5-4-1/2 35 手紙
五味との話を終え、学習塾から柳織駅まで伝田に案内してもらうことになった。
当てもなく見知らぬ場所まで走ったにも関わらず、こうして知人と会えたのは幸運だと言う他ない。
伝田への好意を自覚してしまってからというもの、彼女のことが3割ほど増して可愛く見えた。
しかしそのせいで何を話せば良いのか分からず、会話を楽しむ余裕のない帰路になってしまった。
「で、でんたさん?」
駅前に到着し、喜歩はようやく声をかける。
「ひゃ、ひゃい!?」
伝田の高い声が跳ね上がる。少なからず伝田も意識してくれているようだ。
「俺、輪奈さんのところに戻らなきゃ。ここから先は分かるから」
「そ、そうなんだね。わ、わたしはこのまま帰るね。バイバイ!!」
喜歩の目も見ようとせず、改札口へと駆けていく。
ところが自動改札機の前で足を止め、くるりと振り返る。喜歩へのサービスのつもりなのか眼鏡は外していた。
「喜歩くん! おばあちゃんと仲良くね!」
笑顔で手を振ってくる。
「う、うん……」
呟くように返事をして、小さく手を振り返した。
それでも伝田は満足したようで、踵を返して改札機の向こう側へと消えていく。
「あ、裸眼じゃ俺の顔見えてないのか……」
それが伝田の照れ隠しのつもりだとしても、ポジティブに受け取っておこうと思った。
――――――――
「お、ばあちゃん……」
輪奈の家の玄関扉を開き、ためらいがちに呼びかける。
しかし返事は無い。それどころか人の気配も無い。
恐らく舞と輪奈は喜歩の捜索に向かったのだろう。よほど焦っていたのか、戸締まりもされていなかった。
喜歩は罪悪感を覚えつつも、顔を合わせずに済んだという安堵もあった。
祖父、と呼ぶべき存在は喜歩が5つの時に亡くなった。以来輪奈は1人でこの家に暮らしている。
と言っても、仕事とRNT02の世話のため家に居る時間も短いようであるが。
よって喜歩がこの家で過ごした思い出はあまり多く無かった。
マンション暮らしの喜歩にとって、2階建ての1軒家は大きな家だと感じる。入ったことのない部屋もいくつかある。
そこには喜歩の知らない輪奈の新たな一面が眠っている可能性もあるはずだ。例えば生前の輪太との思い出など。
科学者としての輪奈には畏怖の念を覚えた。
しかし五味が漫画愛好家である事実を地階へ眠らせていたように、人の個人的な一面は普段表に出さないところにあるのかもしれない。
この機会に輪奈の家を探検するのも一興だ。輪奈を祖母であると再確認するきっかけを見つけられる可能性もある。
後で叱られたとしても、気まずい状態が続くよりずっと良い。
手始めに1階を練り歩いてみる。
しかしなんということはない。数時間前に話をしたリビングの他、生活の礎となる台所や風呂にトイレ、寝室に使っているであろう和室があるぐらいだった。
喜歩は玄関方面へ引き返す。
そしてその近くにある階段へと足を踏み出し、2階へと上がった。
階段を登りきった先には廊下があり、そこから3つの扉と繋がっている。
手始めに一番近くの部屋のドアを開いてみた。
その部屋の中で最初に目に入ったのは1台の勉強机だった。机の上には少し乱雑に、筆記用具や分厚い本の類が積まれている。
本の内、一番上に積まれていた1冊を手に取ってみた。するとずっしりとした重さが腕に伝わって来る。
『海洋生物学』
それが本のタイトルだった。
色褪せてはいるが、表紙には青い海の中で群れるイワシの写真が掲載されている。
本を翻して裏表紙を見る。こちらの面は光焼けが進んでいないようだ。
『水産学部 海洋生物学科 久世輪太』
父親だと教えられて来た人物の名前が、黒い油性ペンで記されていた。
察するに生前通っていた大学の教科書のようだ。この部屋も輪太の勉強部屋ということだろう。
またその教科書の下には、海洋生物の図表が重ねて置かれていたようだ。
図表の表紙は教科書より一回り大きく、教科書が重なっていた部分とそうでない部分とで、色褪せ具合によりコントラストを作っている。その様子が長い年月の経過を物語っていた。
輪太は大学時代に命を落としたはずだ。輪奈の気持ちを考えれば、その当時の状態を今日に至るまで保存しようという動機も理解できる。
教科書の角を図表に刻まれたコントラストに合わせるように重ねて置き、喜歩はその部屋を後にした。




