かれる。
裏切られ、恐怖と憎しみを抱いてきた相手だが、最初からそうだったかといえば、それは違う。
これまでずっと逃げることを考え、それが無理だとわかってからは立ち向かうことにしたが、行動基準となるほどにシンが重要な存在だったことは確かだ。
アナスタシアは今まで考える余裕もなく、蓋をしてきた自分の心に目を向ける。
「……今となっては、よくわからない。初めて自分のことを見てもらえたことで舞い上がっていたから」
素直に、アナスタシアは自分の思いを口にした。
当時、恋人になって嬉しかったのは本当のことだ。
だが、シンのことを好きだったのかと言われると、よくわからない。
正直なところ、自分を見てくれる相手だったら誰でもよかったのだろう。
そこに気付くと、アナスタシアは自分も利己的で身勝手だったことを思い知る。
笑い出したくなってしまうくらい、愉快だった。
手酷く裏切られたと思っていたが、それで自分の全てを失うくらい心を預けていただろうか。
言いなりになっていたことも、禁呪を連発して己の死を招いたのも、全てアナスタシアが選んだ結果のはずだ。
「……本当は利用するつもりだったとしても、あのときは本当に嬉しかった。自分には恋人なんて一生無縁だと思っていたから。王女として誰かに嫁ぐことになっても、政略結婚の駒として倉庫に押し込められるだけだっただろうし」
本当の自分の気持ちに気付くと、アナスタシアはシンへの恨みが薄れていく。
素直な言葉が口から出てくる。
「私ね、あなたにはとても感謝しているの」
「だったら……」
シンが何かを言いかけるが、アナスタシアはにっこり笑って遮る。
「死に際に、裏切ったことを突きつけてくれてありがとう」
本心からそう言うと、シンの表情が固まる。
シンがそのような表情を見せることは珍しく、アナスタシアはおかしくなってしまう。
「あのとき、何も知らないままだったら、中途半端な達成感を抱いて、不幸なまま死んでいたと思うの。きっと、過去に戻ることもなかった。全てを奪われた哀れなアナスタシアは、そのまま消えていたわ」
シンとジェイミーが、アナスタシアを絶望に追いやってくれたからこそ、今のアナスタシアがある。
おそらくは嫌がらせだったのだろうが、それがアナスタシアを救うことになったのだ。
「あの絶望があったから、私は過去に戻ってやり直すことができたわ。ブラントとも会うことができた。今、とても幸せなの」
ブラントと出会い、アナスタシアは前回の人生では想像もできなかったような幸福を手に入れた。
今の幸せが過去の絶望に支えられているのなら、絶望すら愛おしいくらいだ。
「ありがとう。そして、さようなら」
アナスタシアは心からの感謝を述べ、過去に区切りをつける。
目の前にいるシンは、過去の象徴だ。
今こそ、アナスタシアは過去の自分に別れを告げる。
「ちょっ……このままだと、きみだって……」
「あなたには、私なんかよりもっとふさわしい人がいるわ」
愕然としながら食い下がろうとするシンの背後を、アナスタシアは眺める。
先ほどから、ぼんやりとした気配を感じていたのだ。
すると、シンに黒い靄のようなものがまとわりついてきた。
「シンさま……見つけた……もう放さないわ……」
黒い靄はジェイミーの姿となって、シンに覆いかぶさる。
まさかジェイミーもここに飛ばされているとは思わなかったが、もしかしたら先ほどの死に際に、何かを願ったのかもしれない。
聖剣が近くにあり、無力さを痛感しながら強い願いを抱くという条件は満たしていたはずだ。
「地獄でもいい……ずっと一緒に……」
「や……やめろ! こいつと一緒に行く世界なんて、ろくなところじゃないだろ! もしかしたら、永遠に狭間をさまようかもしれないんだぞ! 冗談じゃない! 嫌だ! やめろ!」
まとわりつくジェイミーに対し、半狂乱になって喚くシンだが、ジェイミーは離れない。
「うふふ……ずっと……一緒に……」
「嫌だ! やめろ! 助けてくれ! 助けて……!」
狂気の滲む笑い声と、悲鳴を残しながら、二人の姿は消えていった。
愛の力で道を見つけたということだろうか。
どこに消えたのかはわからないが、おそらく二度と会うことはないだろうと、アナスタシアには妙な確信があった。
「さて……どうしたらいいのかしら……あら?」
一人取り残されたアナスタシアは途方に暮れるが、身に着けていたブローチが淡い光を放っていることに気付く。
母の形見であるブローチを手に取ると、アナスタシアの脳裏にセレスティア王家の霊廟が浮かぶ。
まるで、自分が空中から王家の霊廟を見下ろしているようだ。
そして、王家の霊廟にて祈りを捧げる、自分によく似た姿が見える。
一瞬、自分かとも思ったが、髪の色が違う。薄い金色の髪で、年齢も今のアナスタシアより少し上のようだ。
「……お母さま?」
アナスタシアがふと呟くと、祈りを捧げる人物が驚いたように顔を上げた。
目と目が合い、アナスタシアによく似た人物は、笑みを浮かべながら涙を流す。
その途端、アナスタシアは元の空虚な場所に引き戻される。
「今のは……」
一瞬の幻にしては、あまりも鮮やかだった。
アナスタシアが呆然としていると、何かが聞こえてくる。
「……ア……シア……アナスタシア……」
どうやらアナスタシアを呼ぶ声のようだ。
声の聞こえる方向が、淡い光に照らされていた。
この声がブラントのものだと気付いたアナスタシアは、光に向かって駆け出す。
どんどん光は強くなっていき、ブラント以外の声もいくつか聞こえるようになってきた。
やがて光に包まれ、アナスタシアの意識も光の中に溶けていく。
「……アナスタシア!」
アナスタシアが目を開けると、ブラントの心配そうな顔が間近にあった。
だが、アナスタシアと目が合うと、ブラントは泣きそうな顔で安堵を滲ませる。
どうやらブラントに抱きかかえられていたようだ。
ブラントの後ろには、エリシオンがいた。そのすぐ側にはメレディスとパメラがいる。
さらに、レジーナとホイルまでがいた。観客席にいたはずなのに、いつの間にか降りてきたらしい。
少し離れたところには、ベラドンナとグローリア、ララデリスの姿もあった。
元の場所に戻ってきたのだと、アナスタシアは安心感で力が抜けていく。
しかも、この顔ぶれを見る限り、意識を失ってから結構時間が経っているようだ。
今までアナスタシアに呼びかけてくれていたのだろう。
これまで築いてきた絆を表しているようで、アナスタシアの胸に熱いものが広がっていく。
ここが、これからもアナスタシアが生きていく場所なのだ。
「……ありがとう」
ブラントの腕の温もりを感じながら、アナスタシアは心からの笑顔を浮かべた。






