6-2-1/2 39 漁師の能登
喜歩らが能登のアパートへ辿り着いたのは15時頃だった。それは海沿いにある集落の、寂れた一軒の建物だった。
駅からバスで15分程度の距離に位置していたものの、往路も復路も1時間に1本しかバスの運行はない。
車中で揺られながら、能登がいなかったらどうしよう、帰りが遅くなったらまた叱られるなどの不安はよぎった。しかし目的地に近づく度、今後の人生においては必要なことなのだと、決意が固くなっていくのを感じた。
アパートの2階へ登り、能登がいるはずの部屋の前に立つ。そして人差し指を掲げて大きく息を吐く。指先は震えていた。そのまま身を固めてしまう。
「押さないの?」
喜歩の横から天貴が身を乗り出し、無遠慮にチャイムを押そうとする。
「わー!! 俺が押すから! 俺の問題だからぁ!!」
ピンポ~ン……
天貴の勢いに押され、場違いにも間の抜けた音が響き渡る。
10秒、20秒。
中から返事もないまま1分程度時間が経過した。
「居ないのかな?」
「どうだろう……。居ないならもう少し待って――」
「なんだい君たちは?」
背後から男の声がする。喜歩は慌てて振り返った。
男の身長は170 cmほど、顔は日焼けで赤銅色を帯び、頬から顎にかけて無精髭を蓄えている。
濃紺の作業着は海水で白く塩を吹き、所々に魚の鱗が光っていた。右の手に提げられたビニール袋から青魚が顔を出し、もう一方の手に握られた道具箱には錆びたナイフが無造作に突っ込まれている。
履物の長靴も相まって、一目で漁師だと分かる風貌だ。
「の、のとけーぶさんですか!?」
現在の能登の風貌と職業までは調べがついていない。しかしここまで来たからには腹を括るしか無かった。
「……能登慶武は私だが、君たちは?」
厳つい見た目には反して優しそうな声である。
喜歩はほっと息をつく。
「和戸喜歩と言います。その……」
果たして何と自己紹介すべきなのか、咄嗟の判断に迷いが生じた。
「わど、きほ……?」
能登は記憶を探るように、頭上の辺りに視線を泳がせる。
「彼は久世輪奈さんのお孫さんです。僕はその友達の保院天貴と言います」
喜歩を見かねたのか、元からそういう人柄なのか。天貴は臆すること無く声を発した。
「久世輪奈さん!? それにお孫さんって……」
能登は目を皿のようにする。驚くのは当然のことだろう。
「一体……、どうやってここへ?」
「の、のとさんが祖母に書いた手紙から……」
「ああ……」
「あ、あの。突然押しかけて来てごめんなさい! でも、少しだけお話を聞きたくて……」
気分を害さなかっただろうかと、自然と声がか細くなる。
「いや、むしろよく来て下さいました。狭い部屋ですが上がって行ってくれませんか?」
喜歩の返事を待たず能登は玄関扉を解錠する。それを大きく開け放ち、喜歩と天貴を中へと誘導した。
2人は小さく会釈をして、その部屋へと足を踏み入れた。
――――――――
能登の住まいは、6畳のベランダ付きワンルーム物件のようである。部屋の中央には1台の卓袱台が置かれ、隅の方には1組の布団が畳まれていた。
一通り部屋を見渡してから、さすがに不用心だったかと気づく。対する能登も不自然なほど簡単に迎え入れてくれた。
状況だけ見れば、中年男性の自宅に中学生男子が2人連れ込まれたことになる。
しかし喜歩は能登の誠実さを信じたかった。むしろ懸念すべきは、能登が非ぬ疑いをかけられてしまうことである。
幸いにもここでの目的は明確になっている。あまり遅くなる前に話を済ませて退散するのが賢明だろう。
「お茶で良かったですか? 私の茶など飲めないというのなら無理にとは言いませんが……」
「い、いえありがとうございます。いただきますっ!」
能登は喜歩と天貴に卓袱台の側へ座るように促すと、自身は流し台へと向かう。
一連の所作において能登は常に猫背気味で、誠実を通り越して卑屈な印象を受けた。
なるべく刺激しないように心がけようと思う。
天貴は興味深げにベランダの方を眺めていた。その視線の先を追うとイカが干してあることに気づく。あまりなじみのない光景に、自給自足とはこういうものかと関心する。
やがて能登は、湯気の立つ湯呑みを左右の手に1つずつ持ってやって来る。2つの湯呑みには大きさも形も統一感がない。やや大きい方を喜歩の前へ、小さい方を天貴の前へ置いた。
そして流し台へと踵を返すと、今度は茶碗を持ってやって来る。湯呑み同様に湯気が立っている。
茶碗を卓袱台の空いた場所に置くと、能登はその前へとおもむろに正座した。喜歩はあぐらをかいていたが、能登の振る舞いを目の当たりにして慌てて姿勢を正そうとした。
「あ、どうか気にせず楽にして下さい」
能登は慌てて喜歩を制した。
「は、はい……。ではお言葉に甘えて……」
能登に対しては気を遣わないことが気遣いになりそうだ。




