77話 『連鎖する戦慄』
享楽者は、生まれて初めて……
ーー"恐怖"を感じた。
彼女を襲った"感情"。
それは、人間ならば誰もが持ち合わせている
ーー最も原始的な防衛反応。
暗闇を前に身を竦ませるように。
死の気配を前に、心臓が早鐘を打つように。
生き物が本能的に抱く、最も古く、最も濁った生存本能。
『恐怖』
人間であった頃の享楽者が、自らを守るために欠落させた……
ーー深層記憶
最奥に封じ込めていたはずの
“原初の痛み”……
それが、今ーー
盤上の支配者の元へ……
静かに、刻み込まれた。
「ーー生きている……はずがない……!!」
蔦槍へと変貌させた左腕。
享楽者が伸ばしたその触腕を
ーー自らが殺したはずの依代が止めていた。
人間の脆さは、誰よりも知っていた。
命に価値を見出さなくなるほど、大量に殺してきたのだ。
だからこそーー
彼の"生存"が、何よりも魂に、"恐怖"を焚き付けた。
「ーーどうして……
どうして、お前が生きている……!!」
動揺を隠さぬ咆哮。
少女を象った終焉は、存在しない瞳を細め、"死に損ないの王子"を睨みつけた。
震える左腕。
異形化した蔦の槍から伝う振動を抑えながら、ウォーレンスは、血の味を噛みしめた。
「ーー"どうして生きているか"……
そんなこと……
……こっちが……聞きたいぐらいだ……。」
溢れかえった鮮血が、喉の奥へ逆流し、苦しそうな嗚咽が襲う。
それでも……彼の声は、揺るがなかった。
「けれどーー俺は、生きている。」
かすれた息の奥に、王族特有の凛とした威圧が宿る。
「ならば、成すべきことは決まっている……。」
焦げ付いた右手が、光を増す。
胸を抑えた左手が、優しく光を灯す。
両手に装着された理応変換機構。
粉砕装置であるはずの篭手が、彼の精神に呼応するように……生命を繋げていた。
アストレイン家に残る、最後の王族として
ウォーレンスは……己の信念を貫く。
「俺は、全てを"背負って"……
ーー歩くだけだ……!」
変わり果てた少女を真っ直ぐと見つめ……
孤高の王子は、揺るぎない"決意"を宣告した。
「……お前の"笑顔"を守るために……!」
祈りであり、誓いでもあった"約束"。
ミネとの思い出を……
ーーウォーレンスは強く、噛み締めた。
***
盤上に佇む、一人の"終焉"
ーー享楽者
彼女は、理解できない感情に襲われ、その場で静止していた。
ーーだが、そんな本能とは真逆に、盤上の支配者としての計算は反射的に行われる。
心臓を貫いたはずのウォーレンス。
彼が生きている"理由"を、享楽者は既に導き出していた。
(ーーあれは……失敗作では……なかったのか。)
彼女の目線に映るのは、拳に宿った眩い光。
ウォーレンスが装着している反逆の鉄槌。
ーー"理応変換機構"。
それは、"己の肉体"を素材として、逆奪者たちを騙して作らせたーー"実験装置"だった。
ミネの抵抗により、移植できなかった肉体部位。
瞳、右腕、両足。
その中の、三つに割られた四肢。
それらを利用し、享楽者は
新たな事象を"学習"しようと計画した。
彼女が求めた新たな学びーー
それは……
ーー"享楽者の模倣"。
今生きている自分でなくともいい、命の価値を失った楽園の支配者は、頂点に君臨させ続ける為の存在。
神化した享楽者を再現しようとしていたのだ。
その実験は、逆位相空間での"模倣体作成"と同様に、逆奪者を利用して行われた。
逆奪者たちへと、己の肉体をわざと譲渡し、人間の知識を使って、体内に宿る理層能力を、精密に分析する。
そしていずれは、再現の枠を超え……
ーー“自分以上の何か”を生み出すことを享楽者は期待していた。
……だが。
結果は、期待の真逆だった。
逆奪者の王としての信頼。
駒を効率よく動かすための分解装置。
依代を死なせぬための保険。
思いがけない副産物は多く得られたものの、"真なる目的"の達成には、至らなかった。
彼女が予定していた"肉体の精密分析"。
それは、掌で踊る逆奪者たちによって、粛々と行われた。
けれどーー解析によって完成された理層能力は
人間の手が加えられたが故に……
ーー人間が扱い易い形へと……"退化"してしまった。
右腕を母材に作られた分解装置。
理現する生命構造。
本来ならば、その武器は、"粒子操作"の理層能力を継いでいるはずだった。
しかし、実際に得られたのは……
ーー薄い“理層膜”を張る補助能力と、
ごく小規模な空間消失の拡張機能。
空間操作の域すら抜けなかった不良品。
原典にさえも及ばない失敗作に、享楽者は落胆した。
だからこそ、理応変換機構
の真価を、彼女は見誤った。
理を変換する破壊装置。
その母材と使われた両足には、"重力操作"の理層能力が宿っていた。
空中歩行や、気流の変貌による高速移動。
ブラックホールの生成による物体の消失など
ーー可能性を秘めていたが故に……
"出力を増幅させる"。
ただそれだけの力に過ぎないと判断し、享楽者はすぐさま興味を失った。
依代を移せば、肉体はすぐに元に戻る。
力を得たとて……逆奪者たちも所詮は人間。
自分の盤上に、敗北をもたらすことは無い。
その安易な"切り捨て"が……最恐の異端者を立ち上がらせる事になると……
ーー彼女は知りえなかった。
***
ーーギリィィィ……ッ!!!
焼き焦げた地を揺らすように、耳障りな摩擦音が戦場へ響き渡る。
落骸雨が降り注ぐ、地獄の盤上。
楽園と程遠い荒野を背に、享楽者は"標的"を切り替えた。
記憶の管理者の命を奪うために、己が伸ばした蔦槍。
その槍を掴み取り、イヴとルシェの前へと立ち塞がった者。
『ウォーレンス』
新たに生まれた"反逆因子"を前に、享楽者の本能が叫ぶ。
ーー"殺せ"。
体全身に走った"理解できない感覚"が、目の前の人間を"危険"と見なしていた。
ーーギィィ……!!!
硬い金属が歪むような鈍い音が空間に響き続ける。
相対する王と王子。
彼が守るものは比較の必要がないほど、対照的だった。
生き方も、背負ったものも、選んできた答え一つでさえ、何一つ噛み合わない。
けれどーー
彼らが下した決断に……
ーー相違はなかった
(ーーここで……
"こいつ"を討つ……!!!)
磨かれた殺意を心に灯し、両者は身体を震わせる。
変貌した左腕。
その触腕を掴んだ右手。
お互いに、最大限の力を拳に込める。
セラとカナンが苦戦し続けた"硬質な蔦"。
ウォーレンスは、それを片手で握りしめ、享楽者をじりじりと"引きずる"。
彼は、確かにイヴとルシェを守るため、鋭利な刺突を掴んで止めた。
けれどその行動は……
ーー攻撃を止めるだけが目的ではなかった。
ーーメリべキィィ……ッ!!!
「ーーッ……!!!」
享楽者へと、唐突な痛みが襲いかかる。
ウォーレンスの指が、硬質化された蔦を押し割りながらめり込んでいた。
彼は、二人の少女を守るだけではなく
既に"攻勢"へと……転じていた。
戦場の軍師は、支配者の先を行く。
伸ばされた蔦を引き寄せ……
ーー"本体"へと拳を叩き込む。
それがーー
ウォーレンスの計画。
全てを奪い、全てを守るための戦略だった。
穴が開き、引っ掛けを作られた触腕。
ウォーレンスは、そのわずかな起伏に指をかけ、拳へさらに光を束ねた。
硬質化した蔦が、悲鳴のような軋みを上げる。
享楽者の義足が地面を削り、土砂が弾け飛んだ。
本来ならば“圧倒的”であるはずの支配者。
その少女が、ただの人間ーー
いや、“死に損ない”の王子相手に、純然たる力比べで押されている。
ありえない情景だった。
けれどーー
「ーー勘違いするな……。」
嗤うでもなく、怒るでもなく。
享楽者は、冷徹な声音で告げた。
「私に……“敗北”はない……!
私は……
ーー"絶対的な勝者"なのだ……!」
震える左腕。
引きずられていく肉体。
それでも異形の支配者は、"負け"を認めなかった。
元より、彼女が単純な力の勝負を受け付ける理由など存在しない。
享楽者が、均衡を保っていたのは、ただの"エゴ"だ。
いつまでも絶望しない王子の顔を、圧倒的な差で歪ませたかった。
その"享楽"によって、本能さえも押さえ込み、ただ愉しむために“力”を使わなかった彼女は、己の身に死の影が触れた瞬間ーー
迷いも、誇りも、遊戯心すら切り捨てた。
左腕の細胞操作で変貌した触腕。
死言操作によって従えるデブリたち。
そして最後の禁じ手。
心臓から伸びる精神操作の管ーー
本来なら、依代を支配するための“裏側の力”さえ使い……
ーー享楽者は全力でウォーレンスを潰しにかかった。
「……ッ!!」
ーーそう……"行動した"、はずだった。
(何が……起きている……!!)
圧倒的優位を保つはずの盤上。
その計算が、一瞬で破綻した。
理解の外側から突き刺された異常が、思考の速度を鈍らせる。
(何故だ……どうして……!)
理層の脈動が沈黙する。
命令が流れず、細胞が応じない。
空気が凍りついたかのように、世界が自分の “支配” を拒んでいた。
(どうして……
ーー"理層能力"が、発動しない!?)
あり得ない。
否定すべき現象に脳が追いつかない。
享楽者に芽生えた新たな感情……
ーー"不安"。
恐怖と深く絡みつく未知なる感覚に、慣れきらない彼女へ……
一人の少女が、言葉を綴った。
「ミネ様は……リンゴがお好きでしたよね。」
空白の視線が、声の主へと吸い寄せられる。
享楽者は、その存在を危険視していなかった。
ただの補助者。
ただの解析係。
“駒にも満たない”力なき弱者。
ーーそう、思っていた。
「どうぞ……存分にご堪能ください……。」
だが、今目の前で言葉を落とす彼女は、不気味なほど落ち着き、深い哀しみを宿し……
ーー真っ直ぐに、こちらを見つめていた。
それはーー
享楽者が、盤上で最も軽視していた存在。
力も、武器も、精神力すら持たない異端者とも呼べなかった少女……
『ルシェ。』
「"私たち"が用意した……
ーー毒林檎の理層妨害を……。」
小さな背中が……"終焉"に結末を突き立てた。




