あの日が来た
四月七日、水曜日。
日付が変わってから、三十分ほどが過ぎた頃だった。
ベッドの上で本を読んでいた蓮司は、身体の奥にじわりと熱が広がるのを感じ、ページをめくる手を止めた。
「来たか」
熱があるわけではない。体調が悪いわけでもない。だが、この感覚は嫌というほど知っている。
女体化だ。
月代村の男は、新月の日を中心に約二十四時間、身体が女性へ変化する。見た目だけではなく、声も骨格も身長も体型も変わり、身体そのものが完全に女性になる。
ただし、人格や記憶、考え方まで変わるわけではない。
村では昔から、男に起こる当たり前の生理現象として扱われていた。蓮司にとっても今さら驚くようなものではないが、だからといって好きになれるわけでもなかった。
肩や腰のあたりに違和感が走る。少しずつ身体の重心が変わり、視線の位置も下がっていく。
痛みはない。だが、自分の骨格や筋肉の付き方まで変わっていく感覚は、何度経験しても気持ちのいいものではなかった。
寝巻きの袖が少し余り始め、耳には伸び始めた髪が触れる。喉にも違和感が出てきた。
完全に変わるまでには十数分かかる。始まってしまえば、途中で止めることもできない。
「……寝るか」
口から出た声は、すでに普段より高くなっていた。
起きていたところで、することはない。
蓮司は本を閉じて枕元へ置き、照明を消した。
◇
次に目を覚ましたとき、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
蓮司は枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
午前八時十二分。
今日は最初から学校を休む予定になっている。
上体を起こしたところで、寝巻きの上が妙に窮屈なのに気づいた。
「……やっぱり慣れないな」
声は完全に女性のものへ変わっていた。高すぎず、少し低めの落ち着いた女声だ。
寝ている間に女体化は終わったらしい。
蓮司はベッドを降り、鏡の前に立った。
百七十七センチあった身長は十センチほど縮み、百六十七センチほどになっている。髪は黒のままだが、男性時より少し伸びた短めのショート。前髪も普段と似た形のまま眉にかかっていた。
顔立ちには元の蓮司の面影がかなり残っている。それでも輪郭は細くなり、目元や頬、首筋も明らかに女性のものだった。
細身で引き締まった身体に、すらりと長い手足。全身のバランスも綺麗に整っている。
鏡の中にいるのは、自分とよく似た女の子だった。
何度も見てきた姿だ。それでも、この身体の感覚には慣れなかった。
何より今は、寝巻きが身体に合っていない。胸元が窮屈なうえ、布地が直接触れるのも落ち着かない。
「面倒だな……」
蓮司はクローゼットを開けた。
端には、この日のために用意してある女性用の衣類がまとめられている。東京へ来てから啓介たちが準備したものだ。
最初に渡されたときは複雑な気分だったが、実際に必要なのだから仕方がない。
女性用の下着を身につけ、その上からゆったりした部屋着へ着替える。
少しは落ち着いた。
ベッドへ戻り、まず父親である宗一へメッセージを送る。
『始まった。今は完全に変わってる』
間を置かず、返信が来た。
『こっちもだ』
『了解』
宗一も月代村の男だ。当然、同じ日に同じ現象が起こる。
次に啓介へ送る。
『おはようございます。今朝、完全に女性体になっています。今日は予定通り休みます』
こちらも程なく返事が来た。
『おはようございます。女体化の件、承知しました。学校にはこちらから連絡しておきます。外出は極力避けるようにお願いします』
『分かりました。よろしくお願いいたします』
学校には事情を知っている者がいる。とはいえ、クラスメイトにまで女体化を知られるわけにはいかない。
最後に沙耶へ送る。
『変わった』
ほとんど同時に既読がついた。
『おはよ。体調は?』
『普通』
『今日学校終わったら寄ろうか?』
蓮司は少し考えてから返信する。
『夕飯の材料があまりない』
『じゃ買ってく。何か食べたいものある?』
『任せる』
『りょーかい』
そこでやり取りは終わった。
蓮司はスマートフォンを枕元へ置き、そのままベッドへ倒れ込む。
入学してまだ三日目。昨日は拓海と昼を食べ、初めて通常の授業も受けた。
ようやく高校生活が始まったというのに、今日は朝から家にいる。
「本当に面倒な身体だな……」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
◇
午後七時を少し過ぎた頃、インターホンが鳴った。
モニターを見ると、スーパーの袋を両手に持った沙耶が立っている。
蓮司がオートロックを解除すると、しばらくして玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、沙耶は蓮司の姿を見て一瞬だけ黙った。
「……何だよ」
「いや」
沙耶の視線が頭から足元まで動く。
「何度見ても、普通に美人だよね」
「感想はいいから入れ」
「はいはい」
沙耶は笑いながら靴を脱いだ。
「買い物、一人で行ったのか?」
「ううん。学校帰りに友達とスーパーに寄ったの。ここまではパパが車で送ってくれたし」
「そっか。ならよかった」
買ってきたのは、鶏肉、玉ねぎ、卵などだった。
「何作るんだ?」
「親子丼。あと味噌汁」
「手伝うよ」
「ありがと。まあ、病人じゃないもんね」
「そもそも病気じゃない」
二人で台所に立つ。
蓮司が材料を切り、沙耶が炊飯と味噌汁の準備をする。朝からほとんど誰とも話していなかったせいか、学校の話を聞いているだけでも退屈が紛れた。
「今日、拓海が御影どうしたって聞いてきたよ」
「何て言った?」
「体調不良。先生もそう言ってたし」
「そうか」
「そういえば、剣道部どうだった? 拓海と行ったんでしょ?」
「ああ。打ち込みの迫力もよかったけど、その前の読み合いもよかった。それに防具もあるしな」
「防具? 見た目がかっこいいからとか?」
「違うよ。怪我しても目立ちにくい方がいいだろ」
「あー……それはそうか」
東京では村にいた頃ほどではないが、それでも蓮司は普通の人間より遥かに傷の治りが早い。だからこそ、人前で怪我をする方が厄介だった。
米が炊き上がる頃には、親子丼の具も味噌汁もできていた。
二人で向かい合って食べる。
「どう?」
「美味い」
「でしょ?」
「沙耶が全部作ったみたいに言うな」
「味付けしたの私だし」
「材料切ったのは俺だ」
「じゃ、合作ってことで」
蓮司はもう一口、親子丼を頬張った。
美味いものを食べていても、身体の違和感は消えない。椅子に座るときも、箸へ手を伸ばすときも、普段とは感覚が違う。
蓮司は小さく息を吐いた。
「やっぱり、この身体は慣れないな」
「何年もやってるんでしょ?」
「回数の問題じゃない。重心も違うし、歩幅も違う。いつもの感覚で動くと微妙にずれる。あと、自分の声の違和感がヤバい」
「まあ、声まで完全に変わるもんね」
沙耶が改めて蓮司を見る。
「見た目も完全に女の子だし」
「自分じゃよく分からないけどな」
「いや、普通にめちゃくちゃ美人」
「それはもう聞いた。俺としては、見た目より何より胸が邪魔なんだよ」
沙耶が味噌汁の椀を持ったまま目を上げる。
「邪魔って。貧乳気にしてる子が聞いたらブチギレるよ。私はそれなりにあるから別にいいけど」
「実際邪魔なんだから仕方ないだろ。腕を動かすときも気になるし、身体を洗うのもやりにくい」
「じゃあ、洗ってあげよっか?」
「絶対嫌だ」
「即答じゃん」
「当たり前だろ」
「背中くらいなら手伝えるのに」
「いらない」
「はいはい」
沙耶は楽しそうに笑った。
「何がおかしいんだよ」
「だって、その見た目でいつもの蓮司なんだもん」
「中身まで変わったら困るだろ」
「それはそうだけど」
沙耶はまだ笑っていた。
◇
食べ終わると、二人で食器を片づけた。
沙耶が最後の皿を水切り籠へ置き、手を拭く。
「じゃ、私帰るね」
「送らなくて大丈夫か?」
「大丈夫。パパが迎えに来てくれるって。もう着いたみたい」
「そっか。今日はありがとな。啓介さんにもお礼言っといて」
「分かった。身体に変なことあったら連絡してね」
「了解」
蓮司は玄関まで沙耶を見送り、扉を閉めた。
急に部屋が静かになる。
「さて……」
蓮司は着替えを持って浴室へ向かった。
シャワーの蛇口を捻り、水がお湯に変化する間に服と下着を脱ぐ。そして、全て脱ぎ終わる頃には、ちょうど良い温度に変わっていた。
蓮司はシャワーを浴び、髪や身体を丁寧に洗って行く。
ひと通り洗い終わると、後は流すだけだ。
シャワーの湯が、濡れた髪から顎先へと落ちていく。
目を閉じ、顔をわずかに上へ向ける。温かな水が頬を撫で、首筋を滑り落ちていった。
「はぁ……」
ため息とも、吐息ともとれる声が水音に紛れる。
蓮司は短い髪を両手で後ろへかき上げると、浴室にある鏡を覗き込んだ。
艶のあるスラっとした長い手足と、女性らしい腰のくびれ。豊かな胸元に、女々しい顔。
曇った鏡は、女性となった自分の姿をぼんやりと映している。
蓮司はしばらく動かなかった。やがて、鏡についた水滴を指で拭う。
ほんの一部分だけが鮮明になり、そこへ映った自分と目が合った。
「……村での当たり前は、当たり前じゃないんだな」
村から逃げ出して、数か月。
傷の治りが異常に早いことも、新月になると女の身体へ変わることも、蓮司にとっては当たり前だった。
けれど、東京へ来てから知った。
それは決して、外の世界での当たり前ではない。
あの夜、村に残ることを選んでいたら、一生気づかなかったのかもしれない。
◇
浴室を出た蓮司は髪を乾かし、女性用の下着を身につけ、部屋着へ着替えた。
あとはベッドの上で本を読み、元の姿に戻るのを待った。
日付が変わって少しした頃、身体の奥に再び熱が広がった。
「……ようやくか」
昨夜とは逆に、少しずつ視線が高くなっていく。肩幅が戻り、手足の感覚も普段のものへ近づいていった。
喉にも違和感が走る。
「あー……」
声が徐々に低くなっていく。
十数分後、身体に残っていた熱が引いた。
蓮司はベッドから立ち上がり、鏡の前へ向かう。
百七十七センチほどに戻った身体。短くなった髪。鏡に映っているのは、見慣れたいつもの自分だった。
「戻ったな」
聞き慣れた声に、蓮司は小さく息を吐く。
これで、朝になれば学校へ行ける。
蓮司は男物の下着に履き替え、歯を磨いてから照明を消し、布団へ潜り込んだ。




