40話 『血塗られた脚本』
「お前を殺す作戦はーーもう終わっている」
その言葉は、静かに燃え続ける劇場に、冷えた空気を吹き付けた。
瓦礫と灰のなか、ゆっくりと時間だけが流れていく。
そしてカナンの宣告は、微かだが確実にーー
「何……?」
ヴァルツの声を震わせた。
舞台へ向けられた歓声は拍子を辞め、演者への喝采が途切れいく。
だがすぐに、疑心は嘲りに変わる。
『なんてくだらない……
嘘を吐くにしても、もう少し上手にしなよ。
“視えない殺し”ーー芸術としては美しいけれど、演出としては稚拙だね。』
ヴァルツは、脚本へバツを書くように批評した。
カナンは低く呟く。
「嘘、か……。」
視線を上げ、冷たい声で続ける。
「お前がそう思ったのなら、人形劇も終幕だ。」
カナンの目線は、焦げた天井……
そこに吊るされた死体へ向かっていた。
「……主役は俺でも、お前でもない。」
静かに、しかし舞台全体へ響く声でカナンは告げた。
「言ったはずだ……
ここは、逆奪者の舞台だと……。」
ステージの外――。
囲まれた防音幕の向こう側で、彼らも同じ天井を見上げていた。
"劇場右上"、焦げた梁の一角。
そこに、全員の視線が集まっていた。
粉塵爆発によって糸を焼き切られ、崩れ落ちたはずの死体たち。
けれど、その場所だけは形を保ち、
まるで“舞台の幕”を閉じまいとするように沈黙を貫いている。
異様に“整った”人形ーー
〈ヴァルツ《裏切り者》の座席〉を守るように……。
彼にとって、劇を眺める場所として最も適していたのは、高所だ。
演出家として、舞台全体を俯瞰できる“理想の席”。
だが――その理想に浸りすぎた。
劇へと集中しすぎたが故に、彼は“舞台の外”への認識を疎かにしていた。
「舞台に熱中しすぎたな、演出家。」
カナンの言葉が、乾いた空気に刺さるように落ちる。
その声は怒りと冷ややかさを混ぜた短い台詞だった。
「そんなに目を奪われたなら、感想を聞かせてくれよ。
俺の演技ーーお前を殺すという芝居は、楽しめたか?」
舞台の上の吊られた人形。
"観客"の視線はそこへ向けられ、誰もがその中の“主”を注視していた。
「……まさかッ!?」
その瞬間、劇場の静寂が破られた。
ーーパツン。
ヴァルツを吊っていた“人形”の糸が切れる。
人形が自然落下を始めると同時に、上空で短い悲鳴が上がった。
「……なッ――!?」
その声と重なるように、人形の胸部が裂け、蓋のような板が跳ね上がる。
中から、焦げた白衣を纏ったヴァルツが飛び出した。
その顔には、これまで一度も見せたことのない“驚愕”の色が浮かんでいる。
「……まさか、気づいて……!」
ヴァルツは即座に反応し、落下する前に壁へと糸を発射する。
無数の糸が空中で花のように広がり、彼の身体を支える
……ことは、なかった。
轟音を立てて吊られた空間を蹴り上げ、ウォーレンスが間近に飛び込む。
音が一つ、劇場の熱気を裂いた。
ガンッ、と鈍い衝撃。
ヴァルツの糸が広がるより早く、ウォーレンスの手がその頭部を掴む。
次の瞬間、彼は白衣ごと床へと叩きつけられた。
焦げた埃が宙に舞い、舞台が軋む。
鈍い振動が鳴り響く。
砂塵を抜けて、逆奪者たちがヴァルツを包囲した。
「ヴァルツ、お前は人の死を理解できるか?」
輪の中心。
ウォーレンスは震える指先で彼の顎を掴み、顔を無理やり正面に向けさせた。
視線は氷のように冷たく、掴んだ手には怒りと哀しみが混じっている。
ヴァルツは、血を滲ませながらも唇を歪めて笑った。
その笑いはどこか軽やかで、だが人間らしさを失っていた。
「理解……か。
面白い問いだね、兄さん。」
一拍の間。
ヴァルツの瞳が細まり、声がわずかに熱を帯びていく。
「人の死? ああ!理解したよ!
理解したからこそ、もっと表現することができるって思ったんだ……!」
その言葉に、逆奪者たちの一部が身を震わせた。
灰の匂いが重く沈み、空気そのものが圧を帯びていく。
「……人の命は、人形じゃない。」
ウォーレンスの声は低く、静かに怒りを滲ませていた。
その一言が、劇場の熱気をさらに冷やしていく。
「何を当たり前のことを――!
命があったら、人形にはなれないよ……。」
ヴァルツは荒い息を吐いた。
その目には、興奮と疲労がないまぜになっている。
「だから僕は、“死”を組み込んだのさ!!
それらを縫い合わせて生まれる"表現"こそが、既存の倫理を超えたーー真の芸術なのだから……!!」
彼の言葉はもはや、狂気と呼ぶことすら憚られるほどの闇を孕んでいた。
「君たちはただの観客に過ぎない。
だが僕は——台本を書き換えた。
舞台を“現実”にしたんだよ。」
その声は静かで、しかし確かな熱を帯びていた。
傍らへ寄ってきたカナンの拳が小さく震える。
誰もが言葉を失う中で、リオンだけが歯を食いしばっていた。
握った拳が赤くなり
彼の胸の奥で、抑えてきた何かが弾ける。
「人を道具にして遊んだだけだろうが!!!
それは芸術でも、表現でもない!」
リオンの声が割れ、劇場の残響が悲鳴のように返ってきた。
床へ突き刺さる剣先が、怒りと抑えきれぬ悲しみを交互に映し出す。
今にも斬りかかりそうなリオン。
その背を、誰も止められなかった。
――ただ一人を除いて。
「……やめろ、リオン。」
ウォーレンスの声は驚くほど穏やかだった。
焦げた劇場の空気の中で、その静けさだけが異様に響く。
カナンがわずかに息を呑む。
怒りの渦の中心で、彼だけが氷のように落ち着いていた。
「もういい、もう……終わらせよう。」
その手が、ゆっくりとヴァルツの頭を押さえ込む。
指先に力がこもり、骨の軋む音が劇場に響くーー
ミシミシッと鈍い音を立ててヴァルツの頭蓋骨が砕かれ始めた。
「……ッアッガッ!!!」
彼の目が大きく見開かれ、喉が濁った音を漏らす。
「ヴァルツ……もう何も覚えなくてもいい。
何も忘れなくてもいい。」
ウォーレンスは静かに語りかけた。
怒りではなく、赦しにも似た声音で。
頭を握り潰されかけたヴァルツは、必死にその手を振りほどこうと叫ぶ。
「やめ…ろ……やめ…てくれ……! 兄さん……!」
彼の声は、悲鳴とも懇願ともつかぬ震えを帯びていた。
その目には涙が滲み、恐怖と後悔が入り混じる。
だが、ウォーレンスはーー
「お前の罪は、俺が背負ってやる。」
その言葉を拒むように言い放ち
「兄さん!!にいざぁぁぁぁぁぁーーー」
グシャ……
鈍い衝撃を劇場に響かせた。
空気が一瞬、止まる。
脳髄が弾け、灰混じりの床に散り
抜け落ちた目玉が一つ、床を転がって静止した。
顎から下を残した身体は、糸の切れた人形のように崩れ落ち、ドサッと音を立てて沈黙した。
劇場に残ったのは、鮮血と――
彼が抱え続けた“歪な理想”だけだった。
*****
静寂。
それはまるで、幕が下りたあと――
拍手のない終演のように、劇場へ“終わり”を運んできた。
カナン、リオン、ウォーレンス、
そして他の逆奪者たち。
前衛メンバーの一部を失いながらも、
彼らは生き残り、裏切り者の処刑を完遂した。
その結末は、歓喜でも勝利でもなく、
ただ、虚無の静けさだけが残った。
その静けさを割くように、無線機が鳴る
『ウォーレンス聞こえるか!?』
ルドの声が焦りを帯びて響いた。
ウォーレンスは踵を返し、耳に手を当てる。
「あぁ、今…ヴァルツを殺し――」
だが、報告を終えるより早く、
回線の向こうに一つの不穏な声が割り込んだ。
「――あぁ、これは酷いね。」
その声には軽やかな笑みがあった。
「笑顔どころか、顔すら見えないや。」
「……!!?」
誰もが息を呑む。
焦げた劇場の中央――
光の届かぬ暗闇の奥で、黄金の装飾を纏った人影が立っていた。
「…………!!!!???」
それは“存在”というより、“概念”の形をした何かに見えた。
天井に反射した炎の光が、彼の輪郭を歪ませる。
まるで、金色の仮面を被った神話の像が、現実へと溶け出したように、目の前に姿を君臨させていた。
「享楽者……!?」
カナン、リオン、ウォーレンスは同時にその名を呟く。
理解と恐怖が同時に胸を貫いた。
その瞬間、時間が軋んだ。
空気が重く、音が遠のく。
誰も動かない。
誰も息をしない。
焦げた劇場の天井から、灰が一片――ゆっくりと落ちる。
それが床に触れるまでのわずかな間が、永遠に思えた。
そして、思考が止まった。……。
『退け!!距離を取れ!!』
彼らの意識を戻すが如く、ルドが無線越しに叫ぶ。
「ウォーレンス!早く避け――!」
しかし、その警告が最後まで届くことはなかった。
ザァァァァ……
紫の霧が床を這い、天井へと逆流する。
回避する間もなく、ウォーレンスの身体が光の粒子に包まれた。
全員が見た。
彼が霧に飲まれていく様をーー。
皮膚が粟立つほどの冷気が流れ、呼吸が止まる。
紫色の世界が、ウォーレンスを喰らうように消し去った。
「ウォーレンスッ!!!」
リオンの叫びが木霊する。
応答はない。
享楽者は"彼の居た場所"を踏みしめるように灰を散らした。
金色の装飾が光を返し、炎の残滓そのものが人の形を取るように眩く照らす。
そして、愉悦の支配者は笑う
「ヴァルツに習うならーー」
余韻のように柔らかく
「第三幕、開演。ってところかな……。」
終焉の如く……残酷に。




