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第2話 呪われた剣士との出会い

冷たい夜雨が、容赦なく俺の体を打ち据えていた。

王都の華やかなメインストリートから遠く離れた、スラム街のさらに奥深く。石畳はひび割れ、至る所に泥水が溜まっている。先ほどまで暖かな宿屋の部屋にいたのが嘘のように、今の俺は身一つで暗い路地裏をあてもなく彷徨っていた。

所持金はゼロ。荷物もゼロ。数年間、血を吐くような思いで勇者パーティーの裏方として尽くしてきた俺の手元には、本当に何一つ残されていなかった。

雨粒が頬を伝い、顎から滴り落ちる。濡れた衣服が肌に張り付き、体温を急速に奪っていく。ガタガタと震える体を抱え込みながら、俺はただ前へ前へと重い足を引きずった。


「寄生虫、か……」


ガルドの吐き捨てた言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。

俺の職業は『研ぎ師』。戦闘能力を持たない底辺職だ。だからこそ、自分の持つ神級スキル『静止クロノス・フリーズ』を使い、己の命を削ってでも彼らの装備の劣化を防いできた。それが俺にできる唯一の恩返しであり、仲間への貢献だと信じていたからだ。

だが、その献身は彼らには全く伝わっていなかった。それどころか、俺の努力はすべて「勇者と聖女の優秀さ」という彼らの傲慢な勘違いによって上書きされ、俺はただの無能として切り捨てられた。

今思えば、俺のやり方が間違っていたのだ。

対象の状態を固定し、時間の経過による変化を完全に止める。この『静止』というスキルは、使い方次第では世界すら揺るがすほどの規格外の力だ。だが、俺はそれを「武器や防具の手入れ」という、あまりにも小さく、目立たない領域に限定して使ってしまっていた。

俺が自分の力の価値を正しく理解し、堂々と主張していれば、こんな惨めな結末を迎えることはなかったのかもしれない。

雨脚はさらに強まり、視界を白く染め上げていく。寒さと空腹、そして絶望感が俺の思考を次第に鈍らせていく。


どこかで雨宿りをしなければ、このまま凍え死んでしまう。

霞む目を凝らして周囲を見渡すと、路地裏の突き当たりに、崩れかけた古い建造物があるのが見えた。かつては教会として使われていたのだろうか、屋根の半分は崩落し、ステンドグラスは割れて無残な姿を晒している。だが、雨風を凌ぐには十分そうだった。

重い足取りで廃教会に近づき、腐りかけた木製の扉をゆっくりと押し開ける。

ギィィ……という軋む音が、静寂に包まれた堂内に響き渡った。

中はカビと埃の匂いが充満していた。辛うじて残っている屋根の下へと歩みを進め、冷たい石の床に腰を下ろそうとした、その時だった。


「……うぅ……あぁ……っ」


堂内の奥深くから、微かな、しかし明らかな苦痛に満ちたうめき声が聞こえた。

俺は全身を強張らせ、声のした方向へ視線を向ける。割れたステンドグラスから差し込む微かな月光が、祭壇の影に倒れ込んでいる一つの人影を照らし出していた。

警戒しながらゆっくりと近づいていく。そこにいたのは、俺と同じか、少し若いくらいの年齢の少女だった。

泥と血にまみれた騎士の衣服を身に纏い、肩で荒い息をしている。月光に照らされた彼女の顔立ちは、息を呑むほどに美しかった。透き通るような白い肌に、月明かりを吸い込んだような銀色の長い髪。しかし、その美しい顔は苦悶に歪み、額にはびっしりと脂汗が浮かんでいる。

そして、俺の目を最も惹きつけたのは、彼女の右手だった。


彼女の右手は、一本の剣を固く握りしめていた。

かつては美しい意匠が施されていたであろうその剣は、今は全体がどす黒い瘴気に覆われ、刀身には無数の亀裂が走っている。今にも砕け散りそうなほどボロボロだが、そこから発せられる圧倒的で禍々しい魔力は、素人の俺でもはっきりと感じ取れるほどだった。

さらに異常なのは、剣を握る彼女の腕だ。

剣の柄から伸びるように、漆黒の茨のような紋様が彼女の右手から腕、そして首筋へと這い上がっている。その紋様はまるで生き物のように蠢き、彼女の生命力を少しずつ、確実に喰らっているように見えた。


「おい、大丈夫か!? しっかりしろ!」


俺は思わず駆け寄り、彼女の肩を抱き起こそうとした。

しかし、俺の手が触れる直前、彼女は弱々しい声でそれを制した。


「……こないで……」

「えっ?」

「私に……触れないで……この呪いは……触れた者にも、災いを、もたらす……から……」


彼女は苦しげに息を吐きながら、焦点の定まらない目で俺を見た。

呪い。その言葉を聞いて、俺は彼女を蝕んでいる漆黒の紋様の正体を理解した。

魔剣などに宿る強力な呪詛。それは持ち主の精神と肉体を侵食し、やがてすべてを食い尽くすまで決して止まらないという恐ろしい代物だ。


「どうして、こんな強力な呪いを……」

「私は……セリア・ヴァレンタイン……」


彼女――セリアは、途切れ途切れの呼吸の中で、自分の身に起きたことを語り始めた。

彼女は地方の領地を治める没落した名家、ヴァレンタイン家の令嬢だった。数日前、彼女の領地を強大な力を持つ魔物の群れが襲撃した。領民を守るための戦力を持たなかった彼女は、領主としての責任を果たすため、一族の地下深くで厳重に封印されていた禁忌の魔剣『災厄の牙』を持ち出したのだという。

魔剣の圧倒的な力により、魔物の群れは殲滅できた。領民の命は守られた。

だが、その代償はあまりにも大きかった。剣の呪いは即座にセリアの肉体を侵食し始め、彼女の命を喰らい尽くそうとしているのだ。彼女は呪いが周囲に被害を及ぼさないよう、誰にも告げずに領地を抜け出し、この王都の片隅の廃教会で一人、死の時を待っていたのだ。


「領民のみんなが……無事なら……それで、いいの……。私の命で、みんなを……守れたんだから……」

「馬鹿なことを言うな! 自分の命を捨ててまで他人を守るなんて……」


俺の口から出た言葉は、どこか自分自身に向けられているような気がした。

俺もまた、ガルドやマリアという他人のために自分の生活を犠牲にし、魔力を削り続けてきた。だが、俺の場合は単に利用され、捨てられただけだ。

しかし、目の前にいるセリアは違う。彼女は本当に愛する者たちのために、自らの意志で自己犠牲を選んだのだ。その誇り高き覚悟が、俺の心を強く揺さぶった。

こんなにも気高く、他者を思いやれる少女が、誰にも知られずこんな暗い廃墟で命を落とすなんて、絶対に間違っている。

その時、セリアの体がビクンと大きく跳ねた。


「あぁぁっ……!」


悲痛な叫び声が堂内に響き渡る。

彼女の首筋まで達していた漆黒の紋様が、さらに勢いを増して顔の半分まで広がり始めた。呪いが心臓と脳に到達しようとしている。

同時に、彼女が握りしめている魔剣『災厄の牙』からもピキピキと不吉な音が鳴り始めた。刀身に走る亀裂がさらに深く広がり、魔剣そのものが呪いの力に耐えきれず、完全に崩壊しようとしているのだ。


「もう……時間がない……お願い、逃げて……あなたが巻き込まれる……!」


セリアは最後の力を振り絞って俺を突き放そうとする。

あと数分、いや数十秒で、彼女の肉体は呪いによって完全に崩壊し、絶命するだろう。

助ける方法はないのか。回復魔法なんて使えない。呪いを解く解呪のスキルもない。

俺にあるのは、ただ対象の状態を固定するだけのスキル『静止』だけだ。

――対象の状態を固定する。

その考えに行き着いた瞬間、俺の脳裏に電流のような閃きが走った。

今まで俺は、このスキルを「武器や防具の摩耗を防ぐ」という物理的な劣化の防止にしか使ってこなかった。対象が動かない無機物だったからこそ、それでよかった。

だが、もしこのスキルが「生物」や「呪いの進行」といった概念的なものに対しても同じように作用するとしたら?

時間経過に伴う変化を完全に停止させる。それが『静止』の真髄であるならば、セリアの肉体を蝕む呪いの進行そのものを「固定」し、止めることができるのではないか。


「……やってみる価値はある」


俺はセリアの制止を無視し、彼女の隣に膝をついた。

そして、迷うことなく彼女の右手と、彼女が握る崩壊寸前の魔剣の両方に自分の両手を強く押し当てた。


「なっ……何をして……! 呪いが、あなたにも……!」

「喋るな。俺を信じろ」


俺は目を閉じ、意識を深く集中させた。

体内の奥底に眠る魔力の源泉を探り当て、それを太い奔流となって両腕へと流し込む。

ガルドの聖剣やマリアの法衣を手入れしていた時の比ではない。生命と呪い、そして強大な魔剣という複雑な対象の時間を止めるためには、これまでにない桁違いの魔力と集中力が必要だった。

頭痛が走り、視界が赤く染まるような感覚に陥る。だが、俺は限界を超えて魔力を練り上げ続けた。


「俺の力は……世界を止める力だ!」


腹の底から声を振り絞り、俺はスキルの名前を強く念じた。


「神級スキル発動――『静止クロノス・フリーズ』ッ!!」


カッ、と目も眩むような青白い光が、俺の両手から爆発的に広がった。

光はセリアの体と魔剣を完全に包み込み、廃教会の堂内を昼間のように明るく照らし出す。

その瞬間、俺の手を通して明確な感覚が伝わってきた。

激しくうねり、暴れ狂っていた魔剣の呪いが、まるで見えない巨大な壁に激突したかのようにピタリと動きを止めたのだ。


「う、あ……?」


セリアが驚愕の声を漏らす。

彼女の肌を浸食し、脈打つように這い上がっていた漆黒の紋様が、その形を完全に維持したまま微動だにしなくなった。

同時に、粉々に砕け散る寸前だった魔剣の刀身も、無数の亀裂が入った状態のまま、空中に固定されたように崩壊を停止した。

時間という概念そのものが、俺の手の平の中で完全に凍りついたのだ。

魔力の放出を終え、俺は大きく息を吐き出して手を離した。

急激な魔力消費による目眩で体がよろめくが、なんとか踏みとどまる。


「……どうだ、セリア。痛みは……あるか?」


息も絶え絶えに尋ねる俺に、セリアは信じられないものを見るような目で自分の体を見下ろした。

彼女は自分の両手を開いたり閉じたりし、恐る恐る顔の紋様に触れる。


「痛みが……ない。それに、体が崩れていく感覚も……完全に消えている」


彼女はゆっくりと立ち上がった。先程までの死に瀕していた弱々しい姿は嘘のように消え去り、その瞳にははっきりとした生気が宿っている。

呪いそのものを解呪できたわけではない。彼女の肌には依然として漆黒の紋様が刻まれているし、魔剣のヒビも直ってはいない。

だが、その進行は永遠の時の中に閉じ込められた。俺がスキルの効果を解除しない限り、彼女が呪いによって死ぬことは未来永劫なくなったのだ。


「あなたが……私を救ってくださったのですか?」

「俺のスキルは、対象の状態を永遠に固定する力だ。呪いの進行の時間を止めただけだから、根本的な解決にはなっていないかもしれないが……少なくとも、今すぐ君が死ぬことはなくなった」


俺がそう説明すると、セリアの大きな瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。

彼女は魔剣を床に置き、俺の前に静かにひざまずいた。そして、騎士としての最上級の敬意を示すように、自らの胸に右手を当てて深く頭を下げた。


「時間をも超越する御業……。あなたは、神の御使いですか」

「いや、ただの無職になった元・研ぎ師だよ」


自嘲気味に笑う俺に、セリアは真剣な表情のまま顔を上げた。


「いいえ。あなたは私の命を、そして絶望の淵から魂を救い上げてくださいました。この御恩は、私の生涯をかけても返しきれるものではありません」


彼女の透き通るような声が、冷たい廃教会の中に凛と響き渡る。


「私、セリア・ヴァレンタインは、我が命と剣のすべてをあなたに捧げます。あなたが望むなら、この身が再び呪いに焼かれようとも、あなたの盾となり剣となりましょう。どうか、私をあなたの従者としてお側に置いてください」


その真っ直ぐで狂気的なまでの忠誠を秘めた瞳に、俺は息を呑んだ。

今日まで、俺の力は誰からも認められず、評価されることもなかった。

勇者や聖女に尽くしても、得られたのは蔑みと裏切りだけだった。

だが今、俺の目の前には、俺の力を心から必要とし、俺のために命を捧げると誓う美しい少女がいる。

俺の『静止』は、世界を変えることができる。

誰かの命を救い、誰かの絶望を希望に変えることができる、真の神級スキルなのだ。

冷え切っていた俺の胸の奥に、かつてないほどの熱い感情が湧き上がってくるのを感じた。

自己を卑下し、底辺として生きるしかなかった俺の殻が、今、音を立てて砕け散っていく。


「……俺は、もう二度と誰かのために自分をすり減らすような生き方はしない」


俺はセリアの前に立ち、彼女の肩に静かに手を置いた。


「俺を理不尽に踏み躙り、切り捨てた奴らを見返してやる。俺自身の力で、この世界に俺の居場所を証明してみせる。そのために、君の力を貸してほしい、セリア」

「はい。我がマスター、レオン様。あなたの行く道がどこであろうと、私は必ずお供いたします」


セリアは涙で濡れた顔に、今日初めての美しい微笑みを浮かべた。

窓の外を見ると、いつの間にか激しかった雨は上がり、雲の切れ間から眩い月光が堂内を照らし出していた。

俺の第二の人生が、そして真の覚醒への道が、ここから始まるのだ。

一方その頃、俺を追放した勇者パーティーが、俺のスキルの解除によってどんな致命的な破滅に向かっているのか。

そんなことは、もはや俺の知ったことではなかった。

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