女神たちへの賛美・前編
五月六日、木曜日。
ゴールデンウィーク明け最初の登校日だったが、蓮司は学校を休んでいた。
今日は新月だ。
深夜に始まった身体の変化はすでに終わり、身長も声も身体つきも、すっかり女性のものになっている。
女体化は何度も経験しているが、重心や歩幅など、身体の感覚には今も慣れない。それに東京では、この姿を知り合いに見られるわけにもいかない。学校には啓介から欠席の連絡を入れてもらっていた。
午後九時を少し過ぎた頃、スマートフォンが鳴った。
画面には「高橋啓介」の文字。
「はい」
『こんばんは、蓮司君。こんな時間にすみません。急ぎでお話ししたいことがあるんです』
「今からですか?」
『ええ。宗一さんにも来てもらうことになっています』
父親の宗一まで呼ばれている。
それだけで、ただ事ではない気がした。
「分かりました。すぐ行きます」
『いえ、部下が車で迎えに行きますので、それまでは家で待っていてください』
「あ、はい。ありがとうございます」
『それでは、後ほど』
通話が切れた。
高橋家までは歩いて十分もかからない。それでも車を寄越すのは、以前、啓介から不用意に一人歩きしないよう注意されたからだろう。
蓮司はクローゼットを開け、女性体用に用意されている服の中から白いブラウスと紺色のパンツを選んだ。
派手なものではない。外へ出るだけなら十分だろう。
財布とスマートフォンを持ち、迎えを待つ。
けれど、昼間からずっと家にこもっていたせいか、どうにも落ち着かなかった。
(エントランスの前で待つくらいなら、いいか)
蓮司はエレベーターで一階へ降り、オートロックの扉を抜けた。
マンションは大通りに面していて、夜でも人通りがある。エントランスの外で待っていると、妙に視線を感じた。
通り過ぎた男が振り返る。
自転車を押していた若い男も、こちらを見てからもう一度目を向けた。近くのコンビニの前にいた二人組まで、話を止めてこちらを見ている。
(……そんなに目立つのか、この姿)
これまでは、変化している間はほとんど室内で過ごしていた。人通りのある場所に出ると、こんなに見られるものらしい。
「見すぎだろ……」
つい普段の声で呟いた、そのときだった。
「ねえ、お姉さん」
横から声をかけられた。
二十歳前後に見える男が立っている。明るい髪にピアス。服装も派手で、どこか軽そうな雰囲気だ。
「今、一人?」
「……迎えを待ってるので」
「じゃあ、それまでちょっと話そうよ。近くで飲まない?」
「未成年です」
「え、マジ? もしかして……高校生?」
「そうです」
男は改めて蓮司の顔を見た。
「嘘!? 全然見えねえ。ていうか、めっちゃ綺麗じゃん」
褒められても、ちっとも嬉しくない。
「すみません。人を待っているので」
「じゃあ、連絡先だけでも教えてよ」
「嫌です」
「そんな警戒しなくてもさ」
男は引く様子がなかった。
力ずくで退かそうと思えば、おそらく簡単だ。女性体の今は、村の外でも普段より少し身体能力が高い。
ただ、こんなところで騒ぎを起こせば面倒になる。
どうするか考えた、そのときだった。
「その人、困ってるじゃん」
聞き覚えのある声がした。
男の向こうから歩いてきたのは、同じクラスの友人、中野拓海だった。
学校の制服姿で、手にした袋からはファミレスの制服が少し覗いている。たぶん、バイト帰りなのだろう。
(……拓海!?)
助かった。
いや、助かったのか?
今、一番顔を合わせたくない相手の一人でもある。
「嫌だって言ってるんだから、やめた方がいいですよ」
「あ? 別に何もしてねえよ」
「なら、もういいでしょ」
拓海は喧嘩腰になることもなく、二人の間へ入った。
男はしばらく拓海を睨んでいたが、やがて舌打ちして歩き去っていく。
その背中が離れたところで、拓海が振り返った。
「大丈夫ですか?」
「ああ、平気――」
反射的にいつもの口調が出かけ、蓮司は慌てて言い直した。
「……大丈夫。ありがとう」
「あ……い、いえ!」
拓海の視線が蓮司の顔に止まる。
(頼むから気づくなよ……)
「……どうかした?」
「い、いえ! その……すごく綺麗な人だなって。あっ、変な意味じゃないです!」
「そ、そうなんだ」
どうやら、正体には気づいていないらしい。
「この辺の人ですか?」
「うん。今、迎えを待ってるところなの」
「そうなんですね。じゃあ、来るまで一緒に――」
拓海が言いかけたところで、一台の黒い乗用車がマンション前の車道に停まった。
運転席からスーツ姿の若い男性が降りてくる。
「お待たせしました」
男性は蓮司へ軽く頭を下げた。名前を呼ぶことも、余計な事情を口にすることもなかった。
「ありがとうございます」
蓮司は拓海へ向き直った。
「迎え、来たみたい。さっきは本当にありがとう」
「あ、はい。気をつけて帰ってください」
「うん。じゃあね」
車の後部座席に乗り込み、扉が閉まる直前にちらりと歩道を見た。
拓海はまだこちらを見ていた。
(……次に学校で会ったら、変な話になってないといいけど)
車が走り出し、ようやく蓮司は息を吐いた。
「まさか部屋から出ているとは思いませんでした」
運転席から声がした。
「すみません。ちょっと落ち着かなくて」
「そうですか。まあ、急ぎなんて聞いたらそうなるのも分かります」
男性はそこで一度言葉を切った。
「申し遅れました。大原純也と申します。高橋の部下です」
「御影蓮司です。迎えに来てくれて、ありがとうございます」
「いえ、仕事ですから。……ただ、私からは謝っておかなければならないことがあります」
「謝ること、ですか?」
「四月十七日の件です。私はその日、高橋たちと一緒に月代村へ行っていました」
「大原さんも月代村に行ったんですね」
「はい。高橋と、もう一人の部下、それに私の三人で」
四月十七日。
配信者の引き渡しと引き換えに、蓮司の転校や退学を禁じる約束が村との間で取り決められた。
大原はそのことで後ろめたさを感じているようだ。
「人質を取られていたとはいえ、お二人には不利な約束を受け入れさせることになりました。本当に申し訳ありませんでした」
「……あのタイミングで動画配信者が村に入り込んで、捕まるなんて。運が悪かったんですよ」
「……運ですか」
大原は何か考えるように、わずかに言葉を切った。
「高橋から詳しい説明があると思います。おそらく、運の良し悪しでは説明がつかないことも聞かされるでしょう」
「説明がつかないこと? それってどういうことですか?」
「すみません。この件については高橋が直接お話しします」
「……分かりました」
蓮司も、それ以上は聞かなかった。
窓の外には見慣れた街並みが流れている。高橋家までは、車ならすぐだ。
それなのに、今夜はずいぶん遠くへ連れていかれるような気がした。




