薔薇の茂みに秘密は埋める。
いずれ王太子になる者として、彼は全て定められていた。
運命に反抗したい気持ちがあった。
共に国を背負う伴侶くらいは、己が心惹かれたその人がよかった。
真実の愛を、彼は知った。
「……マージョリー」
「ええ、殿下」
庭に植えた薔薇が濃く香る、舞踏会の夜であった。
人目を忍んだ王城の東屋で、呼びかけに応えて傲然と笑んだのは、マージョリー・ゴス伯爵令嬢……王太子であるロイドの婚約者であった。
「君との婚約を、破棄したい。全て僕が責任を取ろう……僕は、もう君と未来を見られない」
学園でロイドは運命の出会いを果たした。
隣国から留学してきた姫君、クリスティアーネだ。
不断の努力で自国を防衛する魔法使いとなり、今や他国との信頼も篤い。
彼女はいつもはつらつと明るく、しかし美しい所作で、礼儀に厳しい。
慕われた彼女の周囲には、いつもひとがいた。
そんな彼女に見惚れて迂闊に声をかけたのを、やんわりと、しかし毅然と窘められてから。
婚約者であったマージョリーを交えてしか、言葉を交わしていなかった。
彼女と婚姻を結ぶのに、不実な真似は決してすまい。
だからまず、マージョリーに話を通すべきだと思ったのに。
麗しの伯爵令嬢は、品よく扇子で口元を隠してころころと笑い声を上げている。
「ふふっ……思いつめた顔で何かと思えば、長年うそぶいていた真実の愛とやらも、随分と安価なものですね?」
「君の批評も許しもいらない。だが、最大限君に傷がないように取り計らう」
それに、彼女は気づいているだろう。
この国1番の腕を持つ魔術師に心酔され、妻にと望まれていることを。
別に、マージョリーの相手はロイドでなくたっていい。
「次の婚約には、ユースをすいせん……」「遅いのですよ。何もかも」
まるで幼い子供を窘めるような、朗らかな微笑みであった。
同い年と言うのに……弟扱いを、不敬と称して叱責するには、婚約者として共有した時間が長すぎる。
「君との結婚は、互いが成人する20歳になる頃と決まっているだろう。まだ、僕らは16歳だ」
「……ええ、殿下の御心のままに?」
「その小ばかにした顔を止めろ」
「いえ、殿下の幸いを心から祈っているだけですわ」
ふと、彼女の香水が間近に香った。
スミレの甘ったるさが、鼻腔に重くわだかまる。
それでマージョリーを引き離すほどの猶予はなかった。
たおやかな指先が、驚くほど力強くロイドを突き飛ばしたからだ。
薔薇の茂みに呆然と座り込んだロイドに、しゃがみこんだマージョリーが朗らかに笑って自身の顔を撫でた。
「お、まえ……何を」
そこに、いつも朝に鏡で見る顔がある。
まぁ悪辣に嘲笑し、ひどく歪んではいるが。
「ええ、貴方のために死地に」
男の声で、笑い含みにそう言った。
礼装まで寸分たがわずロイドに化けたマージョリーは、懐から取り出したガラス玉を握り割った。
きらきらと光片が周囲を取り巻き、隠蔽の魔術が込められたそれが、無様に尻餅をついたロイドを覆い隠した。
「いたぞ!王太子だ!!」
「………ひっ!」
漏れ出た悲鳴に、慌てて両手で口を塞ぐ。
侵入者だ。それも、ロイドを狙った。
そこでようやく、意図を悟った。
マージョリー・ゴスは、ロイドの身代わりを務めようとしている。
「……何者だ、貴様らは!衛兵、衛兵は何をしている!」
がらがらと割れた声が響いて、その声が気付くようにと殊更声を張り上げたマージョリーがロイドから離れていく。
多くの足音が、その声に追従したのを感じた。
どうしよう。逃げた方がいいのか。それともやり過ごすのが得策か。
帯剣はしているが、ロイドは大人数を相手取れるような使い手ではない。最低限の身の守りだけだ。
今日に限って、内々の話であると、護衛を遠ざけてここにきている。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
対応も定まらないまま動けば、この隠蔽の術すら途絶えて、マージョリーの尽力を無駄にしてしまう。
結局は、頼りなく息を吐き、無意識に隠蔽の中に深く身を沈めることを選んだ。
ロイドが危険の多い王太子の立場を生き抜いたのは、周囲に助けられただけではない。
誰を見殺しても生き延びるのは、確かに王としての才覚の一つで、幸いロイドには最初から身についていた。
長年仕えた家臣への情すら、生死を懸けた鉄火場では忘れ去れる。
……それでも、責任は忘れてはいない。
今日、ロイドの判断の誤りで人を殺す。
「ろ、ロイド殿下!?先程連れ去られたのでは?!ご、ご無事なのですか!!」
「あ…マージョリー!お前、マージョリーを見なかったか?!」
いますぐにあの要領のいい令嬢が、散々ならず者をからかって、適当に逃げていると聞きたかった。
そんな他力本願な希望は、すぐ粉々に打ち砕かれた。
助けに来た騎士に訊けば、ロイドが迷った数分で、事は全て終わっていたらしい。
確かに解決はしていた。
狙われたロイドは、突き飛ばされた時、薔薇の棘にかかれた傷しか残っていない。
しかしならず者共は相当な準備をしていたようだ。
国内にいる内に一掃されず、ロイドに扮したマージョリー・ゴス伯爵令嬢が攫われて失踪しているという。
ささやかな擦過傷も治りきった後日の調査報告で、ならず者共の正体と、マージョリーの行き先は分かった。
犯人は以前クーデターを起こし、影武者にて処刑を免れた王弟の一派。その成れの果てだ。
帝国へと通じる道を走る中で馬車ごと黒い森の谷に落ちて、全員が死体すら獣に食い尽くされていた。
無論それは拘束されていただろう、ゴス伯爵令嬢も例外ではない。
王家、騎士、貴族が集った謁見の間。
沈痛な面持ちの調査隊から僅かにドレスの切れ端と、獣の噛み痕のある装身具、引きちぎられたように無惨なプラチナの髪束を収めた箱を提示された時、王ですら言葉を失った。
他国との戦争すら、小競り合いとなったこの時代だ。
決して平和と言い切れはしないが、誰もこのように死ぬべきではなかったのに。
まだ年若く代わりのいる王太子の為に、寸暇の躊躇なく、身命を賭して忠義を示す家臣が、一体どれほどいるというのだ。
それも、まだ学生である少女だったというのに、その身をならず者共の前に投げだしたのだ。
易々と城の奥深くまで容易くならず者の侵入を許した。
挙句、戦うすべのない令嬢に王家の威信を守られた騎士共は、最悪の知らせに顔を青くして立っている。
ロイドの婚約者だった彼女は、よくこの城に出入りしていた。
あれで彼女に仕えた者たちからはよく慕われるから、年嵩の騎士に顔見知りも多かった。
普段巌のような顔で表情一つ動かさないロイドの剣の師が、深々と何かやり過ごすように息を吐いた。
中堅の騎士達も険しい顔で後ろ手に組んだ拳を固めている。
歯を食いしばる若い騎士は、見開いた目が充血して赤かった。
ロイドは彼女がその稀有な変身魔法で、有事には彼の影武者として死ぬことを求められていたのだと、その時に知った。
王よりの娘の忠誠心を言葉を尽くして讃えられ、酷く恐縮した様子のゴス伯爵がそう口にしていたからだ。
ゴス伯爵は普段は剛毅な男であった。
かつては戦場にて武勲を認められた男である。
いつだって堂々とした出で立ちで、豪快に笑い、政治に関しても辣腕を振るっていたのだ。
しかし、今や見る影もない。
酷く憔悴した様子の男が、王の言葉に儀礼通りにしか言葉を継げないのである。
娘は王家に忠義を果たしたと、必死に自身に言い聞かせているようだ。
そう娘に教えていたのを、まさか実行するとは伯爵自身も思っていなかったのだろう。
彼の痛いほどの後悔に気づいても、誰も不敬だとあげつらって指摘する気持ちは起きなかった。
そうした心づもりで挑めという激励が、マージョリーを死なせてしまったのだと分かっていたからだ。
同じく子を持つ親たちからは、労わりの視線が向けられる。
「このようなことを、二度と起こしてはならない。……よいか」
その場にいる全員にではない。
間違いなく、ロイドのみに投げかけられた言葉であった。
あの日、自分がマージョリーに婚約破棄を申し出たことを、まだ誰にも言えていないけれど。
運命の恋だと浮ついた自分を、つぶさに王へと報告はされていただろう。
それからは死に物狂いだ。
自分が王としてふさわしくないと、誰よりもロイドが知っていたけれど。
彼が王になる者だと信じて、犠牲になった彼女に申し訳が立たない。
5年という歳月では、まだ足りなかった。
文字通り血反吐を吐きながら、実るかもわからない努力を続けた。
それが正しいかすら、証明の得られない努力だ。
たとえ誰もがかつて死んだマージョリーを忘れて話題にも出さなくなり、ロイドこそが次代の王であると手放しに認めても。
彼自身はいつまでも自分を許せないでいる。
たとえ少しでも彼女を忘れたら、きっとその場で首を刎ね落としてくれると、確約する側近がいなくてもだ。
彼はあの日、決してマージョリーに助けられたのではなく。
死にたくないという我欲から、唯一自分をたしなめ続けた姉貴分を見殺したのだから。
「そう思ってたのにお前ってやつはな~…!!ほんとうにな~……!!」
場所は黒い森。
ロイドが酒を呑んでクダを巻いているのは、300年前に魔力溜まりから不自然に発生し、周辺の土地を侵食し続ける人間の住めぬ土地……の飯処。
ロイドの姉貴分が魔女から強奪した、人にとっての安全地帯である。
そこに悪びれもなく、マージョリーはいた。
「あら、よくも来やがったわね!ようこそ私の城へ」
けろりと笑うと、数人の精鋭と共に、黒い森を駆けたロイド達を労ったのである。
既に店にいた客を土産を持たせ、勘定をせずに追い出すと、本日貸切と札を立てた。
ほろよい加減から急な珍客に殺気立った冒険者どもは、その場で土産を確認すると、一糸乱れぬ動きで皿を片づけて即座に退店した。
こんな森を歩く冒険者の中でも、マージョリーは……きっちり君臨しているようである。
あっという間にカウンターで、マージョリーと向かい合う形になっていた。
ミルクスープには、生姜と猪肉を捏ねた団子と、一般に最高級とされる黒い森の野菜が気取りなく煮込まれている。
温かく具の多い肉団子のスープを肴に、キンキンに冷えた麦酒はいくらでも飲めるとは初めて知った。
この近辺の偏屈どもが行きつけにするのも頷ける。
しばらく彼女の弟が家を継いだとか、前ゴス伯爵が隠居したとか話したが、彼女は当然のように把握していた。
全部わかったように笑う腹立たしい女に、ロイドは彼女の生存を知った時から、温めていた疑問を投げかけた。
「あのさ……ほんとこと起こす前にもう少し対話とかしてもよくない?ここまでする必要あった?」
「えっなにー?一丁前に引きずってたの?かっわいー♡おねーさんがよしよししたげよっか?」
「ばーか!!」
カウンターに空のジョッキを叩きつけて呻くロイドに、げらげらとマージョリーは笑う。
そうだ。忘れてたが、こんな女だった。
なんで忘れてたんだ。バカが。
「荒療治だけどユメミルおぼっちゃんにはてきめんに効いたでしょ?私は現実的なの」
簡素なドレスをまとった女は、そう言って追加の麦酒を寄越してきた。
いまだ褪せぬ輝きのプラチナの髪が、複雑に編みこめる長さになっていたのに、ほっとしたなんて決して言えない。
「……感謝している。お前がいなければ、私は王になることはなかった。そして、その方が国の為になったろうなーんだその顔は!」
「おっきくなったね〜!」
「その姉気取りいつ飽きるんだ?!なぁ!!王太子なんだが?!」
「16歳になるまでー、練習用婚約者が必要だった坊やがー、何か言ってまちゅね?」『あおにちゃい!』
子供をあやすような手遊びで、甲高い声を当てられたヘビにまで煽られる。
「ほんとなんでお前が死んだなんて信じられたんだろ純粋すぎるだろ当時の私」
あの当時の自分を思い出すだけで、何を夢見ているんだと殴り飛ばしたくなる。
己の立場もわきまえず、その不満が正当なものなのかすら考えにない。
ひたすらに不自由を嘆き、憂い顔で王家になど生まれつきたくはなかったと愚痴っていたのだ。
ならばすぐに返上して野に下りればよかろうに、その度胸すらもない。
王家に生まれついた責任があるからと、恩恵を享受しながら渋々王位についただろう。
己に何か任せると言えるだけの能力もないから、政治の補佐もできる女を添えられたのだと今は痛感している。
婚約者といえば。
「……そうだ。私の婚約者、あの時惚れた姫に内定したぞ」
隣国が本格的に頭角を顕し始めたロイドを、取り込み始めたともいう。
婚礼の日に、嫌悪を隠して完璧に微笑んで見せた姫は、今のロイドにも変わらず焦がれる女のままだった。
「え、やったじゃない!正直あの子、男女関係にめっちゃシビアだし!わざわざ婚約者呼んでまで話しかけてくるロイドのこと何コイツ、みたいな目で見てたから絶望的だと思ったわ!たぶん相当頑張んなきゃ夫婦生活破綻するから気をつけてね!」
「そういうこと言わなくてよくない?祝いの言葉だけでよくない?!」
「私の婚約者を誘惑してる、って隣国の姫に食ってかかりそうになった生徒連中の処理。アンタ考えてた?国際問題よ?そういう迂闊なことする男に嫁いでくれるの、明らかにアンタ操って国が欲しい系じゃない?」
「その節は大変申し訳ございませんでした……!」
相も変わらない言葉の切れ味だが、ようやくロイドにも指摘を受け入れる土壌は整っていた。
ちょっとだけ片眉を上げると、にまりとマージョリーが笑う。
及第点、といった雰囲気である。
婚約者時代にマージョリーへの贈り物や手紙を、自分に酔ってるだの、独りよがりだのと。
散々虚仮にされた時、やり直しの末によく見せていた表情だ。
………クリスティアーネとのやり取りの際に、大変役立っているから文句の言いようもない。
底辺をさまよっていた彼女からの評価を、プライベートでも視界には入れてやるか程度に持ち直せたのは、他ならぬマージョリーの指導が大きかった。
「わかればいいよ~?隣国のお姫様、当然めちゃくちゃ溺愛されてるから。ちょっと油断して蔑ろにしたら、余裕で攻め込まれるからね?裏で私が犠牲になった、って吹き込む馬鹿もいるだろうから、ちゃんと警戒するように!」
マージョリーの諫言に、以前は苛立つことも多かった。
だけど今は姉ぶってそういうのを、穏やかな気持ちで聞いている。
そうだ、最初から彼女は、いつか自分がいなくなることを前提にしていた。
いなくなった後のことも考えて彼に接していた。
少女だったマージョリーは、いつから彼の為に死ぬことを選んでいたのだろうか。
「ああ、いや。その必要はないんだ。もう解決しているからね」
「解決?」
そして、こうして大手を振って自由の身になるのを、いつから企てていたのだろうか。
話がひと段落するのを、待っていたのだろう。
がしゃんと大きな音を立てて、店の中央に飾られた、彼女の守りの要が砕かれた。
異変に身をひるがえしても遅い。
上等な茨の刺繍が入ったローブを着た眼鏡の優男が、彼女を抱きすくめた。
刺繍された茨が、ずるりと袖から逃げてマージョリーにからみつく。
「ユー、ス……?」
「………………ああ、貴女だ」
薄青い色硝子の丸眼鏡が、不気味に反射しているので表情は分からない。
無事を確かめるように触れる指先は穏やかだが、マージョリーの肌を這った茨は、ぎりぎりと締め上げるような動きを見せている。
「……!!」
当然逃げを選んだ彼女は、そのまま息を呑んで動かなくなった。
目線だけ忙しなく逃げ道を求めているが、ユースが許すはずがない。
愛おしむように、無駄な努力を楽しんでいる。
「ああ、それはお勧めしません。皮膚に茨を差し込みました。……身を変じれば、棘がよじれて大変苦痛かと」
「お前惚れてる女にそこまでするほどこじれてんの?」
「恋路に邪魔な婚約者を、賊に差し出して始末した王太子の悪評には負けますよ」
「うおえろろろおろ」
「やだー!!!私のお店で吐かないでよう!!!」
トラウマになったほどのストレス源と、酒精が一緒くたにぶちこまれたんだから仕方ない。
ここ数年ようやくマシになってきたが、まだ青二才と謗られて反論できない男である。
とはいえ、もうかつての坊やでない。
「……で、無事クリスティアーネとの婚約が決まったんだが、王家には疵がある」
「今に始まったことじゃなくない?」
御伽話のように清廉潔白。
何一つ間違いのない国家運営など、歴史を重ねるほどに難しい。
それはもう、ロイドもわかっていた。
あとはどう華やかに、正しく見せて誤魔化すか。
国に生きる誰しもの、苦心を重ねて今があるのだ。
「ああ。だが、私は……俺はこの件を全力でなかったことにしなければならない。犠牲になった不幸な伯爵令嬢などいなかったとな。それこそ、夫婦生活が立ちいかなくなるだろうからね」
「はぁん?」
「おっまえほんと柄悪くなったな……!」
というか、これが素なんだろう。
たっぷりスープの入った大鍋をかき混ぜて、酔客と会話をかわし、明日のための活気を持たせて送り出す。
市井の親しみを愛おしむ人格は、あの国で、つまらない男の王妃になるのを選ばなかった。
こんな形でロイドにすらはめられるなんて、気の毒でならないけど。
結果的に初恋を叶えた自分に、自分勝手に限界を迎えた側近の手がいつ滑るかわかったものじゃない。
個人に国の為に犠牲になってもらうことを迷う心は、5年前に殺している。
他ならぬマージョリーを殺したのなら、他の誰をも容易く殺せる。
「なあ。死んだはずの伯爵令嬢が、彼女に恋していた魔法使いに無事で発見されたなんて、ただのハッピーエンドだろ?」
「……っまさか!!」
「婚約者のある身で、独身の令嬢の元を訪ねるような不実を、おまえが責めたんだろう?……私は、大事な姉貴分の無事を確かめに来ただけさ」
「お聞きになったでしょう?マージョリー様。私に貴方を傷つけさせないで」
まあ、そこの逆臣が、この人を手に入れる器があればの話になるが。
「マージョリー・ゴス伯爵令嬢。王命だ」
「あぁ。やっと御身を、我が手に……!」
「きもーい!!」
「な、なんだとこのあばずれがッ……!」
ない、というのもまた、この5年で評価である。
「……逆臣、ユース・ロフ伯爵を処刑しろ」
「は?」
これはユース。
「もうしたわよ♡」
「……は?」
これはロイドの鳴き声である。
きぃ、と開いたカウンター奥のドアから、新しくマージョリーが出てきた。
「え?」
ユースは、なんかマージョリーから気を逸らした隙に、真っ黒通り越して闇なスライムに食われてない?
頭からイカれて声も出ないらしい。
なにあれぇと口元を覆ったが、幸い先程全て吐いたので、もう戻すものもない。
そして黒いそれは、透明度も低く、消化中のものを見せない親切仕様。
「あ、ありがとう……?」
「…………」
ついでに壊れた守りの破片とか、カウンターの吐瀉物まで片付けてくれた。
ぺこ、とスライムが会釈したのに合わせて、ロイドも働きを労って頷いた。
ことが済めば、ユースの持ち物だった装飾だけ吐き出して、店の出口からのそのそ這って出ていった。
あっそこからおかえりに?と突っ込む間もない。
一応ちゃんと拭いておきなさいよ、と濡らした布巾を渡されたので、それどころじゃなかったからだ。
荒い木目も綺麗に汚れを取ってくれたが、確かに吐いた後は気になる。
こうして拭きながら訊いたあのスライムの件だが。
「普段は森の奥にいて、飾りを壊したらすぐ入れ替わるようになってるの!」
こともなげに言いやがる。
シンプルに凶悪な手だ。
この黒い森の奥に【住める】魔物を人間にぶつけるのだ。
この女が王国の敵になっていないのを、ロイドは酒を煽りながら国王に感謝した。
「まだ俺何も言ってなかったよね?」
「私、人を背後から襲った挙句、脅迫して拉致をほのめかすのっていけないことだと思います……!」
「いやそれはそうだが死んで償うレベルかって判断は、本来手順踏むからな……?」
どこで学んできたのか胸の前で祈るように手を組み、覇者は小娘らしく小首を傾げている。
でも口唇を吊り上げて、愉快気に片目を細めた表情が下衆い。
うっかりこわ、と漏らしたのが聞こえたのだろう。
朗らかに笑うマージョリーの足元で、外の暗闇と同様のものが目に分かる形でうごめいた。
ロイドは海で討伐されたという、クラーケンの触腕を思い出す。
護衛が空手で構えた。結んだ契約は、魔法と武器の使用不可だけだ。
「昔馴染みのよしみで隠蔽してくれるかなって♡」
「個人的な殺人ならしないが〜〜〜〜?いや今回は王命だから褒賞ものだけども!」
「うそうそ。昨日王ピッピから事前に処しといてって連絡着てた系。ほら、文通してるから」
『マーちゃんへ まだあいつらついてないの?遅いね?ユース・ロフってやつ覚えてる?ただでさえダメなことやっちゃってるのに。マーちゃん死んでたら反魂の生贄とか考えてるみたいだから、掃除よろしく』
クソみたいな文に王家の紋章印を押すんじゃねぇ。
「くそ親父がよぉ!!」
「そもそも私の店で武器とか魔法使った奴、例外なく死ぬって入る前に説明と同意とったじゃない。だいたい、あんなわかりやすいとこに守りの要なんて置くはずないでしょ」
「はいはい自己責任自己責任」
「まぁ、事前に手紙あったから、いつもよりちょっと罠、増やしてはいたけど」
「ねぇ俺この後、席立った途端しぬとかない?」
「お行儀よくしてれば大丈夫よ。拉致、強姦はダメだけど」
「するやつのが珍しいだろうがよ」
着いてきた他の側近どもが、我慢しきれず首肯している。
己の欲望のために、他者に危害を加えてはならない。
何度教えてもそれがわからなかったから、ユースは殺すしかなかったんだが。
割れたユースの眼鏡と、紋章のついたローブの切れ端はちょうどよくぼろく酸で焼き切れている。
確実に事切れましたよ、という証拠はありがたい。
彼の実家での立場は、遺された髪飾りを大切に祀り、未だ墓参りを欠かされないゴス伯爵令嬢と異なる。
彼の尻拭いに難渋していた親族に、受け取ってもらえるかすらも微妙だが。
ユースという男は腕はいいが、嫌われていた。
……というか。
ロイドの立場が危うくなり、ただでさえ国家の揺らいだ時期でも考えられないことだが。
ようやくものになってきたロイドまで、側近の分際で他国の前でも貶し始めていたから、貴族の中でも立場を疑問視されていたのだ。
あれ、これ散々扱き下ろすマージョリーも同じでは?
違うのである。
この女、近衛の前以外で決してこんな真似はしない。
むしろ、傍らにおくと分不相応に評判が釣り上げられるので、よほど胃に穴があくことになる。
ともあれ、その方がマシだ。
少しでもロイドの急所があると判じられれば、他国からの侵略を惹起し、きっと余計な血が流れる。
能力主義故に、己の基準から落ちると判じれば見下す男に、今後も国の防衛を任せるわけにはいかない。
他の魔法使いが己を超えないように、呪殺して妨害するなら尚更だ。
今や他国にもユースより、人品優れた魔法使いは数多い。
今後の為にも、ここで殺しておくべきだった。
「大儀だった」
ロイドの言葉に、マージョリーは見事な騎士の礼を取った。
銀糸がランプの灯りに輝き、凛々しく引き締まった目元が伏せられる。
下町のおかみといった服装すら上等なドレスに見えてきた。
護衛からほう、と声にならぬ感嘆が漏れる。
「奴隷を触媒に魔力を底上げしていた男だ。うちには真っ当に腕を磨いた魔術師しかいない。手段を問わずあれを殺せる人間が、もうお前しかいなかったんだ」
これだけは間違いないが、心底ユースはゴス令嬢に惚れ込んでいたし、腕だけはいい魔法使いだった。
虎視眈々とロイドの首を狙い、王以外に秘匿されたマージョリーの行方まで暴き立てるくらいには。
適当に言い訳つく形で始末していいよ、とは国王よりロイドに下った命である。
誰も、マージョリー・ゴスを貴様に委ねるなどと命じた覚えはないのだが、なんだかうきうきとしてついてきた。
「あれを代わりの婚約者に据えられそうになった時は、正直この坊やをどう再教育してくれようかと思ったわ」
「ほんとお手数かけまして申し訳ありませんでした……」
まだあの当時はあそこまであれではなかった。
側近だった男に、浮いた立場になる姉代わりを褒美のように乞われたからと。
その程度にしか認識してなかった青二才の判断で、そんな大事を決めるなという話である。耳が熱い。
「まぁいいわ。白けちゃったし、飲み直しましょ。なんにする?肉でも焼いてあげようか?」
ロイドの未熟さを全て適当に赦すと、強者は言う。
「……あー、代金は払う。またあのスープが食べたい」
丁寧に肉を叩き、生姜とハーブを練り込んだ団子は間違いなくおいしかった。
そう伝えるとヒマワリが咲いたように笑い、スカートを翻して、大きな皿に盛ってくれる。
今度はマージョリーもジョッキを持ってきて、改めて乾杯したのだった。