青い水の向こうで(後編)
沙耶は膝の上のペンギンを抱き直した。
「……別に、蓮司が祝園さんに何かしたかったとか、そういうふうには思ってないよ」
「……うん」
「でも、悪気がなかったからって、すぐに気持ちを切り替えられるわけじゃないから」
「……そうだよな」
蓮司は沙耶へ向き直った。
「もう一回、ちゃんと言わせてほしい。嫌な思いをさせて、ごめん」
沙耶は少しの間、蓮司を見つめていた。
「……うん。分かった」
小さく頷いたものの、その表情はまだどこか真剣だった。
「それとね、もう一つ気になってることがあるの」
「何だ?」
「祝園さんのこと。あの子、月代村から来たんだよ?」
「……ああ」
「なら、警戒しなきゃいけない相手でしょ? 昔からの知り合いだからって、そんなに仲良くしなくてもよくない?」
蓮司はすぐには答えられなかった。
夏梨たちを警戒すべき理由なら、自分でも分かっている。
「祝園さんだけじゃないよ。黄桃さんと二人で話したときも思ったけど、あの子、普通に笑ってても考えてることが全然違うんだもん。育った環境もあるし、仕方のないことは分かってるけど……」
沙耶はそこで言葉を切った。
「でも、やっぱり私は彼女の考えは受け入れられない。祝園さんも、本当は何を考えてるか分からないよ」
以前、沙耶から秋穂と二人で話した内容を聞かされたことがある。
秋穂は、たとえ蓮司が結婚を断っても、諦めずに好きになってもらおうとするらしい。
蓮司としても、その考えには戸惑うばかりだった。
「……沙耶の言うことは分かる。俺も、夏梨たちを何でも信用していいとは思ってない」
「だったら……」
「でも、夏梨からの手紙、俺は毎回楽しみにしてたんだ」
沙耶は口を閉じた。
「学校で何があったとか、友達と何を話したとか。そういう何でもない話が、俺にはすごく面白かった。読んでるうちに、自分も学校に行ってみたいとか、友達と遊んでみたいとか、考えるようになったんだ」
家の中で過ごす毎日は、ほとんど変わらなかった。
届いた本を読み、決められた時間に勉強や軽い運動をする。そんな暮らしの中で、夏梨から届いた手紙を読む時間は特別だった。
「外に出たいと思った理由はほかにもある。でも、夏梨の手紙も、そのきっかけの一つだったんだ」
「……そんなに楽しみだったんだね」
「ああ。もし夏梨と文通してなかったら、父さんが迎えに来たとき、断ってたかもしれない」
「……え?」
沙耶が驚いたように顔を上げた。
「もちろん、実際どうしたかは分からない。でも、外の世界に興味を持ってなかったら、村を出る決心がつかなかったかもしれないんだ」
十四歳の秋、父から村を出ようと誘われたとき、蓮司は迷った。
生まれてからずっと暮らしてきた場所を離れ、何も知らない世界で生活する。
それは、簡単に決められることではなかった。
「もし村を出てなかったら、沙耶にも啓介さんにも会えなかった。拓海たちと友達になることも、今日こうして水族館に来ることもなかったんだよな」
沙耶は黙ったまま、蓮司の話を聞いていた。
「だからって、今の夏梨を無条件に信用するつもりはないよ。ただ、昔の手紙には感謝してるんだ。それだけは分かってほしい」
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
水槽の向こうでは、魚の群れがゆっくりと向きを変えている。
「……分かった」
沙耶が口を開いた。
「蓮司が祝園さんとの文通を大切にしてるのは分かったよ。昔のことまで否定するつもりはないから」
「……ありがとう」
「でも、警戒するのは約束して。祝園さんだけじゃなくて、黄桃さんたちにも。特に宮坂さんには気をつけてね」
「ああ。分かってる」
「それから……」
沙耶は少し言いにくそうに視線を逸らした。
「……あんまりイチャイチャしないでね。少なくとも、私がいるところでは」
「……イチャイチャ?」
「必要以上にくっついたりとか、そういうの!」
「……ああ。気をつけるよ」
沙耶はまだ何か言いたそうだったが、結局それ以上は何も言わなかった。
「……じゃあ、この話はおしまい」
「いいのか?」
「うん。ちゃんと謝ってくれたし、蓮司の考えも聞けたから」
沙耶が笑った。
その表情を見て、蓮司はようやく肩の力を抜いた。
「そういえばさ、今日のチケットってどうしたの?」
「ああ、拓海にもらったんだ」
「拓海に?」
「沙耶と話すきっかけにしろって、二枚くれたんだ」
「へえ……そんなことしてくれたんだ」
沙耶は少し驚いた様子だった。
「今度、お礼言わなきゃね」
「俺からも言っておくよ。……あ、そうだ」
拓海の名前を出したことで、蓮司は一つの約束を思い出した。
(……これも相談しておかないとな)
「実は、拓海のことで相談があるんだけど」
「何?」
「蓮奈とデートしたいって頼まれてて……」
「……はい?」
「俺が沙耶と結菜の二人とまた普通に話せるようになったら、蓮奈とデートできるようにするって約束したんだ」
沙耶は動きを止めた。
「……ちょっと待って。何でそうなるの?」
「拓海が仲直りに協力してくれるって言うから、断りづらくて……」
「だからって、デートを約束する!?」
「……俺も、約束してから後悔した」
「そりゃそうでしょ。だって蓮奈は――」
沙耶は途中で口を閉じ、周囲を見回した。
それから蓮司の方へ身を寄せ、声を落とす。
「……蓮司本人でしょ?」
「……そうなんだけど、拓海は姉だと思ってるから」
「だから、それが問題なんじゃん……!」
沙耶は呆れたように蓮司を見た。
「それで、どうするつもりなの?」
「まだ日にちも場所も決まってない。でも、約束した以上、断るのも悪い気がしてさ」
「……もう。ほんとに何やってるの」
沙耶は小さく息を吐いた。
「拓海は蓮奈の正体を知らないんだよ? 簡単に約束しちゃ駄目でしょ」
「……悪い。俺も、どうしたらいいか分からなくて」
拓海は蓮奈を実在する姉だと信じている。
約束を守るにしても、新月の日まで待つ必要がある。何より、正体を隠したまま友達とデートすることになるのだ。
拓海を騙し続けることにも抵抗があったが、今さらどう説明すればいいのか分からなかった。
「とにかく、実際に会うことになったら教えて。私も事情は知ってるんだから」
「ああ。頼むよ」
沙耶は小さく頷いた。
「……そういえば、結菜とはいつ仲直りしたの?」
「一昨日の放課後だよ。部活に行く前に話せたんだ。拓海と七海にも協力してもらってさ」
「……そうだったんだ。私、知らなかった」
「話す機会がなかったからな」
「……それは、そうだけど」
沙耶は少し気まずそうに視線を落とした。
蓮司もそれ以上は何も言わなかった。
結菜と仲直りしてからも、沙耶とはまともに会話できていなかったのだ。
「……まあ、結菜とも仲直りできたならよかったんじゃない」
「ああ。ありがとう」
沙耶は頷くと、改めて蓮司を見た。
「他にはまだ何かある? 嫌な予感するんだけど」
「ある。アルバイトに応募するかもしれない」
「……バイト?」
「結菜に誘われたんだ。アイスクリームの店で人を募集してるらしくて」
「……結菜と一緒に?」
「ああ。父さんと啓介さんには相談して、応募していいって言われた。まだ面接も受けてないけどな」
「パパまで知ってるの!?」
「こういうのは、先に許可を取った方がいいと思って」
「それはそうだけど……」
沙耶は何かを言いかけて、急に蓮司を見た。
「……そういえば、さっきから結菜って呼んでるよね?」
「そう呼んでほしいって言われたからな」
「……いつ?」
「仲直りしたときだよ」
「……へえ、そうなんだ」
沙耶はペンギンの頭を撫でながら、蓮司をちらりと見た。
(……また何か変なこと言ったか?)
「つまり、私が知らない間に結菜とは仲直りして、名前で呼ぶようになって、同じ店で働く話までしてたってこと?」
「……まあ、そうなるな」
「それで、拓海とは蓮奈としてデートする約束までしてるんだよね?」
「ああ……」
沙耶はしばらく黙っていた。
蓮司が何か声をかけようとすると、沙耶はペンギンを抱え直し、こちらを見た。
「……やっぱり、私が蓮司を見てないと駄目だね」
「……どうしてそうなるんだ?」
「だって、ちょっと目を離しただけで、知らない話がどんどん増えてるんだもん」
「……別に、隠してたわけじゃないぞ」
「分かってるよ。私が避けちゃってたんだし……」
沙耶は少し照れくさそうに笑った。
「……もう避けたりしない。これからは、そばにいるから」
「……ああ。よろしくな」
沙耶は満足そうに頷いた。
蓮司も思わず笑った。
「……さて、そろそろ行こっか」
「ああ。そうだな」
蓮司は預かっていたハンドバッグを持って立ち上がった。
沙耶も巨大なペンギンを抱え、隣に並ぶ。
「ねえ、蓮司。このあとも時間あるよね?」
「ああ。大丈夫だけど」
「じゃあ、お昼食べてから、もう少し付き合ってよ。行ってみたいところがあるんだ」
「もちろん。どこに行くんだ?」
「それはあとで教える!」
沙耶は楽しそうに笑った。
(……今日は誘ってよかったな)
蓮司は預かっていたハンドバッグを持ち直し、沙耶と並んで水族館の出口へ向かった。




