一つの約束と、一つのお願い
結菜の返事を聞いて、蓮司は小さく息を吸った。
「……まずは謝らせてほしい。嫌な思いをさせて、ごめん」
結菜は少し黙ってから、口を開いた。
「……なんで、あんなことしたの? 私もよく抜けてるって言われるけど、御影君と祝園さんがしたことはさすがに……」
「……うん。今思えば、ちょっとおかしかったよな」
「ちょっと、かな……」
結菜は困ったように眉を下げた。
「だって、二人で同じマットの中に入ってたんでしょ? そんなにくっつかなくても、ほかに隠れる方法はあったんじゃない?」
「……あったと思う。でも、あのときは見つからないことしか頭になくてさ。夏梨がマットの間に隠れようって言ったときも、いい考えだと思ったんだ」
「……二人で入ることは、気にならなかったの?」
「……いや、近いとは思ったし、正直ちょっと落ち着かなかった。でも、どうしても見つかりたくなくてさ」
蓮司は少し間を置いて続けた。
「あとで拓海にも言われたよ。俺がどういうつもりだったかと、周りがどう感じるかは別だって」
「……中野君が?」
「ああ。正直、そこまでは考えてなかった」
結菜は何か言いかけたが、結局、小さく息を吐いただけだった。
「……御影君って、そういうところあるよね」
「……よく言われる」
「ふふ。そうなんだ」
少しだけ結菜の表情が緩んだ。
「でもね、私も何であんなに気になったのか、よく分からないんだ。御影君が何か悪いことをしようとしたわけじゃないって、分かってるんだけど……」
結菜は視線を落とした。
「なんか、嫌だった」
「……俺、そこまで気が回らなかった」
「だから昨日も、今日の朝も、どう話したらいいか分からなくて。避けちゃってごめんね」
「いや。俺の方こそ、ごめん」
結菜は小さく首を振った。
それから、少しためらうように口を開く。
「……ねえ、御影君。もう一つ聞いてもいい?」
「ああ。何?」
「この前転入してきた四人とは、どういう関係なの?」
蓮司は一瞬、言葉に詰まった。
「黄桃さん、御影君と結婚するって言ってたでしょ? 祝園さんとも仲がよさそうだし、宮坂先輩や水無瀬さんも御影君のことを知ってるみたいだし……」
「……ああ」
「同じ村の出身なのは知ってるけど、みんな御影君とどういう関係なのかなって」
(……やっぱり、そこは気になるよな)
秋穂は全校生徒の前で蓮司に抱きつき、その日の昼には将来の夫婦だと公言している。
普通に考えれば、事情を聞きたくなるのも当然だろう。
「まず、黄桃とは付き合ってないし、結婚の約束もしてない。あいつが勝手に言ってるだけなんだ」
「……本当?」
「ああ。そこは間違いない」
「……そうなんだ」
結菜は頷いた。
「それと、前に幼馴染だって説明しただろ? あれも正確じゃなかった。どう説明したらいいか分からなくて、適当なことを言ってしまったんだ」
「うん。黄桃さんが違うって言ってたから、気になってた」
「……ごめん」
「祝園さんは?」
「夏梨とは前から親しかったんだ。でも、俺にとっては友達だよ」
「……友達なんだ」
「ああ。オリエンテーションのときも、特別な意味があって一緒に隠れたわけじゃない」
結菜は小さく頷いた。
「じゃあ、宮坂先輩と水無瀬さんは?」
「……それは」
蓮司は口を閉じた。
胡春も美冬も、自分とは無関係の相手ではない。
しかし、四人が東京まで来た本当の理由を説明するには、月代村の事情を話さなければならない。
村での暮らし。男に課せられた役目。父とともに村を逃げたこと。そして、政府との取り決め。
どれも、簡単に他人へ話していい内容ではなかった。
「……ごめん。詳しいことは、今は話せないんだ」
「……どうして?」
「いろいろ事情があってさ。俺だけの問題じゃないから、勝手に話していいのかも分からなくて」
結菜は少し驚いたように目を見開いた。
「そんなに大変なことなの?」
「……まあ、そうだな」
蓮司は曖昧に頷いた。
結菜に隠し事をしたいわけじゃない。けれど、月代村のことを自分の判断だけで話すわけにはいかなかった。
「でも、いつか必ず話すよ。俺のことも、あいつらのことも」
「……本当?」
「ああ。いつになるかは分からないけど」
結菜はしばらく蓮司を見つめていた。
そして、小さく息を吐く。
「……そっか。分かった」
「……いいのか?」
「うん。気にならないって言ったら嘘になるけど、御影君にも話せない事情があるんだよね?」
「ああ」
「だったら、話せるようになるまで待つよ」
「……ありがとう。ちゃんと答えられなくて、ごめん」
「もう、謝りすぎだよ」
結菜は小さく笑うと、少しいたずらっぽい表情を浮かべた。
「じゃあ、待つ代わりに、一つだけ約束してほしいことと、お願いが一つあるんだけど……聞いてくれる? それでおあいこにしよ?」
「……何だ?」
「ふふ。そんなに難しいことじゃないよ。まずは約束の方なんだけど……」
結菜は少しだけ言いにくそうに視線を逸らした。
「これからは、佐藤じゃなくて結菜って呼んでほしいな」
「……結菜?」
思わず繰り返すと、結菜の頬がうっすら赤くなった。
「うん。それ」
「急にどうしたんだ?」
「沙耶ちゃんも七海も名前で呼ばれてるのに、私だけ名字のままでしょ。ちょっと寂しかったんだ」
「……ごめん」
「ふふ。別に怒ってないよ」
結菜が笑う。
「実は、前から言おうか迷ってたんだ」
「そうだったのか。分かった。これからはそうするよ」
「約束だよ?」
「ああ」
蓮司が頷くと、結菜は満足そうに微笑んだ。
「それじゃあ、次はお願い」
「何だ?」
「御影君、私と一緒にアルバイトしない?」
「……アルバイト?」
予想もしなかった言葉に、蓮司は聞き返した。
「うん。私、最近アイスクリームのお店でバイトを始めたんだ。ちょうど新しい人を募集してるから、どうかなって」
「アイスクリームか……」
「そう。接客したり、注文されたアイスを盛りつけたりするの。まだ覚えることはいっぱいあるけど、結構楽しいよ」
「そういえば、結菜ってアイス好きだったよな」
「うん。大好き!」
結菜が嬉しそうに頷いた。
「前にカラオケに行ったときも、ソフトクリーム食べてたもんな」
「覚えてたんだ」
「ああ。俺ももらったし」
あのときは、結菜にスプーンで食べさせてもらったのだった。
思い出したのか、結菜が少しだけ頬を染める。
「……そうだったね」
「でも、俺、接客なんてしたことないぞ」
「私だって初めてだよ。最初はちゃんと教えてもらえるから大丈夫」
「そういうものなのか?」
「うん。それに、御影君ならすぐ覚えそうだし」
「……どうだろうな」
「ふふ。少なくとも、真面目にはやってくれそう」
結菜はそこで少し言葉を切った。
「それに……御影君と一緒に働けたら、楽しそうだなって」
最後の言葉だけ、少し声が小さかった。
蓮司は顎に手を当てる。
(……アルバイトか)
考えてみれば、東京へ来てから一度も働くことを考えたことがなかった。
今住んでいるマンションも、毎日の生活費も、すべて政府が用意してくれている。
もちろん、その費用には税金が使われているはずだ。
(……いつまでも頼りきりっていうのもな)
バイト代だけで生活できるわけじゃない。でも、自分で少しでも稼げるのは悪くない。
何より、自分で働いてお金を稼ぐというのが、今の蓮司には魅力的に思えた。
ただし、気になることもある。
(……問題は、村の人たちか)
学校以外にも決まった行き先ができれば、村の人々に行動を把握される可能性がある。
けれど、店で働くなら、周りには店員も客もいる。そんな場所なら、さすがに簡単には手を出せないはずだ。
それに、村側はわざわざ四人を学園へ転入させてきたのだ。
最初から力ずくで連れ戻すつもりなら、そんな回りくどいことをする必要はない。
(……やってみたいな)
蓮司は顔を上げた。
「……ちょっと興味ある」
「本当?」
「ああ。でも、すぐには返事できない。親と相談して、問題がなければ応募してみたい」
「うん! それでいいよ!」
結菜の表情がぱっと明るくなった。
「まだ面接に受かるかも分からないけどな」
「面接のことなら、私も少しは相談に乗れるよ」
「頼もしいな」
「ふふ。一応、私の方が先輩になるんだからね」
「そういえば、そうなるのか」
「そうだよ。ちゃんと仕事を教えられるように頑張らなきゃ」
「……俺が働き始める頃には、結菜も慣れてるといいな」
「もう! そこは任せてって言わせてよ」
結菜が笑いながら言い返す。
「ははっ、ごめん」
蓮司も思わず笑った。
ようやく、いつもの調子で話せるようになった。
ほんの少し前まで、結菜に避けられていることが辛かったのに、今はそんなことが嘘のようだった。
「……今日はありがとう、結菜」
「……うん。あ、そろそろ部活の時間かな」
蓮司はポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確かめた。
「そうだな。じゃあ、拓海たちのところに戻るか」
「うん!」
二人が戻ると、少し離れたところで待っていた七海と拓海がこちらを見た。
結菜が笑っているのを見て、七海もほっとしたように表情を緩める。
拓海は蓮司に向かって、得意げに親指を立てていた。
(……本当に助かったな)
今度、改めて礼を言おう。
そう思ったところで、蓮司はふと沙耶のことを思い出した。
結菜とは、また普通に話せるようになった。
けれど、沙耶とはまだまともに会話ができていない。
(……沙耶とも、早く元どおりになりたいな)
「じゃあ、俺たちは部活に行くから」
「うん。また明日、いっぱい話そうね」
「ああ。もちろん」
蓮司は結菜たちに手を振り、拓海と一緒に剣道場へ向かった。
◇
「……よかったね、結菜」
隣を歩く七海に声をかけられ、結菜は小さく頷いた。
「うん。ちゃんと話せた」
「もう大丈夫そう?」
「……うん。多分」
結菜はそっと胸元に手を当てた。
祝園夏梨と蓮司が二人で同じマットに入っていたと聞いたとき、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。だからあのような態度をとってしまった。
けれど、さっき初めて『結菜』と呼ばれたときは、胸の奥がふわりと温かくなった。
たったそれだけのことで、嬉しくて仕方がなかった。
(もしかして……私、御影君のことが……)
そこまで考えて、結菜は自分の頬が熱くなるのを感じた。
「結菜? どうしたの?」
「な、何でもない!」
「……顔、赤くない?」
「き、気のせいだよ!」
慌てて否定すると、七海は何かを察したのか、にんまりと笑った。
結菜はもう一度、蓮司が歩いていった方へ目を向けた。
胸の奥に浮かんだ答えを、まだ声にはできなかった。
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