青い水の向こうで(前編)
土曜日の朝。
蓮司は約束の時間より少し早く、待ち合わせ場所の駅に着いた。
昨夜、沙耶に待ち合わせの場所と時間をメッセージで送ったところ、『分かった』と短い返事があった。それきり会話は続かなかったが、少なくとも今日は一緒に出かけられる。
(……何を話そう)
そんなことを考えながら改札前へ向かうと、少し先に見慣れた茶色い髪が見えた。
沙耶だ。
どうやら、彼女の方が先に来ていたらしい。
ただ、いつもの沙耶とは少し雰囲気が違う。
肩が少しのぞく黒の薄手ニットに、短めのデニムスカート。足元は白い厚底スニーカーで、薄手のカーディガンを片腕に抱えていた。肩に掛けた小ぶりのハンドバッグも、服装によく合っている。明るい茶髪は毛先をゆるく巻き、その先には淡いピンクが覗いていた。耳元では小さなピアスが揺れている。
沙耶がこういう少し大胆な服を好むことは、蓮司もよく知っている。それでも今日は、髪もアクセサリーも、いつも以上に気を遣っているように見えた。
(……気合い入ってるな)
何となく目を奪われていると、沙耶がこちらに気づいた。
「おはよう、沙耶」
沙耶は黙って頷いた。
「……行こうか」
蓮司が声をかけると、沙耶は隣に並んだ。
(……似合ってるな)
そう思ったものの、口に出すことはできなかった。
水族館へ向かう電車は、休日らしく家族連れや友人同士の客で混み合っていた。
二人は並んで座ったものの、会話はない。
窓の外を流れる街並みを眺めたり、車内の路線図に目を向けたり。蓮司は何度も話題を探したが、結局何も思いつかなかった。
隣の沙耶はスマートフォンをいじるでもなく、窓の外を眺めている。
電車が揺れて二人の肩が触れても、沙耶は離れようとはしなかった。
(……怒ってる、って感じでもないんだよな)
むしろ、何か言いたそうに見える瞬間さえあった。
けれど目が合うと、沙耶はすぐ窓の方を向いてしまう。
結局、水族館の最寄り駅に着くまで、二人の間にまともな会話はなかった。
改札を抜け、人の流れに沿って歩く。ほどなくして、水族館の入口が見えてきた。
蓮司は鞄から拓海にもらった二枚のチケットを取り出し、入口の係員に見せた。
確認を済ませて入場ゲートを通ると、外の明るさが嘘のように薄暗くなった。
青い光に照らされた水槽の中を、色鮮やかな魚たちが泳いでいる。
蓮司は思わず足を緩めた。
ガラスの向こうに、見たこともない形の魚がいる。細長いもの、平べったいもの、体が透けて見えるもの。魚の群れが一斉に向きを変えるたび、水槽に銀色の光が走った。
(……すごいな)
蓮司が水槽に近寄ると、沙耶も隣へ来た。
二人でしばらく見ていると、岩陰から小さな魚が顔を出した。沙耶がそれを指差す。
「……あれ」
「ん? ……ああ、いた」
魚はすぐに岩の奥へ隠れてしまった。
沙耶の口元が、わずかに緩む。
それだけのことなのに、蓮司はほっとした。
クラゲの展示では、青や紫の光を浴びた透明な体が、ゆっくりと水の中を漂っていた。
沙耶は水槽の前からなかなか動こうとしない。蓮司も急かさず、隣に立っていた。
今日になって初めて、沈黙がそれほど苦ではなくなった。
館内の案内板を見ると、イルカショーが間もなく始まるらしい。
「沙耶、これ見る?」
蓮司が案内板を指差すと、沙耶は頷いた。
「……うん」
二人は案内に従って、ショー会場へ向かった。
会場にはすでに大勢の客が集まっていた。二人は水しぶきの届かない後方の席に並んで座る。
やがて軽快な音楽が流れ、プールの水面からイルカが勢いよく飛び出した。
「おおっ……!」
思わず声が出る。
一頭が宙で体をひねって着水すると、続けて別のイルカが高く跳んだ。客席から大きな拍手が起こる。
沙耶も夢中になっていた。
イルカがボールを鼻先で押し上げたときには、目を丸くして身を乗り出す。数頭が揃ってジャンプを決めると、思わず両手を叩いて笑った。
その笑顔を見て、蓮司は安心した。
(……やっぱり、楽しんでくれてるんだな)
最後の大ジャンプで水しぶきが上がり、前方の客席から悲鳴と笑い声が響いた。
沙耶が蓮司の方を向いた。
目が合うと、何か言いかけたように唇を動かしたが、結局、笑みを浮かべただけだった。
蓮司も笑い返す。
言葉はなくても、さっき見たものを二人で楽しめた気がした。
ショーを見終えたあと、二人は館内のショップが並ぶ通路へ向かった。
その途中、ひときわ目立つ看板が目に入った。
『ペンギンぬいぐるみくじ』
棚には大きさの違うペンギンのぬいぐるみが並び、中央には、子供が抱えるのも大変そうな巨大ペンギンが鎮座していた。
(……でかいな)
足を止めた蓮司につられて、沙耶も看板を見上げる。
「一回、やってみようかな」
沙耶は少し驚いたように、蓮司を見た。
蓮司が代金を払って箱から一枚引き、店員に渡す。
店員は券を開くと、目を見開いた。
「おめでとうございます! 一等です!」
「……え?」
差し出されたのは、さっきまで棚の真ん中にいた巨大ペンギンだった。
黒と白の丸々とした体に、黄色いくちばし。両腕で抱えても、顔が横から大きくはみ出す。
(……本当に当たるんだ、これ)
蓮司が呆然としていると、隣の沙耶が肩を震わせた。
笑っている。
「……そんなにおかしいか?」
沙耶は口元を手で押さえたまま、首を振った。けれど、笑いはなかなか収まらないらしい。
久しぶりに見るその表情が嬉しくて、蓮司もつられて笑った。
「沙耶、これ、もらってくれないか?」
ぬいぐるみを差し出すと、沙耶はぱちぱちと瞬きをした。
「俺より沙耶の方が、こういうの好きだろ?」
沙耶は巨大ペンギンと蓮司を交互に見てから、そっと両腕を伸ばした。
「……ありがとう」
小さな声だった。
それでも、はっきり聞こえた。
沙耶はペンギンを胸元に抱き寄せる。大きなぬいぐるみに顔を半分隠しながら、頬を緩めていた。
ただ、大きなペンギンを抱えているせいか、肩のハンドバッグが少し邪魔そうだった。
それに気づいた蓮司は、沙耶へ手を差し出す。
「沙耶、バッグ持つよ」
沙耶は少し驚いたように顔を上げたあと、頷いた。
「……ありがと」
蓮司は沙耶が肩から外したハンドバッグを受け取った。
そのとき、持ち手に付いた小さな飾りが目に入った。
(……あれ?)
小さなクマのマスコット。
見覚えがある。
この前、遊園地の射的で蓮司が取って、沙耶にあげた景品だった。
(……付けてくれてたんだ)
あのときは何気なく渡しただけだった。それだけに、蓮司は少し嬉しくなった。
蓮司がマスコットに目を留めていると、沙耶は巨大ペンギンの陰に顔を隠した。
二人は再び展示エリアへ戻った。沙耶は巨大ペンギンを大事そうに抱えたままだった。
最後にたどり着いたのは、壁一面を覆うような巨大水槽だった。
青く深い水の中を、大きなエイがゆったりと泳いでいく。その下を魚の群れが通り過ぎ、底の方には大きな影が動いていた。
水槽の前には長いベンチがある。
沙耶がベンチに腰を下ろすと、蓮司も隣に座り、預かっていたハンドバッグを自分の膝の上に置いた。
沙耶はペンギンを膝に乗せ、両腕で抱えたまま水槽を眺めている。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ただ、今までの沈黙とは少し違っていた。
「……ねえ、蓮司」
先に口を開いたのは沙耶だった。
「ん?」
「……今日は、誘ってくれてありがと」
蓮司は思わず沙耶を見た。
「いや、こっちこそ。来てくれてよかった。……楽しかったか?」
「……うん。イルカ、すごかったね」
「ああ。あんなに高く跳ぶとは思わなかった」
沙耶が笑った。
「あと……この子も」
膝の上のペンギンの頭を撫でる。
「すごく嬉しい」
「ならよかった。持って帰るの、大変そうだけど」
「……それは蓮司も手伝って」
「もちろん」
久しぶりに沙耶と普通に話せて、蓮司はほっとした。
けれど、まだ伝えなければならないことがある。
蓮司は目の前を泳ぐ魚を見つめながら、口を開いた。
「……沙耶」
「……うん」
「オリエンテーションのこと、ちゃんと謝りたかった」
沙耶の指が、ペンギンの頭の上で止まった。
「夏梨と一緒に隠れたとき、さすがに距離が近すぎた。俺、見つからないことばっかり考えてて……沙耶が嫌な気持ちになるなんて、考えてなかった。ごめん」
沙耶はすぐには答えなかった。
大きなエイが、二人の目の前をゆっくりと横切っていく。
やがて、沙耶が息を吐いた。
「……分かってるよ。蓮司が、わざとやったんじゃないって」
「……うん」
「でもね……」
沙耶は膝の上のペンギンを少し強く抱きしめた。
「……私はすごくショックだった」
その声は静かだった。
蓮司は何も言わず、沙耶の次の言葉を待った。
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