序奏の章《開闢(はじまり)を告げる永遠(コワノネ)》
――――。
ふと、誰かに呼ばれた気がして、朝凪勇輝は辺りを見渡した。
眼下には無限に広がっているかのような人の明かり。頭上には全てを焼き尽くすような赤い夕焼け空、そこに輝く少数の明星。
この時間、この町の最も美しい姿を見ることができる丘の上には、それでも勇輝以外の人影は見当たらない。
「空耳? いや、風の音か」
呟き、勇輝は再び頭上の宝石箱を見上げて物思いに耽る。
この場所でこうして星空を眺めながら、思考に沈むようになったのはいつからだろう。
振り返ってみれば、もう何年も前のようにも感じるし、つい昨日のことのようにも思える。それほど日常に埋没し、それと同じだけ日常から乖離した時間だった。
――始まりは確か、三ヶ月前。
その日、ふとした気まぐれでいつもの帰宅コースを外れた勇輝は偶然この丘を見つけた。
そこまではよくある出来事。日常茶飯事だ。
ただ唯一の異常は、何の前触れもなく意識を失ってしまったということ。
原因はわからない。誰かの声が聞こえたと思った瞬間から記憶はなく、気が付いた時には今と同じ夕暮れ。目覚めたその時にこの美しい星空を見つけたのだが、物思いの原因は絶景ではない。
夢を見たのだ。
見知らぬ少女の夢。その夢の中で彼女と話した内容こそが、この場所で考え事をするようになった直接の原因だ。
ただの夢に執着するなどおかしいと自分でも思いながら、それでも勇輝の中には夢で聞いた言葉が強く残っていた。
「ここに、〝その答えを見つけるきっかけがある〟か……」
夢の中で出会った銀髪の少女。約束の場所で待つという言葉。そして、勇輝が抱く一つの疑問。
その全てが――なにかが動き出すきっかけが、この場所でなら見つかるのかもしれない。そんな思いを胸に、勇輝はここで想い続けている。
物心ついた時から求めていた一つの問いの答えを。
「俺が生きる意味って一体、何なんだろう」
それが朝凪勇輝の抱える疑問。誰かに教わる事はできず、人の数だけ存在する一つの真理の形。それと同時に、朝凪勇輝という人間が抱えた一つの欠陥だ。
そう。朝凪勇輝は自分がこの世界に生きる意味がわからない。
自分自身に酔っているようなその疑問は、それでも勇輝にとって重要な命題だった。
自分の人生に明確な目標や目的はなく、明確に大切だといえるものもない。ただ、惰性で日々を過ごすだけの存在。目に映る世界は、色を持たない死の世界にしか感じ取れない。
そんな自分の人生に、生きる意味を見出せないのだ。
――赤ん坊以前の存在だな、俺……。
生きることこそが生きる意味であると本能的に信じることができる赤ん坊の方が、自分よりもよほど答に近しいと感じる。――心から羨めるほどに。
だから、自分は赤ん坊以前の存在。生きる意味を知らず、赤ん坊すらも羨む矮小な存在だと思った。
『それは君自身が己の本質を知らないが故の空白だよ。君の生きる意味は君だけが持つ本質にこそ存在する。だから、君は君自身を知らなければならない。考えることを止めてはいけないよ』
記憶に残る言葉はそう遠くない過去に誰かに言われたものだ。それが誰の言葉だったのか、どれだけ思い返そうとその記憶にはノイズが走り、鮮明に思い出すことはできないが、不思議と胸に嵌ったその言葉を真に受けて、自分はこうしてここにいる。
「だけど、いくら考えたって、わからないことだらけだな」
日が完全に沈んだことを確認し、勇輝は立ち上がる。
「何してるんだろうな、俺。行動せずに考えるだけで見つけられるはずないっていうのに」
見上げる星空は返事をしてはくれない。丘の上は限りなく静かだった。
そのまま帰ろうと振り返り――
「――あなたの渇望、聞き届けましょう」
そこに、人の姿をした〝何か〟がいた。
夕陽によって紅に染まり、星々の輝く群青の空に見守られた美しい世界。その世界の中で、それでもなお際立つ美しさを有する存在。そんな幻想的な女性が人である筈がないと勇輝は直感した。
純粋な青を凝縮した、氷のような淡い色の艶やかな長髪に、遍くものを見晴かすような金色の瞳。中性的な顔立ちは熟練の人形師が作り上げたかのように端整で、その立ち居振る舞いは物語に出てくる貴族のように洗練されている。
何もかもが美しく、何もかもが現実離れした存在。そんな女性が勇輝を真直ぐに、様々な感情が混ざったような視線で見つめていた。
「――え、あ……」
発した声は言葉にならず、突然の出来事に自身の思考が追いつかない。
なぜ、自分は彼女がそこにいたことに気付かなかったのか?
なぜ、彼女はそんな瞳で自分を見つめるのか?
そんな疑問が頭の中で渦を巻いて、言葉を詰めている。
「……ええと、あんたは?」
相手に気付かれないように小さく深呼吸して気持ちを落ち着かせ、勇輝は目の前の女性に問いかけた。
「私ですか? 今は〝彼の者〟と呼ばれる者です。あなたの抱くその渇望を満たすための手助けを行う、一端役に過ぎません」
表情を全く動かさずに問いに答えるその女性――〝彼の者〟は、彼女がまるで本物の人形のようだと勇輝に錯覚させた。
「は? いや、一体何を?」
「朝凪勇輝。あなたの渇望は〝解放〟の鍵として相応しい形を持っています。故に、私はあなたの前へと顕れました。朝凪勇輝……他ならぬ朝凪勇輝という物語の主人公よ――」
こちらが意味を理解できない言葉を切り、自分を深く見つめる彼の者に、勇輝は言い知れぬ威圧感を感じた。
「――あなたはどうしますか?」
「――え?」
言葉を窮する勇輝に彼女は静かに、それでいて重い響きを乗せた言葉で問いかけてくる。
「あなたが抱くその望み。あなたが欲するあなた自身の意味を、手にすることができるとしたら、どうしますか?」
「っ!?」
静かに揺れることのない視線と共に発せられたその問いは、勇輝の心を激しく揺さぶった。
「俺は……」
眼前の女性の問い。それは、いつか夢で聞いた言葉を勇輝の思考に引き上げた。
『きっといつか、あなたの願いにきっかけを与えてくれる人が現れる』
この女性が、自分の願いのきっかけ?
この丘を見つけたあの始まりの日以降、毎夜のように見た夢。その中で彼女の言っていたきっかけとはこの事なのだろうか。その答えはこの瞬間に判断することなどできない。
しかし――
「俺の生きる意味……この期に及んで、誰かに頼っている俺が、それを手に入れられる? もし、それが本当に叶うなら――」
もしこれが、本当に朝凪勇輝が見ている色のない世界を変える、その願いが叶うきっかけとなるのなら――
「俺は、知りたい。俺自身の生きる意味を知って、変わっていきたい」
宣誓の意思を伴うその言葉を聞き、彼の者は頷いた。
「承知しました。あなたの心が正しいと証明された時、その願いと共に多くの命が解放されることでしょう。――それでは」
言葉と共に、〝彼の者〟はその手を虚空へ伸ばした。その意思に反応するかのように、丘の景色が歪んでいく。その歪みは徐々に一点へと集中し、空間に一つの形を形成した。
「なんだ? これ、扉?」
眼前には歪んだ景色が溶け合って創られた門扉が鎮座していた。世界にとって、とても歪な、そんなありえない歪みの門。
「これが、きっかけ? この先に、俺が生きる意味があるってのか?」
「いいえ。この先の世界が、その渇望を満たすことができるかどうかはあなた次第。あなたが願いを叶える為にも――」
彼の者の言葉と共に、門はその扉を開いていく。
「あれは……」
開ききった歪みの門の向こう側に、かつて見た、しかし未だ知らぬ世界を見つけると同時、勇輝は門の向こう側へと自分が引き込まれるの感じた。
「っ!? なん、だ? これ、意識が……うああぁ!」
門へと引き込まれる感覚に、意識が潰される。未知の感覚への恐怖を感じながらも、勇輝の意識は深い闇へと堕ちていく。
「――物語を見つけて」
完全に意識が潰える刹那、それまでとは異なる声音で発せられた彼の者の祈るような言葉が、勇輝がその世界で聞いた最後の言葉。
物語の始まりを告げる、開闢の声の音だった。