7-2-1/2 46 入院
喜歩はベッドの上で目を覚ます。
その視界には、無機質な白い天井が広がっていた。
「ああ、喜歩……。気がついたのね」
1人の女性が喜歩を見下ろし、安堵の表情を浮かべている。
「あ……」
女性と目が合う。
「かーさん……?」
上体を起こすと、意識が少しずつ明瞭になっていくようだった。
それと同時に吐き気が込み上げて来る。
「うぇっ……」
眉を潜め口元に手を当てる。
「だ、大丈夫喜歩? まだ気分悪いの? 無理しない――」
「大丈夫だから! ……ちょっとだけ、触らないでもらえる?」
喜歩は舞から目を逸らし、手で彼女を制した。
「そう? 大丈夫ならいいけど……」
喜歩の素っ気ない態度に、舞は少し悲しみを覚えた。
しかし喜歩にとって、現在母が最もそばにいて欲しくない人物だった。それは湧き上がる嘔吐感が、昨晩交わした口付けに起因するものだったからである。
そして口付けの記憶を発端に、ここに至るまでの出来事が徐々に蘇って行く。
輪奈に謝る決意をしたこと。
父に宛てた手紙を書いたこと。
柳織研へ向かうバスでその手紙を読み返したこと。
正門前で活動するデモ集団に口角泡を飛ばしたこと。
その結果手紙を奪われ、取り返そうとして払い飛ばされてしまったこと。
思い出せたのはそこまでだった。
「いっ……」
右頬辺りに強烈な痛みが走った。
咄嗟にその場所へ手を持って行く。
そこは何か、ツルツルとしたもので保護されているようだ。
「あ、だめよ、あんまり触っちゃ。2針縫ってるんだから……」
「2針? もしかして……ここって病院?」
顔を打ち付けた時に出来た傷は、思いの外大きかったようだ。
「ええそうよ。柳織研の病棟。喜歩は脳震盪起こして気を失っていたみたい……。大丈夫。今晩何もなければ明日の午後には退院出来るみたいだから」
喜歩は出生こそ特殊なものだったが、生まれてからこの方大きな怪我や病気をしたことは無かった。さぞかし母には心配をかけたことだろう。
「ごめんなさい……。やりすぎました……」
喜歩はぺこりと頭を下げた。
アンチ集団に立ち向かった事自体を過ちだったとは思いたくないが、さすがに行動としては無謀過ぎた。
「まあ、これで済んだのだからいいわよ。十分痛い目には遭ったみたいだし。それに……お父さんのために立ち向かってくれたのよね?」
「うん。手紙にもそうやって……。あっ!」
喜歩が取り落とした手紙は、あの後どうなったのだろう。拾い上げた男に見られて良い物ではない。
「喜歩を殴った男は捕まったわ。傷害罪の容疑で現行犯逮捕。喜歩に引っ掻かれたって主張したみたいだけど、正当防衛が認められるほどのものじゃ無かったようね」
「そう……。じゃあ明日退院した後、父さんに会えるかな? もちろん、おばあちゃんにも」
顔の傷は痛むが、怪我に起因する気分の悪さは無い。この分なら予定通り退院も出来るはずだ。今後のことを前向きに考えた方が、精神衛生的にも良いだろう。
「……」
それにもかかわらず、舞は何も答えない。
「母さん?」
母に対する不信感が芽生え、喜歩の眉間にしわが寄る。
「……喜歩の手紙、警察に押収されたわ」
喜歩の圧に耐えきれず、舞は口を開いた。しかし喜歩の問いに対する答えになっていなかった。
「え?」
意外な返答に喜歩は首を傾げた。
しかし、次第に事の重大さが見えてくる。
あれは警察にも見られて良い物では無いのだ。
喜歩の額から大粒の汗が滲み出す。
「なんで?」
法的に存在の許されないRNT02へ、その息子だとする者が書いた手紙である。それは輪奈が遺伝子操作規制法に違反したことを示す重大な証拠となる。
「調査のためよ。男の犯行動機とかを調べるための」
「あー……」
手紙を押収するのに納得のいく理由だとは思った。
輪奈の逮捕が目的では無かったようだが、ひとまず安堵して良いのだろうか。
「安心して。調査が済んだら返してもらえる。退院には間に合わないだろうけ――」
「そういう問題じゃ無い!」
安堵して良い訳が無かった。
警察の目的が何であれ、手紙の内容に目を通されることに変わりは無いのだ。
「静かにしてね喜歩。ここは病室よ。それに大声を出すと傷に障るわ」
「でも……。ぐっ!」
舞の指摘する通り、縫った痕に鋭い痛みが走る。
「喜歩、落ち着いて聞いてね」
喜歩は観念して頷く。
「おばあちゃん、喜歩が正門で言い争っているのを見て、すぐに警察を呼んだみたいなの」
「そう、だったんだ……」
喜歩のアンチB3Pに対する激昂は見られてしまっていたらしい。輪奈へ謝りに来たのに、余計に気苦労をかけてしまったようだ。
「もう少し早くパトカーが来れば、喜歩が殴られることも無かったんだろうけど……」
「それに関しては俺が悪いよ」
喜歩が傷ついたことに、輪奈が気に病んでいなければと思う。
「救急車は呼ぶまでもなく喜歩は病棟へ運ばれたわ」
喜歩の中で情けない気持ちが膨れ上がっていく。当然だが、ここに至るまでに多くの人間を巻き込んでしまったのだ。




