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西日の差し込む書斎で一人の男が頭を抱えている。貴族にしてはやや小心者で父から受け継いだ領地を治め、財産を食いつぶすでも一族を繁栄させるでもなく、次代に爵位を渡す事が目標となっているような凡庸な男。男爵は生まれてこのかた経験した事のない事態にひどく混乱し悩んでいた。
己の机に肘を付け頭を抱える姿は、昨日のどこか浮かれた雰囲気を微塵も感じさせない弱々しいものであった。そんな主の姿に先ほどから声をかけることなく控えている執事は憐憫を覚える。
どのくらい時間が経過したのか、不意に主が執事に問いかける。
「どうしたものか。セバスチャンよ。聖者様がお立ち寄りになり暫しの羽延ばしをという話だけではなかったのか...?それが到着早々部屋にお籠りになられお人払いされるなど...」
「はい。私もそう伺っておりましたが、どうやら大切な目的がお有りだったようで。しかしご安心下さい、僭越ながら先ほど聖者様とお話させていただきました」
執事の落ち着いた言葉に下ばかり向いていた頭をガバリと上げ目を輝かせる。
「それは真か!?」
「はい。真でございますご主人様」
常に人当たりの良さそうな老紳士然としたセバスチャンが、意識し安心させるように微笑むのだから威力は絶大だ。先刻から握りつぶされるかと思うくらい締め付けられていた心臓は解放され、代わりにもう大丈夫だという安心感が胸に広がる。
「そ、そうか。ならよい。で?」
「なにも気に病む事はございません。当初の予定通り聖者様は御用の道すがら男爵家に立ち寄られ、一泊され明朝には発たれます。それだけのことでございますよ」
「しかし、何か揉め事があったと聞いたぞ。まだ謁見はしておらんが...そのことは水に流してもらえるのか?」
「聖者様は大変心根の良い方のようにお見受け致しました。ご心配には及びませんよ。長旅でお疲れでしょうからご挨拶は夜会前で良いでしょう。それよりも私の方こそ予想外の聖者様の振る舞いとはいえ、つい差し出がましい発言をしてしまい申し訳ございませんでした」
「いやいや、気にする事はない。上手く行ったのならよい。ああ、それでだな今夜の夕食なのだが...」
申し訳なさそうに頭を下げる執事に、もう事は終わったとばかりに主の関心は今夜の夜会へと移っていく。
幼少期からそうであったが、次から次へと興味が移るなど主は男爵家の当主として心もとないところがある。先代もそんな息子を心配し有能な執事であるセバスチャンに己なき後の息子は任せたと、よくよく事あるごとに言っていた。先代との約束を果たすためにも、また大切に育て、目に入れても痛くないほど溺愛している主のためにも、心の罪悪感にはそっと蓋をする。
「…でだな、おい聞いているのか?」
「はいはい、聞いておりますよジョン様。準備は万全に整っておりますが、念のため確認もして参りますので、失礼いたします」
「わかった。お前に任せているのだから大丈夫だろう。では、また夕食前にな」
有能な執事は一礼し立ち去る直前、扉の前で徐に振り返り
「そうそう、このセバスチャンうっかり忘れておりました。使用人一人に暇を出そうと思っているのですが宜しいですか?」
分かっているのかいないのか、よいよいと了承した主を確認し、そっと部屋を出て扉を閉める。
これで明日にはこの男爵家に再び平穏が訪れるだろう。今日見た事聞いた事は墓場まで持って行こうと決めた執事の決意は固い。
夜会の準備のためマルジのもとへ向かう執事の足どりは一戦交えた騎士のそれと同じく疲れたものであった。
「さーて、どういう事かきっちり説明してもらいますからね!」
鼻息荒く反対側のソファに腰掛けるアシエルを睨みつける。信じられないったらない!
「もぅ〜やだなぁそんなに威嚇しないでよー。可愛いからついつい食べちゃいたくなるでしょー?」
照れたように顔を赤く染め、恥じる姿は悔しいが女のネティーが見ても可愛い。しかし発言の中身が全く可愛くないどころか不快である。
「もう!やめってったら!あんたの脳みそ沸いてるんじゃないの?最近特に危ない発言多いわよ。…ってそうよ!さっきの話はなんなの?人をペット扱いして。しかも人前で!挙げ句の果てに執事さんと勝手に何か話して決めちゃうし、もう訳が分からない!!」
「あはは、相変わらずのおしゃべりさんだなぁ。僕なりの黒猫ちゃんへのサプライズだったのにお気に召さなかったなら残念だよ」
「な に が サプライズよ、馬鹿!誤摩化さないでちゃんと説明してったら!」
「えーっとぉ、辛くて冷たい世界に生きる毛色の違う可哀想なはみ出し者の黒猫ちゃんを、突然現れた王子様が救ってあげる心温まる話のはずなんだけど…」
どう?とこちらの機嫌を伺うように小首をかしげ見つめてくる美しい人に怯むことなく勢い良く机に身を乗り出す。
「あんたがその世界に連れてきたんでしょうがああああああああ!!!!!この諸悪の根源!!」
余りの叫び声に窓辺に生けてあったバラたちがビクッと震え、さすがの聖者様も両耳に手を当てた。
「もー、幾らおまじないで声が漏れないって言ったって限度があるよ。ああ、もっと君と過ごしたいけどそろそろ夜会の時間だ。後でゆっくりまた遊んであげるから今は我慢しておいて?」
可愛くウインクひとつを飛ばし微笑むとネティーの意識は闇に沈んで行く。
ソファに沈み込んだ彼女に近づこうと一歩踏み出したアシエルがふと足を止める。
「なんだい、覗き見かい?」
窓際に向かい問いかけると今までそこにいなかったはずの人影があった。目に掛かるほどの長さの前髪と同様に短く切りそろえられた紺色の髪、ぱっちりとした二重の瞳をしたその人はアシエルの言葉にぶんぶんと首と手を振り否定する。
「いえ!我が主。そんなつもりは全く!」
あわあわと慌てる姿は子犬そのもので、彼女と近い色合いを持つ彼に憤りの気持ちも失せる。
「僕もつくづくペットには甘いよねぇ…はあ」
ネティーが聞いたら怒りだすであろう台詞を吐き、ため息をつくアシエルであった。