第一章《動き出した物語(セカイ)》 4
「――ぅん、ん? ここは……」
額に心地の良い清涼感と柔らかな布の感触を感じながら、勇輝の意識は形を取り戻した。
「どこだ、ここ――痛っ!」
反射的に身を起こそうとすると身体中に無数の針を突き刺したような激痛。無理をすれば動けないほどではないが相当厳しい状態のようで、どうやら無理に動くのは肉体的にも精神的にもよろしくなさそうだ。
仕方がないので出歩くことは断念し、首だけを動かして視線を巡らす。
その部屋の印象は古びた洋館の一室を彷彿とさせるものだった。少し大きめの窓には白いレースのカーテンがかけられ、床の上に敷かれたカーペットは妙に可愛げのあるデザインだったが、どこかこの部屋の雰囲気に馴染んでいる。
「ここ、誰かの部屋? 俺は、一体どうして……」
現在に至る顛末を思い出そうと勇輝が自らの記憶へと手をかけた瞬間、不意にドアノブを捻る音が部屋に響く。振り向くと、暗い視界の中でもわかるほどに美しい銀糸の束が映り込んできた。
「――あ。よかった、目が覚めたんですね」
その銀糸が一人の人間の髪であると気付いたのは、心の底から安心したかのような温かな声を耳にしてからだった。
澄み切った青空のような瞳はまるで宝石のようで、腰まである長い銀髪は白雪の結晶を連想させる。
本当に、絵に描いたような美少女がそこにいた。
「君は……」
「無理に動かないでください。治療が済んだのはついさっきなんですから」
そう言って、身体を起こす手伝いをしてくれた少女は気絶する前に森で出会ったあの少女だった。
「ありがとう。無事だったんだな」
「ええ。勇者様のおかげで助かりました。ありがとうございました」
一見して怪我がなさそうな少女に安堵しつつも、勇者という単語に勇輝はこそばゆさを感じた。
「勇者って……俺はそんなものじゃない。そんな大層な呼び名は恥ずかしいよ」
「そうですか? ……確かに、名前で呼ばれないというのは不快かもしれませんね」
勇輝の言葉に納得して少女はそう微笑むと、何かに気付いたように声を上げた。
「そういえば私たちって、まだお互いの名前も知らないんですね。私はアーティアといいます。アーティア=ヴァレンシュタイン。ご覧の通り、リーリア教会の修道女です」
「いや、ご覧の通りと言われてもさっぱりなんだけど……ま、いいか。俺は朝凪勇輝。色々あってここに連れてこられたんだけど、ここはどこなんだ?」
「ここはクレスエント王国の交易都市サーベラス。その外れにあるリーリア教会です。勇輝さんが倒れた神竜の聖域の北にあるところなんですけど、わかりますか?」
お互いの名を交し合い、あの森で目が覚めた時から思っていたことを尋ねたが、返ってきた答えはやはり聞き慣れぬ単語であった。
「……クレスエント王国? 聞いたことがないな。世界地図だとどの辺りにある国なんだ?」
「あ、はい。大体サーベラスはこの辺りになります。世界地図ですから詳しい場所までは出せませんけど」
手近なところにあった棚から地図を取出し説明してくれるアーティアに礼を言って地図を眺め、勇輝は愕然とした。
巨大な四つの大陸、見たこともない文字による表記は、それだけで強い自己主張をしているように感じる。
そして地図に描かれたこの世界の姿形。それは勇輝の知る世界とは似ても似つかないものだったが、アーティアが嘘を言っているわけではないというのは何となくわかっていた。
「なぁ、アーティア。この地図って手書きみたいだけど、誤差があるとか間違ってるっていうことはないのか?」
「え? ええ、はい。探知系の奏術で記録されたものですから、人間が直に測量するよりも正確にできているはずです」
アーティアの言葉の中に奏術という、恐らく技術に関する名称が出てきたことで確信する。
つまりここは――
「……まいったな。ここは地球じゃ、ないのか」
地図に示された知らない世界、知らない言葉、奏術という未知の技術。そのどれもが、ここが勇輝の知っている世界とは違う場所であることを示している。
実際、アーティアに地球という言葉を知っているかと問うても、知らないといっていることから考えて決定的だ。
「――どういうことでしょうか? 少しお話してもらっても構いませんか?」
とりあえずは、自分一人で納得していないでアーティアにも説明してあげなければいけないだろう。
● ●
「つまり、勇輝さんは異世界から召喚されてきた方ということでいいんでしょうか?」
「多分、その認識で間違いないと思う。だけど、こんなこと信用できるのか?」
自分が今まで生活してきた環境やここに至るまでの過程を説明すると、アーティアは思いの外すんなりと納得してくれた。
「ええ。この世界――名前はファーレシアというのですが、ここには異世界の伝承は少なからず残されてますから。勇輝さんがあの時に使っていた聖剣も、異世界からの勇者様が齎したといわれていますし」
「あの剣が、異世界のもの? って、そういえばあの剣はどうしたんだ?」
気が付けば、自分たちを助けた白い剣が見当たらない。あまりに手に馴染んでいたために、名残惜しさも手伝って少し惜しい気分になる。
「聖剣でしたら、勇輝さんが倒れると同時にどこかに消えてしまいました。まるで、光になって勇輝さんに吸い込まれていくように消えたので、少し心配なんですけど」
「いや、でも特に何ともないけど……」
物理的な外傷で身体中に痛みは感じるが、それ以外に不調や違和感はない。しかし、そう言われてしまうとどことなく不安な気分になるのも事実である。
「そうですか。何ともないならそれに越したことはないんですけれど、一応もう少し診てもらいましょう。今、ナターシャさん――勇輝さんの治療をしてくれた人を連れてきますね」
「あ、うん。ありがとう……と、そうだ、アーティア。外が見たいんだけどそのカーテンを開けてくれないかな」
こちらの提案に「わかりました」と応じて寝台からでは微妙に手の届かない窓へと近づいたアーティアは肝心なことを忘れていたとばかりに口を開いた。
「そういえば、まだ歓迎の言葉も言っていませんでしたね」
白いレースのカーテンが開かれると、薄明るい神秘的な色の月光が差しこんでくる。
「ようこそ勇輝さん。私たちの世界ファーレシアへ」
温かい笑みの先、開き放たれた窓の向こうには、闇の帳に浮かぶ六つの月が輝いていた。