47話 『威厳と静優』
二度目の来城。
「ようこそ。お待ちしておりました。」
無駄のない所作で一礼するルシェは、最初に出会った日と変わらない。
だが、カナンたちの旅路は違っていた。
前回くぐり抜けた鉄の門ではなく、理層の光を渡り、空から舞い降りてきたのだ。
浮遊感の残る身体が、わずかに揺れる。
バランスを崩したイヴが、カナンの腕を掴んだ。
その拍子に、服にこびりついていた灰がふわりと落ちる。
光を反射しながら舞う灰片を見て、ルシェはわずかに微笑んだ。
「ご無事で何よりです、皆様。」
こうしてカナンたちは再びーーノード・ルークへと足を踏み入れた。
***
「ご案内いたします。
ーーどうぞ、こちらへ。」
ルシェの声に導かれ、彼らは輝く廊下を歩き出す。
光の線が壁を走り、足元に水の波紋のようなものを映していた。
空気はどこか静謐で、それでいて“生きている”ような鼓動を感じる。
前に訪れたときのノード・ルークは、
冷たい鉄と、威圧に満ちた“城塞”だった。
だが今、目の前に広がるのはーー
長い戦いを経て、人の温度を取り戻した、"貴族の館"。のように見える。
灯る光はやわらかく、暖かい。
かつての無機質な照明とは違い、どこか穏やかに思えた。
白磁の床を歩くたび、足跡が呼吸をするように光を返す。
イヴがぽつりと呟く。
「……ここ、前よりあったかいね。」
リオンもその変化を感じ取っていたようで、
ゆっくりと辺りを見回しながら言葉を漏らした。
「なんというか……お屋敷に来たみたいだ。」
壁沿いには花のような装飾灯が並び、どこからか微かな香りが漂ってくる。
金属の冷たさではなく、柔らかな空気が肌を撫でた。
ここはもう“戦いの場”ではないのだ。
カナンも、彩りを放つ光景に一瞬心を奪われた。
だがすぐに小さく息を吐き、出迎えてくれた少女へと言葉をかける。
「悪いな、ルシェ。
忙しい中、対応してもらって。」
「いいえ、お気になさらず。」
彼女は静かに首を横に振る。
「兄様から仰せつかったご用命ですしーー
私も、今はそこまで立て込んではおりませんので。」
言葉こそ整っていたが、ルシェの目の下には、うっすらと疲れの影があった。
廊下の灯りがそれを照らし、ほんの少しだけ
ーー彼女の素顔を覗かせる。
その一瞬で、ルシェがどれほど無理をして立っているかを、カナンは悟った。
ーーやがて数十歩廊下を進んだ先、ルシェはとある扉の前で止まり、すっと姿勢を整えた。
指先が小さく光を描く。
鍵の解放を告げるような音が鳴り、扉面を光の紋章が走る。
「――どうぞ、お入りください。」
彼女の声に応じるように、静かに扉が開いた。
カナンたちの目の前に広がったのは、まるで貴族の居室のように気品漂う空間だった。
壁には柔らかな灯りが等間隔に並び、
装飾こそ控えめだが、ひとつひとつの調度品が丁寧に配置されている。
黄金が使われていないにもかかわらず、室内全体がわずかな光を受けて、柔らかく輝きを放っていた。
それは華美さとは異なる、“理の均衡”が形を成したような静謐な美だった。
「うわぁ……!! すっごい綺麗ー!!!」
イヴが子供のようにはしゃぎ、部屋の中央まで駆け寄る。
透き通る声が響き、まるでその空間に“生”の色が差したようだった。
イヴを追って室内に入ったカナンは、頭を掻きながら困惑した表情を浮かべた。
「おいおい……俺たちのために、こんな部屋まで用意したのか?」
口を開けて天井を見上げる彼に、ルシェは静かに微笑んだ。
「いえ、もともとは私たちの自室として設えられた部屋です。
ですが、使用する機会はほとんどございませんので――ご自由にお使いくださいませ。」
「だいぶ豪華な飾り付けがされてるね……。」
リオンは苦笑しながら、壁際の装飾に視線を向けた。
窓から差す光が金属の縁をなぞり、静かな輝きを返している。
「"私たち"って事は、ルドさんもここを使ってるのかな。」
その問いに答えるように、背後から落ち着いた声が響いた。
「わしは要らぬと言ったのだがな……。」
振り返ると、そこにはルドが立っていた。
背後から廊下の光を従え、穏やかに笑う。
「ルド……!」
カナンが驚き、思わず声を上げる。
「久しぶりじゃな、小童。
そこまでボロボロになっても生きとるとはーー
……運の良い奴め。」
口調は軽く、まるで冗談のようだった。
だが、その目には、確かな安堵の色が宿っていた。
「あぁ、おかげさまでな……。」
カナンは息を吐き、小さくも威厳のある指揮官へ言葉を返す。
彼とルシェの手助けがなければ、自分たちはあの地獄を生き延びることすらできなかった。
その事実を思うだけで、胸の奥が静かに熱を帯びた。
そんな彼らのもとへ、イヴが駆け寄ってきた。
ぱたぱたと足音を響かせながら、好奇心いっぱいの声で問いかける。
「――ねぇ、ルド〜!
ほんとに、こんな大きいお部屋使っていいの?」
「あぁ、構うでない。」
ルドは腕を組み、柔らかく息を吐く。
「ここは、ミネが勝手に用意した我々の部屋だ。
だが……ルシェの言った通り、使うことはほとんどない。
あいにく――自室で落ち着く暇など、持ち合わせておらんのでな。」
カナンは小さく笑い、肩を竦めた。
「管理職ってのは、大変なんだな……。」
「全くだ。」
ルドはわずかに目を細め、笑みとも溜息ともつかぬ息を漏らす。
「次から次へと仕事が舞い込む。
処理しても、処理しても、また新しい問題が顔を出す。
……まったく、厄介なものだ。」
一拍の静寂。
ルドは視線を床に落とし、かすかに声を低める。
「だがーーそれでも、死ぬよりは幾分かマシだがな。」
その言葉には、ただの冗談ではない重みがあった。
彼が見てきた“死”と、“それでも生き続ける者”への静かな敬意。
軽く笑みを浮かべながらも、瞳の奥に痛みを募らせていた。
「兄様、兵装開発の打ち合わせはよろしいのですか?」
ルシェはそんな彼へ近寄り、耳打ちするようにそっと尋ねた。
「あぁ、問題ない。」
ルドは軽く頷き、視線を廊下の奥へ向ける。
「どうやら“向こう”が来てくれるそうでな。
……多少、余裕ができた。」
何やら、新しい装備の開発が進んでいるようだがーー
カナンは「どうせ説明されても理解できない」と悟り、黙って聞き流すことにした。
そんな彼の地雷を、リオンはためらいもなく踏み抜く。
「……誰か来るんですか?」
カナンは一瞬、虚無を纏ったような表情になった。
目の焦点がわずかに泳ぎ、魂が抜けかけたように天井を仰ぐ。
顔には出さず、ただ深く息を吐いた。
だがそんな彼の小さな絶望を避けるように、ルドはほんの少しだけ悪戯っぽく笑った。
「さてーーそれは、お楽しみにしておこうかの。」
穏やかな笑みと共に、ルドは軽く肩をすくめた。
冗談めかしたその声が、しばしの沈黙を生む。
「ーー兄様……」
やがて、リオンとの戯れを止めるようにルシェがルドへと声をかけた。
それは問いではなく、心配の滲む呼びかけだった。
疲労の色が抜けない兄の顔を見つめながら、彼女はわずかに眉を下げる。
ルドはその視線に気づき、わずかに目を細めて微笑んだ。
「ーー失礼、休息の邪魔をしたな。」
言葉の調子をやや柔らげながら続ける。
「医療班はすでに手配しておる。
じきに到着の知らせを聞いて、部屋へと来るだろう。
……しばらくは体を休めると良い。」
穏やかに告げるその声には、
“彼女を安心させたい”という、静かな気遣いが滲んでいた。
彼はそう言いながら、視線をルシェへと移す。
彼女の目の下にうっすらと疲労の影を見て、眉をひそめた。
「それとルシェ。お前も少し休め。
疲れが溜まっては、ろくな判断ができぬからな。」
「ですが兄様……」
ルシェは一歩前に出ようとする。
唇を引き結び、その瞳には“共に歩む者として、背を向けられない”という想いが滲んでいた。
妹の反応を見たルドは、目を瞑って少しだけ俯き、微笑とも、ため息ともつかぬ表情を浮かべた。
「……あぁ、間違えたな。」
一瞬、ルシェが息を止める。
兄としての呼びかけを、指揮官としての言葉に戻したのだと、すぐに悟った。
「ルシェ。客人を頼むぞ。」
だが、短い言葉に込められたのは、
“休息を与えるための命令”という、兄なりの優しさだった。
ルシェは小さく頭を下げる。
その仕草には、兄への敬愛と感謝を――
そして、彼の思いやりを受け取った静かな誇りが滲んでいた。
「……かしこまりました、兄様。」
ルドは彼女の返事を聞き、ほんのわずかに口角を緩める。
その一瞬だけ、彼は司令官ではなく、“兄”の顔となっていた。
「ーーカナン、リオン、そしてイヴよ。
いきなりで済まぬが、わしはもう行かねばならん。」
ルドは軽く背筋を伸ばし、視線を三人に向ける。
その声音には、疲労の影を滲ませながらも、確かな威厳が宿っていた。
「この部屋は好きに使ってくれて構わん。
必要なものがあれば、ルシェに用意してもらってくれ。」
ほんの一拍、間を置いてから、穏やかに言葉を継ぐ。
「……お前たちがここにいる間くらいは、世界も少しは静かであろう。
ーー存分に疲れを癒すとよい。」
ルドはそう言い残し、踵を返して音出すことなく廊下を歩き出した。
伸びた影がゆっくりと遠ざかっていく。
その小さな背には、威厳と優しさ――
相反する二つの重みが、宿っていた。
彼の姿が廊下の向こうに消えていく。
しばらく見送ったのち、イヴはぽつりと呟いた。
「……いい人だね。」
その言葉に返すように、隣でルシェが微笑む。
少しだけ瞳を伏せた後、声を落とすように答えた。
「はい。ーー私の……とても優しい、お兄様です。」
***
しばらくして、ルドが手配してくれた医療班の人々がやってきた。
白衣の袖が静かに揺れ、薬品の香りが微かに広がる。
「ルシェ様、お待たせいたしました。」
彼らは小柄な少女へ一礼し、道具を手早く広げ始めた。
ルシェは軽く頷き、柔らかく告げる。
「……えぇ。彼らをお願いします。」
医療班の手が動き出す。
包帯の白と銀の器具が整然と並ぶ様は、まるで儀式の刻印のようだ。
リオンの擦り傷に、冷たい消毒液が染み渡る。
ピリ、とした刺激に彼が顔をしかめると、
看護兵の一人が微笑みながら言った。
「どうか、少しだけ我慢くださいね。」
隣では、カナンの切り傷に縫合の針が通る。
肌を縫う細やかな音と、浅い呼吸の音だけが部屋を満たす。
痛みよりも、ようやく“助かった”という実感のほうが重く胸に残った。
「……あぁ、ちゃんと、"生きて"帰ってこれたんだな。」
呟きは、誰に聞かせるでもなく、空気の中へ溶けていった。
独り言のように放たれたその言葉に、
包帯を整えていた医療班のひとりが、静かに応えた。
「モニターで見てましたが……本当によくご無事で何よりです。」
カナンは苦く笑い、視線を落とした。
「運が良かっただけさ。」
皮肉のようでいてーーそこには、どこか実感を伴う重さがあった。
脳裏にルドの言葉がよみがえる。
ーー運の良い奴め。
あの言葉が、嘲りでも称賛でもなく、“生き残ったことへの安堵”だったのだと、理解はしている。
それでも、あの戦場で死んでいたのが"自分"だった可能性もーー決して、ゼロではないのだ。
もしも、トルヴァたちと行動を共にしていたら。
もしも、ヴァルツの糸が最初に自分を狙っていたら。
ーー今ここに、生きてはいなかったかもしれない。
そんな考えが胸の奥を掠めた時、
医療班の一人が、まるでその沈黙を察したように口を開いた。
「それでも、あなたが生き残ってくれて良かった。
……私は、そう思います。」
不器用な言葉だった。
けれど、その声音には確かな温度があった。
胸の奥に重く沈んでいたものが、
ほんの少しだけ、静かに解けていくように感じた。
「ーーはい、傷口の殺菌と消毒は済ませました。
ですが、皮膚はまだ完全には繋がっていませんので……しばらくは安静にしてくださいね。」
二人の治療が終わり、医療班が包帯を巻こうと白布を取り出す。
薬品の匂いが薄れていく中、静けさが部屋を包み込んだ。
その背後から、タイミングを見計らったように声が届く。
小さく首を傾けて、イヴが顔をのぞかせた。
「終わった?」
そう言いながら、てけてけと歩いてきたイヴは、小首を傾げながらカナンの包帯へそっと手を伸ばしかけた。
「ちょ、ちょっと……イヴ?」
リオンが慌てて声をかけるより早く、
ルシェの優しい声がそれを制した。
「イヴ様。
まだ傷は癒えておりませんので、安易に触れてはダメですよ。」
その声音には、叱るというより“心配”が滲んでいる。
イヴはその声に反応して、動きを止める。
少し考えるように視線を落としーーそして、静かに笑った。
「大丈夫。触りはしないよ。」
そう言ってーー
伸ばしかけた手を、そのまま包帯の上にかざす。
掌に淡い光が集まり、空気がふわりと揺れた。
それは熱ではなく、記憶の揺らぎーー。
「あぁ……!」
リオンの思い出したような声と共に、彼女の理層が展開する。
傷口の“過去”が薄膜のように浮かび上がり、破損だけを抽出する精密な光を浮かばせた。
やがてそれらは、包帯の奥へと染み込んでいく。
失われた皮膚の断面が、
まるで“その瞬間の記憶”を貼り合わせるように噛み合い、ゆっくりと現実へと再構築された。
医療班の者たちは、息を呑んだまま動けなくなった。
ルシェもまた心配を忘れ、ただ静かにーー
記憶と理が織り成すその修復を、目に焼き付けていた。
やがて光が消える。
カナンの腕には、もはや傷跡ひとつ残っていない。
痣に覆われていた肌も、焼け焦げた皮膚も、
まるで“過去の痛みだけを切り取られた”かのように静まり返っていた。
「ありがとうな、イヴ。
おかげで痛みが引いた気がする。」
カナンは腕を上げて、肩を回す。
「皮膚を繋ぎ合わせただけだから、ちゃんと安静にはしてね。」
イヴは柔らかく笑いながら、手を引いた。
監視者との戦闘のときとは違い、
カナンの傷はすでに時間が経ち、不純物が多く混ざっていた。
だからーー彼女は記憶による再生修復の前に、殺菌と消毒が行われるのを、静かに待っていたのだ。
カナンが終わり、リオンの修復も行われる。
「改めて見ても……すごいな。」
リオンは、自身の腕にも同じ光が流れるのを見つめながら呟いた。
二人にとっては当たり前のような光景ーー
けれど、ルシェをはじめとする逆奪者たちは、未だに息を呑んで見入っている。
信じがたいものを前にしたような、その目の揺らぎが静かな部屋に並んでいた。
治療後の確認や記録を終え、部屋の空気がようやく落ち着きを取り戻す。
医療班たちは互いに小さく頷き合い、最後にルシェへと向き直った。
『ーーそれではルシェ様、こちらで失礼いたします。』
丁寧に一礼したのち、医療班は白衣の裾が揺らしながら退出していった。
足音が去り、わずかに空気が緩む。
「記憶の力……やはり興味深いですね。」
ルシェが部屋へと向き直り、ぽつりと呟く。
その声には興味だけでなく、解析者としての本能が滲んでいた。
彼女の視線に気づいたのか、イヴは首を傾げ、手で髪を整える。
「……何か付いてる?」
ルシェはそんな仕草を見て、思わず小さく笑みをこぼした。
「ふふ……失礼しました。
そんなことはございませんよ。」
穏やかに言葉を返し、彼女の視線はイヴの服に向く。
「ですがーーお召し物が少し汚れているようですし、浴場へご案内いたしましょうか。」
「……浴場。」
イヴが一瞬だけ動きを止める。
次の瞬間、ぱっと目を輝かせてーー
「お風呂!!!」
声と同時に勢いよく立ち上がる。
花火のように、喜びが弾けた。




