第七話
懐かしい顔を見た。あくまでも見た、のであって会ったわけではない。こちらに気づかれる前に逃げたからだ。
油断していたのだ。上の空で歩いていたというだけで光路に罪はない。不意をつくような遭遇というのは避けようがない。
かつて自分が激しく恋い焦がれていた少女の姿は、実に心臓に悪いものだった。肉体的に。
元きた坂道を全速力で駆け下りる瞬間はあまりの格好悪さに死にたくなった。下り坂は足に負担がかかる。いっそ今の体型なら転がってしまったほうが早かったのではないだろうか。
息を切らしてコンビニの前でへたり込むと、身体機能が光路をクールダウンさせようと別府・竜巻地獄のような勢いで汗を噴き出し、もうタオルなんかでは吸収しきれない次元だ。
コンビニに出入りする客の中には光路を目にして、あからさまに顔をしかめる者もいた。「汗・デブ」という大変に見苦しい組み合わせなど、できるだけ見たくないことくらい分かる。分かるし、こちらとしても居たたまれなかったが、息が整うまで動く気にもなれないのである。
しかし、夕暮れにもほど遠い平日の昼下がりに、何故に彼女は校外を暢気に歩いていたのだろうか。健全な学生ならば眠たい眼をこすりながら昼空けの授業にのぞんでいる時間のはずだ。
光路は首をわずかに傾げる。高校生でなくなったからこそ目にする光景の一つとして、放課後でもないのに平気でそのへんをブラブラしている制服姿の連中というものがあった。
臨時休校、早退、遅刻。様々な理由が考えられるが、それにしては数が多すぎないだろうか。中退するまでは真面目一辺倒でやってきた光路としては、彼らの存在背景を想像することもかなわなかった。
「ハァ・・・・・・ハァ・・・・・・おぇ・・・・・・みずぅ・・・」
とりあえず失われた水分を補給すべく、重たい尻を何とか地面からひっぺがすことにした。
暑い、昼下がりはいつもと違う刺激によって、へとへとだった。
「光路くん。もうすぐ夏休みというものが始まる」
「はぁ。そうですか」
「ねえ、考えてみておくれ。周りは部活動にも一区切りつけて、受験という枷を自らはめてしまう。遊びの断り文句に『勉強があるから』なんて言われてみてごらんよ。私と勉強の時間、どちらが有意義か考えるまでもないというのに」
「はたして俺といる時間は有意義なのか」
何故、こうも当然のような顔で家に上がり込まれているのだろうか。
この無駄にきらめく美青年には、自宅直前のところで捕まった。
「やあ光路くん! 暑いね!」と手を振りながら近づいてきた優雅は、確信犯のタスキをかけているように見えた。
外見とは裏腹に、かなり胡散臭い人間であると光路は確信している。裏がないのに、自分に近づいてくるわけがないからだ。
「しかし、こうして涼しい部屋でノンビリと漫画を読む。これも正しい夏の過ごし方と言えなくもないね」
「王子様なんだから、休み中なんて引っ張りだこじゃないのか?」
「何を言ってるか分からないね」
「美容専門学校だって入学試験があるんじゃないのか?」
「名前を書けば受かるくらいだよ」
涼しい顔で答えた優雅は「よっこいせ」と立ち上がると、書棚からスラムダンクを一巻から最終巻まで全て本棚から引っ張り出してきた。
確実に今日中に読み終える気である。
「私は、面倒な受験勉強はしない!」
言い切った。
「俺が言えた義理じゃないけど、お気楽なこって」
「そうだよ。君だって受験しないじゃないか。私も似たような状況だから分かるけあど、競争の世界から外れるっていうのは、なかなか居心地が良い」
「けど、座りが悪いんだろう?」
「ふふ・・・・・・」
笑みと同時に歯を光らせた優雅は、人と会話するのにも漫画から目を離さない。現代っ子とは、いかなるものかと唸ってしまった光路だった。
何かしら答えねばと口を開きかけた瞬間、宅配便以外で滅多に鳴ることのない我が家のインターフォンの音が響いた。
優雅は全くの無反応。寛ぎすぎだろうと横目に見つつ、インターフォンの受話器を取ろうと立ち上がった。
「ん・・・・・・誰だ」
光路のマンションは一般的なロビーインターフォンで目的の住戸を呼び出し、開錠してもらってから入るタイプである。カメラも搭載されており、モニターで呼び出しを行った相手の顔を確認もできる。
モニターに映るのは高校生くらいの少女であった。光路には見覚えのない顔である。運送会社の人間ではないことは明らかだ。
そう考えているうちに相手をひたすら待たせるだけだと思い、とりあえずインターフォンをつないだ。
「あ、のー。すいませんけど、お部屋の番号間違えてないですか? うちは1014号室の大路っていうんですが」
光路が出たことでモニターの向こうの彼女がぴくりと反応する。こうしていると、監視しているような気分になって申し訳なくなる。もともと監視のためのものなのだが。
『私・・・・・・彩芽です。ひさしぶり』
「・・・・・・・・・」
ガチャリ、と勢いよく受話器を切ってしまった。そのままモニターの少女の姿を食い入るように見つめる。
「どうしたんだい?」
後ろに近づいてきた優雅がモニターをのぞき込む。その瞬間、息を呑む音が聞こえた。光路は優雅に訝しげな目つきを投げる。
「光路くん。彼女とはどういう関係?」
「なんだよ怖い顔して。友達、だちょ」
「だちょ?」
「噛んだだけだよっ。友達だよって言ったんだろうが! ていうか、お前こそ彩芽のこと知ってるのか?」
「彼女は転校生だからね。しかも、私のクラス。この時期に転校なんて珍しいって話題の人だよ」
「転校!? 嘘だろおい。だってアイツ・・・・・・中学ン時に沖縄へ転校してったんだよ」
「何で今更戻ってきたのかって? それは彼女に聞いてみないと分からないことじゃないか。ご家庭の事情かもしれないし」
「いや、そんなことより沖縄にいたのに肌が白すぎないかね」
「そこかーい」
力とやる気を感じさせない優雅のツッコミに光路は少しだけ嬉しくなってしまった。だが、こんなやり取りをしている場合でもないのだ。
先ほどからモニターに映る彼女が、恐ろしい形相で怒鳴り続けている。音声は切れているのでこちらに伝わらないが、光路としては出たくない。
まるで般若のような形相なのだ。情けないが、記憶を探っても光路があらゆる面で少女に勝てた思い出はない。
敗北のメモリーズが細胞レベルで染みついている故に、心の中でとうに白旗は揚がっているのだが、いかんせん身が竦んでしまっていた。
「まったく・・・・・・ぶるぶると震えているんじゃあないよ。あんなに可憐なお嬢さんを玄関前で立たせておくなんて、なってないよ。あ、もしもし能登さんだね?」
決して動こうとしない光路を見かねたのか、優雅が勝手にインターフォンに出てしまった。
『む・・・・・・このインターフォン越しでも伝わる美声は誰そ』
「やあ。同じクラスの優雅だよ。能登彩芽さん。春を思わせる君にぴったりな素敵な名前だったから覚えているよ」
『は、はあ・・・・・・』
電話越しに口説くな、と思ったが口を挟みたくともかなわないので、大人しく手を前にして組んで二人の会話を見守ることにした。
「まあ、このまま話すのもなんだし。あがっておいでよ」
「ってオイ!」
家主の了解も得ないまま、優雅は開錠ボタンを押してしまう。おそるおそるモニターをのぞくと、彩芽が何の躊躇もなくマンションに入ってくる光景があった。
「おい優雅」
「なんだい」
「俺、行くところができた」
「ちょっと。このタイミングでどこに行くっていうのさ?」
「パチンコだよ!」
「うわぁ・・・・・・」
そんな本気でどん引いた顔をするものではない。傷ついてしまうではないか、と当然の反応に対して思ってしまった。
「君と彼女がどういった関係なのか分からないけど、わざわざ尋ねてきてくれた旧友を無碍にすることもないだろ?」
「そういう正論とか、いらないんだよ。わかるか? あいつと最後に会ったのは中学生の頃だ。劇的ビフォーアフターもびっくりの仕上がりの俺に会ったら、絶対に嫌われるに決まってる」
「嫌われたくない、ってハッキリ言うところがかわいいよね。そうか・・・・・・たしかに彼女は中学までこっちにいたって自己紹介していたっけな」
こんな暢気な会話をしている暇すら惜しいのだ。エレベーターで上がってくるだろうから、階段を使ってすれ違えばいい。
急いで財布を持って、光路は家を飛び出そうとした。
来客を知らせる悪魔のチャイムが鳴り響いた瞬間、体が凍り付いたように止まってしまった。
「うそ、だろ・・・・・・。下からここに来るまで何秒だよ・・・・・・」
「ごめんくださーい」
「お、おおおおぅ」
後ずさった光路の肩をぐいっと掴んだ優雅はおかしげにドアに目をやった。
「お早い到着だね。お出迎えしなくていいのかい?」
「この悪魔め・・・・・・人の心をどこに置き忘れた」
全て確信犯に違いないのだ。改めてこの男の性根を見据える良い機会となった。
人畜無害な顔をして、人を陥れようとするこの男は間違いなく性格が悪い。
「もう俺の餃子は食わせてやらない」
「え、ちょっとひどいよそれは。謝るからさ。謝るからさー!」
「チャーハンも。麻婆豆腐も。天津飯も。五目そばもだ!」
何故かメニューが中華に偏っているのは、光路の得意料理が偏っているのに他ならないが、それほどまでに光路はこの優雅という男に手料理を振る舞っている。
よくよく考えてみれば、男同士でぞっとしない話だった。
ぶるりと悪寒がはしってしまった。
「ごめんくださーい! ごめんくださーい!! いるんでしょ光路!!! さっきからごっちゃごちゃドアの向こうで喋ってんの聞こえてますけど!! お久しぶりです! 元気ですか!」
「ちょっとあの子、錯乱してないかい?」
「大丈夫。あまり性格は変わってないみたいだ」
「どんな性格なんだ」
「とりあえず我を通したくてしかたがねーってとこ。お前とそっくりだ」
「心外だな」
こっちの方が百倍「心外」だと叫んでやりたかった。ドアをガンガンと叩く音まで追加され、いくらなんでもこれ以上の放置はまずいと判断した。
意を決してドアの前に立つ。すぅ、と深呼吸して数年ぶりの再会に心臓が締め付けられるような思いをたっぷりと味わう。
「いま、開ける。ただ、ちょっと言いたいことがある」
「はい」
「俺を見てびっくりすると思う。俺に対して言いたいことがめっちゃあると思う。あと、あと・・・・・・なんだ・・・・・・とにかく、あんまびっくりすんなよ」
しばらく無言が続いたが、小さな声で「うん」と言ったのが聞こえた。おそるおそる光路は重たいドアを開けた。
「ひ、ひさしぶりだな」
に変わらない、幼なじみの姿にこみ上げるものがなかったとは言えない。ただ、前に見たときより遙かに綺麗なった彼女が呆然としながらこちらを見ている。
「・・・・・・わお」
わお、はないだろうと光路は思った。